第003話 正室ユリア、沈黙の承認
正室様。
その言葉が廊下に落ちた瞬間、空気が止まった。
従者は悪意で言ったわけではない。
むしろ、完璧に礼を尽くした声だった。
だからこそ、逃げ場がない。
正室様のお部屋は、こちらに。
ユリアがそう呼ばれる。
聖夜は、その意味を理解するより先に顔が熱くなった。
ユリアも、ほんの少しだけ目を伏せている。
恥ずかしい。
たぶん、それはある。
だが、それだけではない。
この国で正室という言葉が、ただの恋愛関係を指すわけではないことくらい、聖夜にももうわかっていた。
従者の後ろには、旧宮の女官たちが控えていた。
年配の女官。
若い従者。
記録板を持つ者。
彼女たちは、すでに部屋割りを整えている。
「読み上げます」
年配の女官が言った。
クローナは少し離れた場所で見ている。
止めない。
つまり、これも手続きの一部ということだ。
「ユリア殿下、正室様として東離れ主室へ」
聖夜の喉が詰まる。
「神酒聖夜様、伴侶候補として隣室へ」
「ちょ」
声が出かけた瞬間、美羽の視線が飛んできた。
刺さる。
本当に刺さる。
聖夜は口を閉じた。
女官は続ける。
「真壁美羽様、天羽ここな様、ラヴィニア・ルクレツィア様、イリヤーナ・ネメシエル様は、側室候補として西控えの間へ」
今度こそ、全員が止まった。
ここなの顔がわかりやすく赤くなる。
美羽は目元を押さえた。
ラヴィニアは眉を吊り上げる。
イリヤーナだけが、なぜか少し静かに微笑んだ。
それが一番怖い。
「待って」
聖夜は反射的に言いかける。
美羽が、今度は視線だけでなく、手で止めた。
小さく横へ振る。
今は駄目。
そういう合図だった。
「いや、でも」
「聖夜」
ここなが、赤い顔のまま小声で言った。
「一回、深呼吸」
「できる状況か、これ」
「できないからするんでしょ」
正論だった。
聖夜は無理やり息を吸った。
全然落ち着かない。
伴侶候補。
側室候補。
正室。
言葉だけなら、第一幕の馬鹿みたいな恋愛値騒動よりひどい。
だが、笑えない。
ここで否定すれば、何が起きるかわからない。
ラヴィニアが一歩前へ出た。
「勝手に分類される趣味はございませんわ」
鋭い声だった。
怒っている。
ただし、聖夜にではない。
制度そのものへ向けた怒りだ。
「わたくしは誰かの所有物ではありません。まして、名も知らぬ宮の帳簿で役割を決められるなど」
女官は動じなかった。
「仮分類でございます」
「仮でも無礼ですわ」
ラヴィニアの言葉に、聖夜は内心で頷いた。
その通りだ。
だが、ここで自分が同じ言葉を言えば、また違う意味になる。
殿下の隣に立つ人間が、魔の国の分類を拒んだ。
側室候補とされた者たちを切り離した。
そう読まれるかもしれない。
美羽が静かに口を開いた。
「確認します」
委員長の声だ。
「これは確定した身分ではなく、旧宮側の仮分類ですね」
女官は頷く。
「謁見前の滞在区分でございます」
「なら、そのように記録してください。本人たちが了承した身分ではない、と」
女官の目が、美羽へ向く。
少しだけ、評価するような目だった。
「承知いたしました」
美羽は聖夜を見た。
今はここまで。
そういう目だった。
イリヤーナが、静かに言う。
「妻でも側室でも、名など些末です」
「些末じゃない」
美羽とラヴィニアの声が重なった。
イリヤーナは微笑む。
「わたくしは、あなたのために在ります。それだけです」
聖夜の背筋が冷えた。
好意だ。
たぶん、紛れもなく好意だ。
だが、危うい。
自分のために、という言葉が、彼女自身の形を削ってしまいそうで怖い。
ここなも、それを感じたのか、軽くイリヤーナの袖を引いた。
「名前、些末じゃないよ」
「そうでしょうか」
「そう。だって、うちら、役名でここにいるんじゃないし」
ここなは赤い顔のまま、でも真面目に言った。
「側室って、響きだけ聞くとえらいことになってるけどさ」
そこで少しだけ笑って、空気をほどく。
「うちら、聖夜をひとりにしないって決めたじゃん」
聖夜は言葉に詰まった。
ここなは茶化しているようで、肝心なところを外さない。
側室候補なんて言葉で括られたくない。
けれど、ここで完全に拒めば、一行の居場所がなくなるかもしれない。
自分たちは、聖夜の所有物ではない。
同時に、聖夜を一人にはしない。
その両方を、ここなは一息で言った。
ユリアが、一歩前に出た。
その瞬間、女官たちの背筋が伸びる。
聖夜も、呼吸を止めた。
ユリアは長く説明しなかった。
言い訳もしない。
嫉妬も見せない。
ただ、女官たちを見て言った。
「この者たちは、私と聖夜が連れてきた」
短い言葉。
それ以上は言わない。
けれど、その一言で十分だった。
下げるな。
排除するな。
勝手に切り離すな。
そういう意味が、沈黙の中に置かれた。
年配の女官が深く礼をする。
「承りました」
女官は記録板へ何かを書き込む。
「正室様の承認あり。側室候補各位、排除対象にあらず。西控えの間を開きます」
聖夜は、頭の奥がくらっとした。
ユリアが拒まないことに意味がある。
それだけで、彼女たちの居場所が作られる。
逆に言えば、ユリアがここで拒んでいたら、どうなっていたのか。
考えたくなかった。
「ユリア」
聖夜は小声で言った。
「いいのか、こんな扱い」
ユリアは、聖夜だけを見る。
「ここで否定すれば、彼女たちの居場所がなくなる」
「でも」
「私は、嫉妬している場合じゃない」
その声は小さい。
小さいのに、ひどく強かった。
「あなたたちを連れてきた。だから、守る」
聖夜は何も言えなかった。
ユリアが正室と呼ばれることを、ただ恥ずかしいとか気まずいとか、そういう次元だけで見ていた自分が恥ずかしくなる。
彼女はもう、王族として判断している。
自分の感情を後ろへ置いて、一行の居場所を作っている。
美羽が、記録板を横目で見ながら言った。
「正室の承認が居場所を作る。でも同時に、聖夜への責任も増える」
聖夜は美羽を見る。
「どういうことだ」
「私たちが排除されない理由が、ユリアさんとあなたに紐づくってこと」
美羽の声は冷静だった。
「つまり、私たちは客人じゃない。あなたたちの関係の中に置かれる」
重い。
また一つ、重くなった。
聖夜は、今すぐ全部否定したくなる。
違う。
そういうつもりじゃない。
誰も側室じゃない。
誰も自分のものじゃない。
そう叫びたい。
だが、叫んだ後に彼女たちの部屋が消えるなら、それは守ったことになるのか。
わからない。
わからないまま、今は飲み込むしかない。
ラヴィニアが腕を組んだ。
「利用されるなら、こちらも利用してやればよろしいのです」
「ラヴィニア?」
「旧宮がわたくしたちを側室候補として置くなら、その区分に伴う保護と発言権も要求できますわ」
怒りはまだある。
だが、彼女はもう怒りだけでは動いていない。
制度に分類されたなら、その制度の中で取れるものを取る。
貴族らしい、したたかな判断だった。
「所有物扱いされたまま黙る気はありません。けれど、居場所を得る札としては使えます」
美羽が小さく頷いた。
「その発想は必要かも」
ここなは苦笑した。
「すごいなあ。側室って言われて、政治の話できるの」
「当然ですわ」
ラヴィニアは胸を張る。
「泣くのは、勝ってからで十分です」
聖夜は、少しだけ笑いそうになった。
笑っていい場面ではない。
でも、その強さに救われた。
イリヤーナは、少し離れた影の中から聖夜を見ていた。
「名など些末」
彼女はもう一度、低く呟く。
「けれど、あなたが望むなら、わたくしはその名も守りましょう」
危うい。
危ういが、ただ従うだけではない言葉でもあった。
聖夜は彼女から目を逸らさなかった。
「俺のためだけになるな」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
イリヤーナが目を細める。
「難しい願いです」
「知ってる。でも頼む」
彼女は答えなかった。
ただ、祈るように指を組んだ。
ユリアは、そのやり取りを見ていた。
嫉妬していないわけではない。
たぶん、している。
聖夜にも、少しだけわかった。
それでも彼女は、ここでその感情を前に出さなかった。
正室様。
その言葉を、自分のためではなく、一行を守るために使った。
「ユリア」
聖夜が呼ぶと、ユリアは小さく首を傾げた。
「俺、まだ何もわかってない」
「うん」
「でも、今のはわかった。お前が、俺たちを守った」
ユリアは少しだけ目を伏せる。
「守れたかは、まだわからない」
「それでも」
聖夜は言った。
「ありがとう」
ユリアは、ほんの少しだけ頷いた。
女官たちは部屋の案内を続けた。
東離れ主室。
隣室。
西控えの間。
それぞれの扉が開かれていく。
どの部屋にも、月と翼蛇の紋がある。
美しい。
だが、美しさだけではない。
ここに置かれた瞬間から、自分たちの関係は、この国の言葉で記録され始める。
聖夜は、それを止められなかった。
止められなかったが、ただ流されるわけにもいかない。
ここなが窓辺へ歩いた。
黒月街の灯りが見える。
水路の光。
遠巻きの住民。
閉じた窓。
ここなは、じっと外を見ていた。
「なんか」
彼女は小さく言った。
「この街、泣いてるみたい」
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