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第009話 ヴァルシュタイン旧宮へ

 黒い封印紐の前で、クローナはしばらく動かなかった。


 扉の向こうにあるものを恐れているようにも、そこへ案内する自分を罰しているようにも見えた。


 聖夜は黙って待った。


 ユリアも急かさなかった。


 旧宮の奥は、朝の光が届きにくい。


 窓は高く、細い。


 黒い石壁に沿って魔力灯が並んでいるが、どれも弱く絞られていた。


 廃墟ではない。


 床には埃が積もっていないし、燭台も磨かれている。


 けれど、人が暮らしている場所の温度ではなかった。


 必要な手入れだけを続けて、時間だけが止められている。


 そんな廊下だった。


 聖夜は、壁に掛かった時計を見た。


 針は動いていない。


 文字盤の端に、小さな黒月の紋が刻まれている。


 クローナが気づいて、低く言った。


「三年前から、そのままです」


「壊れてるのか」


「いえ。動かす者がいなかっただけです」


 花器もあった。


 黒い陶器に、乾いた白い花が挿されている。


 造花ではない。


 本物の花を乾かして、形だけを残したものだ。


 誰かが交換できなかった。


 捨てられなかった。


 それだけで、この場所に残された時間が少し見えた気がした。


 廊下の先に、肖像画が並んでいた。


 翼を持つ蛇の紋。


 王冠。


 黒い礼装。


 その中に、小さなユリアがいた。


 今より幼い顔で、真っすぐ前を見ている。


 銀白の髪は短く、肩の少し上で切り揃えられていた。


 服は重そうな黒の正装で、首元の飾りが幼い体に合っていない。


 けれど、目だけは今と同じだった。


 逃げない目。


 聖夜は隣を見た。


 ユリアは肖像を見上げていた。


 表情は変わらない。


 それでも、指先がわずかに強張っている。


「……小さいな」


 聖夜が言うと、ユリアは少しだけ息を吐いた。


「あの頃は、背が伸びるたびに記録官が喜んでいた」


「記録官が?」


「王家の成長記録は、公的な資料だから」


 子どもの背が伸びることまで、公的な資料になる。


 聖夜はその言葉を飲み込んだ。


 ユリアは、デスゲームの中で出会った少女だった。


 強くて、無口で、危なっかしいほどまっすぐで、時々ひどく不器用だった。


 けれど、この廊下にいるユリアは、それだけではなかった。


 王家の子。


 記録される者。


 誰かに待たれ、誰かに失われた者。


 聖夜が知らないユリアが、壁の向こうからいくつも出てくる。


 その重さに、少しだけ足が止まりそうになった。


 ユリアが一つの扉の前で立ち止まった。


 黒い木の扉。


 取っ手の下に、浅い傷がある。


 その横の柱には、細い線がいくつも刻まれていた。


 高さの違う線。


 日付。


 幼い字。


 聖夜はそれが背丈を測った跡だと気づくまで、少し時間がかかった。


「ここが、私の部屋」


 ユリアの声は静かだった。


 クローナが一歩下がる。


 女官が鍵を差し出したが、ユリアは受け取らなかった。


 開けるために来たのではない。


 それは、聖夜にも分かった。


 扉の隙間から、古い紙の匂いがした。


 中には読みかけの本が残っているらしい。


 女官が小さく説明した。


「三年前のまま、保管しております。寝具と衣類は月ごとに整えておりますが、配置は変えておりません」


「……誰が」


 聖夜が聞くと、女官は一瞬だけ目を伏せた。


「殿下のお帰りを、信じていた者たちでございます」


 信じていた。


 言葉は綺麗だ。


 けれど、それは三年間、諦められなかったという意味でもある。


 ユリアは扉に触れなかった。


 ただ、その前を通り過ぎた。


「今は、記録室へ」


 クローナが頷き、さらに奥へ進む。


 古い扉の前まで戻ると、黒い封印紐の横に小さな銀盆が置かれていた。


 その上には、黒蝋で封じられた書状がある。


 クローナがそれを手に取り、聖夜たちへ見えるように広げた。


「陛下から、記録閲覧の許可が届いています」


 アウグスト。


 ユリアの父。


 聖夜は、まだその王を見ていない。


 黒月街に戻ってきた娘に会いにも来ていない。


 クローナは、太陰外縁の境界維持のため旧宮を離れていると説明した。


 王が動けない理由はある。


 そう聞かされれば、納得するしかない。


 けれど、書状の文面はあまりにも公的だった。


 王家記録区画の一部閲覧を許可する。


 立会人を定める。


 開封後、写しを王宮本庁へ提出する。


 それだけだった。


 ユリアへの言葉はない。


 無事を喜ぶ一文も、帰還を労う一文もない。


 ユリアは表情を変えなかった。


 それが逆に、聖夜の胸をざらつかせた。


「ユリア」


「いい」


 短い返事だった。


「父は、王だから」


 その言い方が、聖夜には少し嫌だった。


 諦めているように聞こえたからだ。


 だが、何を言えばいいのかは分からない。


 自分は、ユリアの三年前を知らない。


 この国の王も知らない。


 知らないまま怒ることだけは、したくなかった。


 その時、廊下の奥から足音が近づいた。


 数人の礼拝堂関係者を連れて、黒衣の女が現れる。


 背は高く、年齢はクローナより上に見えた。


 黒い儀礼衣には、月の中に翼を持つ蛇の紋が銀糸で縫われている。


 顔立ちは整っている。


 声を荒げるような人間には見えない。


 けれど、近づくだけで廊下の空気が固くなった。


「ユリア殿下」


 女は深く礼をした。


「黒月礼拝堂最高儀礼長、アンテリア=ヴォクス。王家記録の開封に立ち会います」


 ユリアが頷く。


「来てくれて、ありがとう」


「礼を受けることではございません。制度上、必要な立会いです」


 言葉は丁寧だった。


 棘はない。


 だからこそ、距離がはっきりしていた。


 アンテリアの視線が聖夜へ移る。


「人間殿」


 呼び方だけで、聖夜は自分がどこに置かれたのか分かった。


 客人ではない。


 家族でもない。


 当事者でもない。


 この国の記録に触れる資格を、まだ持たない外部者。


「神酒聖夜です」


 聖夜は名乗った。


 アンテリアは一礼した。


「承知しております。ですが本日の開封は、王家血統と礼拝堂認証を必要とする記録です。人間殿には、原則として外でお待ちいただくことになります」


 聖夜は反射的に言い返しそうになった。


 だが、美羽が小さく首を振った。


 ここで感情をぶつければ、外部者という扱いを強めるだけだ。


 クローナが淡々と条件を読み上げる。


「開封条件は三つ。王家血統者ユリア殿下の認証。王家側立会人として私、クローナの署名。黒月礼拝堂側立会人としてアンテリア様の署名」


「それだけですか」


 美羽が聞いた。


「それだけです。ただし、開封後の閲覧者は記録されます」


 アンテリアが答える。


「王家記録は、好奇心で触れてよいものではありません」


 その視線は聖夜だけでなく、美羽、ここな、ラヴィニア、イリヤーナにも向いていた。


 ラヴィニアが少し顎を上げる。


 イリヤーナの影が一瞬濃くなる。


 ここなが、わざと軽く肩をすくめた。


「うわ、めっちゃ見られてる」


 美羽が小声で止める。


「ここな」


「分かってるって。今は殴り合いの場じゃないやつ」


 アンテリアはそのやり取りにも表情を動かさなかった。


 強い敵意ではない。


 もっと厄介なものだ。


 制度。


 この国では、正しい手順として聖夜たちを外に置ける。


 その冷たさがあった。


 ユリアが一歩前に出た。


「聖夜は、同席させる」


 廊下が静かになった。


 クローナがユリアを見る。


 アンテリアも、初めてわずかに目を細めた。


「殿下。理由を記録する必要があります」


「この人は、私が失った三年間を知っている」


 ユリアは迷わなかった。


「この国の記録だけでは、私の三年間は戻らない。聖夜は、その外側を知る当事者」


 聖夜は息を止めた。


 ユリアが、自分の三年間をそう呼んだ。


 失った三年間。


 そして、その三年間を一緒に生きた者として、聖夜を置いた。


 政治的な名前ではない。


 隣に立つと軽く言った責任でもない。


 当事者の証言者。


 その位置に、ユリアが自分から聖夜を置いた。


 アンテリアは不快感を見せなかった。


 ただ、懐から薄い記録板を取り出し、指先で文字を刻む。


「例外として記録します。王家血統者ユリア殿下の申請により、人間殿、神酒聖夜の同席を認める。理由、失われた三年間に関する外部証言者」


 そこで一度、アンテリアは聖夜を見た。


「記録に触れる資格を得たのではありません。記録される立場に置かれた、という意味です」


「……そういう意味か」


 本当に分かったかは、分からない。


 けれど聖夜は頷いた。


 この国では、見ることも見られることも、同じくらい重い。


 それだけは分かってきた。


 封印の手続きが始まった。


 ユリアが扉の中央に手を置く。


 黒い紋が淡く光った。


 血を求めるような不気味さはない。


 ただ、誰であるかを確かめる光だった。


 次にクローナが王印付きの書状を台座へ置く。


 黒蝋が溶け、銀の線になって扉へ走った。


 最後にアンテリアが祈りの句を唱える。


 低く、一定の響き。


 ラヴィニアがその音に反応して、ほんの少し目を伏せた。


 歌ではない。


 けれど、声で扉を整えているのだと聖夜にも分かった。


 黒い封印紐がほどける。


 錆びた金具が、内側から押されるように鳴った。


 扉が開く。


 冷たい空気が流れ出した。


 記録室は、思ったより広かった。


 壁一面に紙の台帳。


 棚には魔力結晶。


 奥には警備記録を収めた黒い筒が並び、中央の台座には氷紋の入った記憶装置が置かれている。


 一つの方法だけではない。


 紙。


 魔力。


 警備。


 記憶。


 同じ出来事を、いくつもの形で残す場所だった。


 美羽の顔つきが変わる。


「複数媒体で保存してるんですね」


「王家周辺の重大記録は、改竄防止のためです」


 クローナが答えた。


「一つが損なわれても、別系統で照合できます」


「なら、全部が同じ形で欠けていたら?」


 美羽の問いに、クローナはすぐ答えなかった。


 代わりに、アンテリアが言った。


「それを確認するために、ここを開けたのでしょう」


 聖夜は、目録台に置かれた厚い台帳を見た。


 女官が手袋を渡し、美羽がそれを受け取る。


 聖夜は手を出さなかった。


 今、自分が触れるべきではないものがある。


 それも少しずつ分かってきた。


 美羽が台帳を開く。


 ユリアの帰還前後ではない。


 三年前。


 ユリアがこの国から消えた日の記録。


 クローナが日付を示した。


「前日分は、こちらです」


 美羽が読み上げる。


「王女殿下、午前、礼法講義。午後、境界史。夕刻、私室へ。警備配置、通常。礼拝堂連絡、通常」


 そこには、生活があった。


 勉強して、部屋へ戻って、警備がついている。


 王女として記録される一日。


 けれど、その向こうに、読みかけの本を置いた少女がいる。


 聖夜は、ユリアの横顔を見た。


 ユリアは台帳を見ていた。


「翌日分は」


 美羽がページをめくる。


「王女殿下、不在確認。旧宮全域封鎖。境界門検査。警備長クローナ、第一責任者として聴取。礼拝堂へ緊急照会」


 クローナの肩がわずかに沈んだ。


 三年前から、その名前はここに残っている。


 失った側の記録として。


 美羽が指を止めた。


 前日がある。


 翌日がある。


 なら、その間があるはずだった。


「当日分」


 ページは存在していた。


 目録番号も振られている。


 紙も破られていない。


 墨を削った跡もない。


 だが、内容欄だけが空白だった。


 罫線だけが残っている。


 日付も、担当記録官の欄も、照合印の枠もある。


 なのに、中身がない。


 聖夜は寒気を覚えた。


 消されているのではない。


 書かれる前の紙に見える。


 だが、前後の目録番号は連続している。


 そこに一日があったことだけは、記録が認めている。


 美羽が魔力結晶の目録を確認する。


 同じ番号があった。


 内容欄は空白。


 警備記録の筒にも同じ番号が刻まれている。


 封は破られていない。


 けれど、中身を示す札だけが白い。


 氷紋の記憶装置にも、同じ日付の溝がある。


 光は灯らない。


 全部が、同じ形で黙っていた。


「……偶然じゃない」


 美羽の声は低かった。


「でも、普通の削除でもない。媒体が違うのに、同じ場所だけ空いてる」


 ヴェルナが、台帳の空白を見つめていた。


 触れない。


 覗き込むだけでもない。


 もっと遠いものを見るような顔だった。


 聖夜は聞いた。


「ヴェルナ。何か分かるのか」


 ヴェルナはしばらく黙っていた。


 それから、短く言った。


「消した跡ではない」


 それ以上は言わなかった。


 アンテリアが記録板に指を走らせる音だけが、部屋に残る。


 クローナは拳を握っていた。


 ユリアは空白を見ている。


 聖夜も、その日付を見た。


 美羽が持っていた現実側の記録紙と照合する。


 大会準備。


 ログイン。


 ゲーム開始。


 ユリアがあの場所へ送られた日。


 日付は一致していた。


 記録は消えていなかった。


 三年前の一日だけ、最初から存在しなかったことにされていた。



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