第010話 三年前の空白
美羽は、空白の台帳を前にしてすぐには結論を出さなかった。
紙の端に指を置き、目録番号を確認し、前後の頁を見比べる。
それから聖夜の方を見た。
「聖夜。先に言っておくね」
「何だよ」
「見つけたい答えに合わせないで」
その言葉は、少し痛かった。
聖夜はユリアを見た。
ユリアがこの国から消えた日。
それが、自分たちがいたあの場所とつながっている。
そう思いたくなる。
ユリアが悪くなかったと証明したくなる。
この国の誰かが隠したのだと怒りたくもなる。
けれど、美羽はそこへ先回りして釘を刺した。
「答えが欲しい時ほど、資料は都合よく見える。だから、一つの記録だけを信じない」
美羽は旧宮の記録官に向き直る。
「紙の当直台帳、魔力結晶の入退室記録、近衛の共有記憶。三つを並べて見せてください」
記録官はクローナを見た。
クローナが頷く。
アンテリアも止めなかった。
「照合手順としては妥当です」
その声は冷静だった。
聖夜は少し意外に思った。
アンテリアは聖夜たちを歓迎していない。
それでも、調査の手順そのものは否定しない。
敵か味方かで割り切れない相手。
制度の側にいる者。
そういう厄介さがあった。
まず、紙の台帳が開かれた。
失踪当日の頁。
目録番号はある。
頁番号もある。
綴じ糸は切れていない。
紙の厚みも前後と同じだった。
美羽は手袋越しに頁の端を撫で、灯りの角度を変えた。
「削った跡はない。墨が染みた跡もない。圧痕もない」
「圧痕?」
「文字を書いたら、紙に筆圧が残ることがあるの。ここには、それがない」
聖夜は空白の頁を見た。
消されたのではない。
最初から誰も書かなかったように白い。
だが、前後の記録は普通に続いている。
その白さが、かえって不自然だった。
次に魔力結晶が台座へ置かれた。
薄い黒紫の結晶だ。
記録官が起動句を唱えると、結晶の中に細い光の線が浮かぶ。
時刻。
扉の開閉。
誰がどの認証で入ったか。
美羽はそれを紙へ写しながら、眉を寄せた。
「前日の夜まではある。翌日の朝もある。でも、当日の時刻だけが滑ってる」
「滑る?」
「破れて飛んでるんじゃない。上書きされた感じでもない。最初からそこに溝がないみたいに、時間だけがなめらかに次へつながってる」
聖夜には、うまく想像できなかった。
だが、美羽の顔で分かる。
普通ではない。
壊れた記録の顔ではない。
もっと嫌なものを見ている顔だった。
「魔力欠損は」
アンテリアが記録官に聞く。
記録官は首を横に振った。
「ございません。結晶そのものの保全値は正常です」
「外部からの魔術干渉痕は」
「検出されておりません」
アンテリアはそれを自分の記録板に刻んだ。
聖夜は、その律儀さを不快に思いきれなかった。
彼女は疑っている。
けれど、疑うためにも記録を残している。
三つ目は、近衛の共有記憶だった。
黒い筒が慎重に開かれ、薄い氷のような板が取り出される。
クローナの目が、そこでわずかに揺れた。
聖夜は気づいたが、何も言わなかった。
記録官が板に魔力を流す。
淡い影が空中に浮かんだ。
顔までは分からない。
声も遠い。
ただ、複数の近衛が同じ廊下に立っていることだけが分かる。
次の瞬間、影がぶれた。
途切れたのではない。
瞬きをしたように、位置が変わった。
廊下の灯りが変わり、近衛たちの姿勢も変わっている。
その間に何があったのかは、何もない。
記録官が補足する。
「当時の証言では、全員が同じ瞬間に違和感を覚えています。気づけば時間が進んでいた、と」
「全員が?」
美羽が確認する。
「はい。配置場所の異なる者も含めて、同じ時刻帯に空白を報告しています」
「個人の記憶操作じゃ説明できない」
美羽は小さく呟いた。
「同じ建物、同じ時間、複数媒体、複数人物。しかも痕跡が壊れてるんじゃなくて、参照する場所だけない」
聖夜は、ユリアを見た。
ユリアは黙っていた。
王女の顔をしていた。
背筋を伸ばし、感情を隠し、記録を見る者として立っている。
それが逆に、痛々しかった。
本当は、これは自分の失踪の記録だ。
自分がいなくなった日の話だ。
なのにユリアは、まるで他人の事件を扱うように立っていた。
「空白は、外部介入の証明にはなりません」
アンテリアが言った。
部屋の空気が少し張る。
クローナが視線を上げた。
聖夜も思わずアンテリアを見る。
アンテリアは続けた。
「異常であることと、原因を断定できることは別です。外部から来た者たちがこの場にいる以上、外部介入という言葉は便利に使われすぎる危険があります」
「つまり、俺たちのせいだって言いたいのか」
聖夜の声が硬くなった。
美羽がすぐに言う。
「聖夜、待って」
アンテリアは怒らなかった。
「そうは申しておりません。証拠と解釈を分けるべきだと言っています」
美羽が頷く。
「その指摘は正しいです」
聖夜は美羽を見た。
美羽は空白の台帳から目を離さない。
「今言えるのは、内部の通常手段では説明しにくい同時欠落があること。外部介入は有力な仮説。でも、まだ証明じゃない」
「……分かった」
聖夜は息を吐いた。
悔しいが、美羽が正しい。
アンテリアの言葉にも正しさがある。
正しさがあるから、腹が立つ。
記録官がさらに別の箱を運んできた。
黒蝋で封じられた命令書の束だ。
「失踪直後の閲覧制限記録です」
クローナの顔色が変わった。
「それは、私も見ていない」
「当時、警備長代理以下には閲覧権限がありませんでした」
記録官が封を確認し、王印のある一通を開く。
そこには、簡潔な命令が書かれていた。
王家記録区画の一部閲覧を停止する。
対象は、ユリア・ヴァルシュタイン失踪当日の全記録。
発令者。
アウグスト・ヴァルシュタイン。
日付は、失踪の直後。
理由欄には、一行だけ。
二次汚染防止。
聖夜はその文字を見つめた。
「二次汚染って、何だよ」
誰もすぐには答えなかった。
ユリアが王印を見ている。
表情は変わらない。
けれど、聖夜には分かった。
傷ついている。
父が隠したのかもしれない。
自分を守ろうとしたのかもしれない。
何かを知っていて、誰にも触れさせなかったのかもしれない。
どれも確定しない。
だからこそ、痛い。
ユリアは王女の顔でそれを隠していた。
「クローナ」
ユリアが呼ぶ。
クローナはすぐに膝をつきそうになり、途中で踏みとどまった。
「はい」
「あなたは、この命令を知っていた?」
「いいえ」
クローナの返事は、苦いほど早かった。
「当時の私は捜索に出ていました。殿下が消えた後、旧宮周辺、境界門、地下水路、礼拝堂裏手まで。戻った時には、記録区画は陛下の命で封鎖されていました」
「誰も触れなかった?」
「触れさせてもらえませんでした」
クローナの声が低くなる。
「私は、触れる資格もないと思っていました」
聖夜はクローナを見た。
彼女の責任感は、ただの忠誠ではない。
三年前から刺さったままの棘だ。
それが、この空白を見てさらに深く沈んでいる。
ヴェルナが魔力結晶の前へ移動した。
相変わらず、触れない。
目だけで、その奥を見ている。
「ヴェルナ」
美羽が声をかける。
「消去ではない」
ヴェルナはまた同じように言った。
けれど、今度は少しだけ言葉を足した。
「参照先ごと、持っていかれている」
「参照先?」
「記録が見ている先。紙も、結晶も、記憶も、同じところを見に行く。そこがない」
美羽の目が細くなる。
「ゲーム管理側のログ欠損に、少し似てる」
聖夜の胸が冷えた。
ゲーム。
あの場所。
ユリアと出会い、死にかけて、生き残った場所。
けれど美羽はすぐに首を振った。
「断定はしない。似ているだけ」
アンテリアが、その言葉も記録した。
クローナは閉じた警備記録を見つめていた。
ユリアも、父の王印から目を離さない。
聖夜は王印を見た。
アウグストは娘を守ったのか。
真実を隠したのか。
それとも、守るために隠すしかなかったのか。
まだ、分からない。
結論へ飛びつけば、誰かを楽に責められる。
けれど、それではユリアの三年間をまた別の物語に押し込めるだけだ。
聖夜は奥歯を噛んで、黙った。
その沈黙の中で、クローナが閉じた警備記録を見つめたまま言った。
「三年前、わたくしは、ここにいませんでした」
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