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第000話 魔の国太陰外縁、殿下の帰還

 黒衣の者たちが、いっせいに膝をついた。


 その音は、地面を叩いたはずなのに、聖夜の胸の内側で響いた。


 まだ、体は戦いの終わりを理解していない。


 血の匂い。


 焼けた空気。


 崩れかけた足場。


 誰かを失うかもしれない恐怖。


 その全部が、まだ皮膚のすぐ下に残っている。


 だから最初、聖夜はその言葉を聞き間違えたのだと思った。


「お帰りなさいませ、ユリア殿下」


 クローナが、もう一度頭を下げた。


 殿下。


 ゲームの称号ではない。


 イベント用の飾りでもない。


 その一語には、誰かが本当に膝をつく重さがあった。


 聖夜は、隣にいるユリアを見た。


 ユリア・ヴァルシュタイン。


 ついさっきまで、命を賭けて隣に立っていた少女。


 抱きしめて、離すなと言って、ずっといろと口にした相手。


 そのユリアが、今は知らない国の門の前で、王族として迎えられている。


 空は暗かった。


 夜ではある。


 だが、ただの夜ではない。


 黒曜石のように光る地面が、薄い月光を吸い込んでいる。


 遠くに見える街の門には、月の中に翼を持つ蛇の紋章が掲げられていた。


 銀ではない。


 白でもない。


 黒い月を背負った蛇が、翼を畳んでこちらを見下ろしている。


 聖夜は、現実へ帰るはずだった。


 少なくとも、そう思っていた。


 ゲームは終わった。


 死なずに済んだ。


 なら、次にあるのは病院か、警察か、ニュースか、家族の顔か。


 そんな雑な想像しかしていなかった。


 けれど、目の前にあるのは知らない国の門だった。


 そして、その門の前で、ユリアは殿下と呼ばれている。


「ユリア」


 声をかけようとして、喉が引っかかった。


 ユリアは大きな説明をしなかった。


 弁明もしなかった。


 ただ、聖夜の手を握ったまま、一歩も離れなかった。


 細い指が、まだ熱を持っている。


 震えているのか、自分の手が震えているのか、わからない。


 ユリアはクローナたちを見た。


 そして、短く言った。


「帰った」


 それから、聖夜の手を握ったまま、もう一言だけ置いた。


「この人は、私が連れてきた」


 それだけだった。


 その一言で、黒衣の者たちはさらに頭を深くした。


 門衛たちの表情が変わる。


 遠巻きに集まっていた住民たちが、ざわめいた。


「殿下だ」


「本当に」


「帰られた」


「人間がいる」


「隣に」


「伴侶か」


「契約者では」


 断片が夜気に混じる。


 どれも小さい。


 小さいのに、耳に刺さる。


 聖夜は、自分が見られていることに遅れて気づいた。


 ただの生還者としてではない。


 ユリアの隣に立っている者として。


 ユリアの手を握っている者として。


 見られている。


「待って」


 美羽が低く言った。


 委員長の声だった。


 混乱している時ほど、彼女は言葉の形を整えようとする。


「つまり、私たちは救出された側じゃなくて、帰還者側として見られてる、ってこと?」


 その言葉で、聖夜はようやく仲間たちを見た。


 真壁美羽。


 天羽ここな。


 ラヴィニア・ルクレツィア。


 イリヤーナ・ネメシエル。


 みんな、ここにいる。


 生きている。


 それだけでよかったはずなのに、今はそれだけでは済まない場所に立っている。


 美羽の言う通りだ。


 自分たちは助けられた客人ではない。


 ユリアの帰還に伴って現れた一行として見られている。


 それは、立場が変わったということだった。


「だいじょぶ」


 ここなが、聖夜の肩を軽く叩いた。


 いつもの調子より、少しだけ声を落としている。


 茶化すには、空気が重いとわかっているのだろう。


「うちら、まだ生きてるし」


 その言い方に、聖夜は少しだけ息を吐けた。


 まだ生きている。


 本当に、そこからだった。


 ラヴィニアは周囲の視線を睨むように見返していた。


 高慢な顔をしている。


 だが、指先は衣の端を強く握っている。


 イリヤーナは聖夜の斜め後ろに立ち、祈るように指を組んでいた。


 祈りの形をしているのに、その目は周囲の影を見ている。


 誰が近づくか。


 誰が敵意を持つか。


 そういう目だ。


 ヴェルナだけが、一歩遅れて空を見ていた。


 黒い空。


 薄い月。


 翼を持つ蛇の紋章。


 そのさらに向こうを見るような目だった。


 何かがこの帰還を見ている。


 聖夜は、なぜかそう感じた。


 けれど、ヴェルナは何も言わない。


 ただ、ほんのわずかに目を細めただけだった。


 クローナが立ち上がった。


「門の内へ」


 その声は丁寧だった。


 丁寧で、逃げ道を塞いでいる。


「殿下の帰還を、外門で留め置くわけにはまいりません。謁見前の仮承認として、皆様には黒月街へお入りいただきます」


 仮承認。


 聖夜はその言葉を頭の中で繰り返した。


 ただ街へ入るだけではない。


 入国。


 帰還。


 謁見。


 承認。


 どれも、さっきまで自分の人生に存在しなかった言葉だ。


「俺」


 聖夜は、ユリアにだけ聞こえる声で言った。


「ここにいていいのか」


 本当は、もっと別のことを聞きたかった。


 ここはどこだ。


 お前は何者だ。


 俺たちは帰れないのか。


 俺は、何に巻き込まれたんだ。


 けれど、口から出たのはそれだけだった。


 ここにいていいのか。


 ユリアは聖夜を見た。


 不安そうな顔ではなかった。


 強い顔でもない。


 ただ、離さないと決めた顔だった。


「いて」


 短い返事。


 それから、彼女は握る手に少しだけ力を込めた。


「あなたが言った」


 聖夜は息を止めた。


 隣にいろ。


 ずっといろ。


 そう言った。


 あの時は、ユリア個人へ向けた言葉だった。


 失いたくない。


 一人にしたくない。


 自分の隣にいてほしい。


 ただ、それだけだった。


 だが、この国では、その言葉が別の形へ翻訳される。


 隣にいる者。


 殿下が連れてきた者。


 手を離されない者。


 契約者。


 伴侶。


 王配候補。


 まだ誰もはっきりとは言っていない。


 けれど、言葉になる前の役割が、もう聖夜の足元へ絡みついていた。


「……わかった」


 聖夜は、やっとそれだけ返した。


 わかった、は嘘だ。


 何もわかっていない。


 だが、手を離さないことだけは決められる。


 今、自分にできるのはそれだけだった。


 クローナが門衛へ合図を送る。


 黒い門が動き始めた。


 重い音が、夜の底から響く。


 門の向こうに、黒月街が広がっていた。


 黒い石畳。


 薄い月光。


 青紫の魔力灯。


 高い屋根の影。


 遠巻きに立つ住民たちの目。


 そこはダンジョンではなかった。


 安全地帯でもない。


 人が住み、噂が走り、礼があり、恐れがあり、制度がある場所だった。


 聖夜は帰ってきたわけではない。


 ここに生まれたわけでもない。


 それなのに、街は一行を帰還者として迎えている。


 ユリアが一歩を踏み出す。


 聖夜も、手を引かれる形で門の内側へ入った。


 視線が集まる。


 期待。


 警戒。


 好奇心。


 恐れ。


 その全部が、名前のない圧になって押し寄せる。


 俺は、ユリアを選んだ。


 国を選んだつもりはなかった。


 聖夜は、心の中でそう呟いた。


 けれど、門の向こうでは、その区別が通じない。


 街に入った瞬間、俺は理解した。


 ここでは、ユリアの隣に立つだけで、名前のない役割を背負わされる。



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