第001話 黒月の街、殿下の隣
黒月街は、思っていたよりも静かだった。
もっと恐ろしい場所を想像していた。
魔の国。
黒月。
殿下。
そんな言葉を並べられれば、火の海とか、骨でできた門とか、やたら高笑いする悪役みたいな住民を想像しても仕方ないと思う。
少なくとも、聖夜の頭はまだ疲れていて、そのくらい雑だった。
けれど、門の内側に広がっていたのは生活のある街だった。
黒い石畳が、月光を薄く返している。
道の両脇には細い水路が流れ、水面に青紫の魔力灯が揺れていた。
店先には、小さな翼蛇の紋が吊られている。
布屋。
薬屋。
焼き菓子のような匂いを出す店。
夜なのに閉まりきっていない窓。
その隙間から、住民たちがこちらを見ている。
角のある者。
羽のある者。
肌に鱗のような光を持つ者。
見た目だけなら人間と変わらない者。
子どもを抱いた女。
杖をついた老人。
仕事帰りらしい若者。
魔族だけの街ではなかった。
半魔もいる。
人間に近い顔立ちの住民もいる。
だからこそ、聖夜は余計に自分の異物感を意識した。
同じ人型がいるのに、自分だけ違う。
服が違う。
立ち方が違う。
魔力の気配というものがあるなら、たぶんそれも違う。
デスゲームの中では、勝ったか負けたか、生きているか死んでいるかがすべてだった。
ここでは違う。
誰の隣に立っているか。
どの門から入ったか。
どの視線に応えるか。
そういうものが、立場を決めていく。
「……社会だ」
聖夜は思わず呟いた。
美羽が横目で見る。
「何を当たり前のこと言ってるの」
「いや、悪の都みたいなのを想像してたから」
「その発言、絶対に今は大きな声で言わないで」
「はい」
美羽の声が冷静すぎて、聖夜は素直に黙った。
街は静かだが、何も起きていないわけではない。
ユリアが進むたび、住民が膝を折った。
全員が熱狂しているわけではない。
年配の者は深く礼をする。
若者は戸惑いながら膝をつく。
子どもは親の袖を握ったまま、聖夜たちを見ている。
歓声はない。
代わりに、息を潜めたざわめきがある。
帰還を喜ぶ気配。
同時に、三年の不在を思い出している気配。
帰ってきた。
でも、なぜ今。
なぜ人間を連れて。
そういう問いが、言葉になる前の空気として道に満ちていた。
ユリアは、その視線の中を歩いた。
聖夜の半歩前ではない。
後ろでもない。
横に立っている。
手は、まだ離されていない。
聖夜からすれば、それはユリア個人の意思だった。
さっきまで死にそうな場所にいた。
離したくない。
離されたくない。
その程度の、必死で個人的な意味だった。
だが、街は違う読み方をしている。
殿下が人間の男を横に置いている。
殿下が手を離していない。
殿下が前に立たせず、後ろにも下げていない。
それはたぶん、ここでは何かの宣言に見える。
聖夜は胃のあたりが重くなった。
「そんな大げさな」
言いかけた瞬間、美羽が肘で止めた。
痛い。
わりと本気で痛い。
「今の否定、やめて」
美羽は小声で言った。
「俺まだ何も」
「言いかけた。ここでは、軽率な否定も意味を持つ」
「意味?」
「殿下の隣に立つことを否定した、と取られるかもしれない。ユリアさんの判断を否定した、とも」
聖夜は口を閉じた。
言葉が政治になる。
そんな感覚は、まだ体に馴染まない。
だが、馴染まないからといって、何も起きないわけではない。
ここでは、自分の何気ない一言が、ユリアの立場に跳ね返る。
それだけは、わかった。
「……助かった」
「次から言う前に一回止まって」
「努力する」
「努力じゃなくて実行」
美羽は容赦がない。
でも、今はその容赦のなさがありがたかった。
ラヴィニアが、道の左右へ視線を走らせた。
「見世物にされる趣味はありませんわ」
苛立った声だった。
けれど、ただ怒っているだけではない。
彼女の目は、住民たちの視線を分類している。
誰がユリアを見ているか。
誰が聖夜を見ているか。
誰が一行の女たちを見ているか。
「これは好奇心ではありませんわね」
「違うの?」
ここなが尋ねる。
ラヴィニアは鼻を鳴らした。
「権力を測っていますの。殿下が誰を連れ、誰を隣に置き、誰を背後に従えるのか。視線は無礼であると同時に、情報収集ですわ」
聖夜は、思わずラヴィニアを見た。
高慢な歌姫。
そう思っていた彼女が、今は貴族としての感覚でこの場を読んでいる。
「詳しいな」
「当然ですわ」
ラヴィニアは胸を張った。
「舞台に立つ者は、観客の拍手より先に、誰が値踏みしているかを読むものです」
言い方は派手だが、たぶん本当だ。
イリヤーナは、一行の背後にいた。
いつの間にか、そういう位置を取っている。
祈るように指を組み、薄く微笑んでいるのに、目だけは笑っていない。
路地。
屋根の上。
水路の向こう。
彼女は、誰が近づき、誰が隠れているかを見ていた。
「イリヤーナ?」
聖夜が呼ぶと、彼女は静かに答えた。
「どうぞ、前を。後ろは見ております」
その声に、妙な安心と妙な怖さが同時にあった。
彼女はもう、ただ聖夜に寄り添うシスターではない。
影の位置から、一行を守ろうとしている。
クローナは先導しながら、時折振り返った。
その視線は丁寧だ。
だが、見落としがない。
聖夜が何を言いかけたか。
美羽がどう止めたか。
ユリアが手を離さないことをどう受け止めているか。
全部見ている。
「本日は、旧宮の離れへご案内いたします」
クローナが言った。
「仮宿ではないのか」
聖夜は、今度は慎重に言葉を選んだ。
クローナは少しだけ目を細める。
「殿下の帰還に伴う一行を、客人用の宿へ置くわけにはまいりません」
客人ではない。
また一つ、逃げ道が消えた。
「皆様は、ユリア殿下の帰還に立ち会い、門を共に越えた方々です。旧宮の離れで、謁見までの間お過ごしいただきます」
「旧宮」
ユリアの手が、ほんのわずかに強くなった。
聖夜はそれに気づいた。
クローナも気づいただろう。
だが、何も言わない。
ユリアも説明しない。
その沈黙だけで、旧宮という言葉に何かがあるとわかった。
三年前。
不在。
帰還。
まだ誰も口にしていない痛みが、街の奥で待っている。
ここなが、少し後ろから聖夜の袖を引いた。
「ね、聖夜」
「ん?」
「嫌われてるだけじゃない」
彼女の声は、いつもより真面目だった。
「怖がられてる。でも、待ってた人もいる」
聖夜は周囲を見た。
年配の女が、涙をこらえるように頭を下げている。
若い男が、警戒を隠さずに聖夜を見ている。
子どもが、ユリアの白い手と聖夜の手を交互に見ている。
恐れ。
期待。
怒り。
安堵。
全部が混じっている。
「よくわかるな」
「わかるっていうか、刺さる」
ここなは困ったように笑った。
「みんな、ばらばらの気持ちで同じ方向見てる。ちょっと、しんどい」
聖夜は言葉に詰まった。
ここなは、ふわっとしているようで、人の感情の濁りに敏い。
この街では、その力がただの優しさでは済まないかもしれない。
情報になる。
判断材料になる。
聖夜を止める材料にもなる。
旧宮の離れは、黒月街の奥にあった。
宮殿本体から少し離れ、黒い庭を挟んで建っている。
壁は黒曜石のように滑らかで、窓枠には月の紋が細く彫られていた。
扉には、翼を持つ蛇の紋章。
街門に掲げられていたものより小さい。
その分、近い。
ユリアは扉の前で足を止めた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、聖夜にはわかった。
硬くなった。
手の温度が少し下がる。
この場所を、ユリアは知っている。
そして、戻りたかっただけの場所ではない。
「ユリア」
呼ぶと、彼女は聖夜を見た。
「大丈夫か」
ユリアはすぐには答えなかった。
それから、小さく頷く。
「今は」
今は。
その二文字が、答えになっていないことだけはわかった。
クローナが扉の前で礼をする。
「こちらが、謁見までの間の御滞在先です」
その時、門衛の一人が小さく漏らした。
声は、誰に聞かせるつもりもなかったのだろう。
けれど、聖夜の耳には届いた。
「人間が、殿下の隣に」
聖夜は振り返らなかった。
振り返れば、その言葉に反応したことになる。
美羽が隣で息を止める。
ここなが聖夜の袖を握る。
ユリアは、手を離さなかった。
黒月街の夜は静かだった。
だが、その静けさの中で、聖夜の立場だけが少しずつ形を持ち始めていた。
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