第002話 人間の王配候補
旧宮の離れは、静かすぎた。
黒月街のざわめきが扉の向こうで遠くなると、聖夜は急に自分の体の重さを思い出した。
眠い。
痛い。
腹も減っている。
何より、頭が追いついていない。
ユリアが殿下と呼ばれた。
黒月街の住民が膝を折った。
自分は人間の男として見られた。
ここは客人用の宿ではなく、旧宮の離れだと言われた。
ひとつずつなら、なんとか考えられるかもしれない。
だが、全部まとめて来ると、もう雑に布団へ倒れ込みたい。
そう思った時、扉が静かに叩かれた。
クローナだった。
「神酒聖夜様」
丁寧な声。
丁寧すぎて、嫌な予感がする。
「少し、お時間をいただけますか」
ユリアがすぐに顔を上げた。
「私も行く」
クローナは、深く礼をした。
「殿下。お気持ちは承知しております」
声は柔らかい。
だが、そこで退く声ではなかった。
「けれど、殿下が庇えば庇うほど、彼が軽く見られます」
ユリアの指が止まった。
聖夜も、言葉を失った。
庇えば庇うほど、軽く見られる。
意味はわかる。
わかりたくないが、わかる。
ユリアの後ろに隠れている人間。
殿下の情で連れてこられただけの男。
そう見られる、ということだ。
「すぐ戻る」
聖夜はユリアへ言った。
本当にすぐ戻れる保証はない。
それでも、そう言わなければユリアが動けない気がした。
ユリアは聖夜を見た。
「無理しないで」
「たぶん、無理しないと会話にならない」
ここなが小さく吹き出しかけ、美羽に肘で止められた。
少しだけ、空気が戻る。
聖夜はクローナについて、廊下を進んだ。
通された部屋は、豪華ではなかった。
古い行政室。
そう呼ぶのが一番近い。
壁には翼蛇の紋章。
黒い木の机。
記録棚。
水晶板のような薄い書類。
窓は細く、外の月光が斜めに落ちている。
部屋にはクローナのほか、神官補佐らしき者が二人いた。
そして、黒衣の女が一人。
年齢はわからない。
老いているようにも、若いようにも見える。
黒い礼装の胸元に、月と翼蛇の小さな紋が縫い込まれていた。
その女は、聖夜を見た。
値踏みする目ではない。
祈る者が、祭具の傷を確認するような目だった。
クローナが椅子を示す。
「お座りください」
聖夜は座った。
座ってから、これも何かの意味を持つのではないかと不安になる。
嫌な国だ。
いや、国が悪いわけではない。
自分が何も知らないだけだ。
クローナは立ったまま、礼を尽くして口を開いた。
「確認させてください」
「はい」
「あなたは、殿下の何ですか」
いきなりだった。
聖夜は言葉に詰まった。
恋人。
仲間。
契約者。
命を預けた相手。
守りたい人。
隣にいてほしい人。
どれも違うようで、どれも一部当たっている。
一つ選べと言われても、選べない。
それに、ここで適当に選んだら、たぶん取り返しがつかない。
「……隣にいるって言っただけだ」
やっと出た答えは、ひどく頼りなかった。
クローナは笑わなかった。
責めもしなかった。
ただ、静かに返す。
「魔の国では、その言葉を軽く扱いません」
聖夜は唇を引き結んだ。
「軽く言ったわけじゃない」
「承知しています」
即答だった。
だから余計に、反論しづらい。
「軽くないからこそ、問題なのです」
クローナは机上の記録板へ視線を落とした。
「殿下が帰還し、その手を離さず、門を共に越えた人間の男性。命の契約に類する痕跡を持ち、複数の伴行者を伴う者。魔国制度上、暫定的には王配候補として扱わざるを得ません」
王配候補。
言葉が、部屋の空気を変えた。
聖夜は、一瞬意味がわからなかった。
いや、意味はわかる。
わかるから、頭が拒否した。
「待て」
声が少し大きくなる。
「俺は、そんなつもりじゃない」
「候補です」
クローナはすぐに訂正した。
「認定ではありません。まして正式認定でもありません。疑い、確認し、保留するための仮称です」
「仮称にしては重すぎるだろ」
「軽い仮称では、殿下を守れません」
その言葉で、聖夜は黙った。
クローナは敵ではない。
それが厄介だった。
彼女はユリアを守ろうとしている。
そのために、自分を疑っている。
黒衣の女が、そこで初めて口を開いた。
「人間殿」
声は低く、よく通る。
「黒月礼拝堂最高儀礼長、アンテリア=ヴォクスと申します」
聖夜は背筋を伸ばした。
名前だけで、場がひとつ重くなった。
アンテリアは続ける。
「あなたの誠実さを、今この場で疑うつもりはございません」
その言い方は丁寧だった。
丁寧で、冷たい。
「ですが、順序がございます。殿下の隣に立つ者を、殿下のお心だけで決めるわけにはまいりません」
聖夜は反射的に言い返しそうになった。
ユリアの心を軽く見るな。
そう言いたかった。
だが、美羽の声が頭の中で蘇る。
ここでは、軽率な否定も意味を持つ。
聖夜は、歯を噛みしめて飲み込んだ。
クローナが話を引き取る。
主導権は彼女にある。
アンテリアは、一言で自分の存在を刻んだだけだった。
「三年前、殿下はこの国から失われました」
部屋の空気がさらに沈む。
「外部の仕組みが関与した可能性があります。人間側、地上側、神々側、あるいは別の何か。私たちは、まだ敵の形を知りません」
聖夜は、ユリアの硬くなった手を思い出した。
旧宮の扉の前で、温度が少し下がった手。
三年前。
消えた殿下。
「その状況で、殿下が人間の男性を連れて帰還した」
クローナの声は乱れない。
「あなたが人間であること自体が、リスクなのです」
「俺は」
聖夜は、今度は飲み込めなかった。
「俺はユリアを利用してない」
部屋が静かになる。
神官補佐の一人がわずかに息を呑んだ。
聖夜は続けた。
「正体も知らなかった。王族だとか、国だとか、そんなの知らなかった。でも、知らなかったから利用してない。ユリアを殿下として選んだんじゃない」
言葉が荒いのはわかっている。
それでも、ここだけは譲れない。
「ユリアだから、手を離したくなかった」
クローナは、聖夜の怒りを正面から受けた。
否定しない。
冷笑もしない。
「だからこそ、あなたの選択が怖いのです」
聖夜は息を止めた。
「知らずに選んだ言葉が、制度を動かす。殿下を王族としてではなく、ユリア様個人として選んだ。その事実は尊い。ですが、国から見れば、それほど危険なものもありません」
「危険って」
「愛は、制度を破ります」
クローナは静かに言った。
「そして、制度がなければ守れない者もいます」
聖夜は返せなかった。
怒りは残っている。
けれど、相手の言葉がただの敵意ではないこともわかってしまった。
その時、扉が開いた。
「失礼します」
美羽だった。
完全に割って入る勢いではない。
けれど、止めるべきところで止めに来た顔をしている。
「真壁様」
クローナが目を細める。
「同席は許可しておりませんが」
「承知しています。ですので、発言だけ」
美羽は一礼した。
意外なほどきれいな礼だった。
「彼は、まだこの国の制度を理解していません。理解する前に誓わせるのは不公平です」
聖夜は美羽を見た。
助け舟だ。
けれど、ただ庇っているわけではない。
美羽は聖夜を甘やかしていない。
制度を理解していない者に、制度上の誓いを迫るなと言っている。
「また、彼の言葉をこちらの制度だけで翻訳するのも危険です」
美羽は続けた。
「隣にいる、という言葉の重さは認めます。でも、その意味を確認する時間は必要です」
クローナは黙って聞いていた。
アンテリアも、目を閉じている。
「……発言を記録します」
クローナが言った。
それは拒絶ではなかった。
美羽は小さく息を吐く。
その直後、もう一度扉が開いた。
ユリアだった。
今度は誰も止めなかった。
ユリアは聖夜の隣へ来る。
庇うように前に出るのではない。
隣に立つ。
その立ち方だけで、部屋の意味が変わる。
「彼は」
ユリアは短く言った。
「彼は、私を知らずに選んだ」
クローナの表情が変わった。
わずかに。
だが、聖夜にもわかるほどに。
それは、この場で一番重い証言だった。
ユリアは続けない。
自分を魔王の娘として知らなかった。
王家第一継承者として知らなかった。
国の価値も、政治的意味も、何も知らなかった。
それでも選んだ。
その事実だけを置いた。
アンテリアが目を開く。
「記録しておきます」
否定はしない。
認めるとも言わない。
ただ、記録する。
クローナは深く息を吸った。
「神酒聖夜様」
「はい」
「すぐに王配候補として受け入れろとは申しません」
聖夜は、少しだけ肩の力が抜ける。
だが、クローナの言葉はそこで終わらなかった。
「黒月街に留まり、街を見てください。旧宮を見てください。殿下が失われた三年の空白を知ってください。そして、ご自分の言葉が何を動かすのかを知ってください」
「知ったら」
聖夜は聞いた。
「どうなる」
クローナは静かに答えた。
「その時、改めて問います。あなたは、殿下の隣に立つ者として何を選ぶのか」
逃げ道は残された。
同時に、宿題も置かれた。
廊下へ出ると、空気が少し冷たく感じた。
ユリアが隣にいる。
美羽は少し後ろで、腕を組んでいる。
聖夜はユリアへ向き直った。
「悪い」
言いかけた瞬間、ユリアは首を振った。
「謝らないで」
「でも」
「選ばせたのは、私」
聖夜は言葉を失った。
ユリアの声は、震えていなかった。
けれど、強がっていないわけでもない。
彼女も、自分の選択が何を連れてくるのかを知っている。
知っていて、聖夜の手を離さなかった。
廊下の奥で、従者がユリアへ深く頭を下げた。
「正室様のお部屋は、こちらに」
聖夜も、ユリアも、そこで言葉を失った。
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