第011話 守れなかった者
「ここにいなかった、って」
聖夜が聞き返すと、クローナは閉じた警備記録から目を離さなかった。
「そのままの意味です」
声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
「三年前、殿下が消えた時、私は旧宮の外にいました」
記録室の空気が、さらに冷たくなる。
ユリアは何も言わない。
美羽も、すぐには資料に手を伸ばさなかった。
ヴェルナだけが、魔力結晶の空白をまだ見ている。
クローナは一度目を閉じた。
「場所を移しましょう。当時の配置図は、旧近衛詰所に残っています」
旧近衛詰所は、記録室からさらに奥へ下りた場所にあった。
低い天井。
黒い石の壁。
武器棚と、古い机。
壁には旧宮の配置図が貼られている。
赤い線、青い線、黒い点。
警備の巡回路と、各門の認証位置。
そして、中央の机の上には一本の剣が置かれていた。
黒い鞘。
柄に月蛇の紋。
磨かれている。
けれど、使われてはいない。
クローナがその剣の前で足を止める。
「当時、私が使っていた剣です」
聖夜は、触れていいものではないと直感した。
クローナの過去が、そこに置かれている。
ただの武器ではない。
三年前から動けなくなった何かだ。
「当日、外縁側で異常報告がありました」
クローナは配置図を指した。
旧宮の外、黒月街のさらに外側。
太陰外縁の境界線に近い場所だった。
「境界灯が一つ、通常とは違う揺れ方をした。小さな異常です。放置できる程度ではなく、陛下へ報告を上げるには弱い。私は殿下へ確認を取り、短時間の視察へ出ました」
ユリアが静かに言う。
「許可したのは、私」
クローナの肩がわずかに動いた。
「はい」
「あなたが勝手に離れたのではない」
「それでも、離れました」
言葉は、刃物みたいに短かった。
「戻った時、旧宮は無傷でした。門は壊されていない。窓も破られていない。結界も破れていない。血も、争った跡も、悲鳴を聞いた者もいない」
クローナの指が、配置図の王女私室を指す。
「殿下だけが、消えていました」
聖夜は喉の奥が詰まるのを感じた。
何かが壊れていたなら、まだ追える。
敵がいたなら、斬れる。
道があったなら、走れる。
でも何もない。
ただ、守るべき人だけが消えている。
その時の無力さを、聖夜は想像してしまった。
「捜したんですか」
美羽が聞いた。
責める声ではない。
記録を続けるための声だった。
クローナは頷く。
「空路、地下水路、転移門、契約痕。旧宮に接続する全てを調べました。近衛、黒月礼拝堂、境界管理官、街の古い案内人まで動かした」
「痕跡は」
「ありませんでした」
即答だった。
それが三年間、何度も繰り返した答えなのだと分かる。
「移動した跡がない。連れ去られた痕がない。殿下が自分で出た記録もない。けれど、殿下はいない」
クローナの声はまだ崩れない。
崩れないまま、壊れている。
聖夜はそう思った。
「近衛の誓いは」
ユリアが聞いた。
クローナの顔が、そこで初めてはっきり痛みに歪んだ。
「発動しませんでした」
美羽が顔を上げる。
「近衛の誓い?」
「王家の血統者に危機が迫った時、近衛へ警告を送る契約です」
ユリアが説明した。
「それが、発動しなかった」
クローナが続ける。
「だから当時、私は何度も考えました。殿下は危機に遭っていなかったのではないか。自分の意志で消えたのではないか。あるいは、私の誓いが不完全だったのではないか」
「違う」
ユリアが言った。
短い声だった。
クローナはすぐに頭を下げた。
「今なら、別の可能性があると分かります。危機が存在しなかったのではない。危機として認識する前に、接続そのものを切られたのかもしれない」
ヴェルナが小さく頷いた。
「誓いが見に行く先も、同じように持っていかれた」
その言葉で、部屋の中が静まった。
紙の記録だけではない。
結晶だけでもない。
近衛の誓いまで、同じ穴に引き込まれている。
クローナは剣の前で膝をついた。
ユリアへではなかった。
聖夜へ向かっていた。
「申し訳ありません」
聖夜は、すぐに違和感を覚えた。
「クローナ」
「三年間、殿下の隣にいられなかった。殿下がどこで何を背負っていたのかも知らず、帰還した今も、私は過去の記録一つ満足に守れていない」
クローナは頭を下げる。
「あなたは、殿下の三年間を埋めた方です。私が守れなかった時間のそばにいた方です。だから」
「俺に謝るな」
聖夜の声は、自分で思ったより硬かった。
クローナが止まる。
ユリアも聖夜を見る。
「俺は、お前を許す役じゃない」
部屋の空気が痛くなる。
けれど聖夜は引かなかった。
「俺に裁かせるな。俺に許されたら楽になるかもしれないけど、それは違うだろ」
クローナの唇が震えた。
「私は」
「分かるよ」
聖夜は言った。
分かると言うのは嫌だった。
クローナの三年間を、自分のものみたいに扱いたくなかった。
それでも、似た痛みは知っている。
「言えなかった言葉って、残るんだよな」
聖夜は自分の手を見た。
何も握っていない手。
「後から、あの時こうしていればって何回でも考える。もっと早く気づけば、もっとちゃんと話せば、違ったんじゃないかって。自分を責めてる間だけ、まだ相手の時間に触れてる気がする」
兄貴。
その呼び方を、声には出さなかった。
出せば、今ここでクローナの話ではなくなってしまう気がした。
「でも、戻らない」
聖夜は短く言った。
「責め続けても、戻らない。謝る相手を間違えても、戻らない」
クローナは顔を上げられなかった。
聖夜は続けた。
「だから、俺に謝るな。俺はお前を許せない。許す資格もない」
冷たい言い方だと思った。
でも、必要だった。
罪悪感を誰かに預けて、それで終わりにするには、三年は長すぎる。
ユリアが一歩前に出た。
クローナの前で立ち止まる。
その姿は、さっき肖像画で見た幼い王女ではなかった。
デスゲームで剣を握っていた少女でもない。
帰ってきた主だった。
「クローナ」
「……はい」
「帰ってきた」
それだけだった。
許すとも、責めないとも言わない。
三年前は終わったとも言わない。
ただ、事実を置く。
ユリアはここにいる。
戻ってきた。
その事実を、クローナの前に置いた。
「今度は、ここにいて」
クローナの返事は、すぐには出なかった。
膝をついたまま、拳を床につける。
泣き崩れはしない。
声を上げても泣かない。
けれど、ずっと張っていたものが一度だけ大きく揺れた。
「……はい」
遅れて出た返事は、掠れていた。
「今度こそ、ここにいます」
聖夜は、それ以上何も言わなかった。
美羽も記録紙を閉じている。
この場で拾うべきものは、数字でも証拠でもない。
そう判断したのだろう。
その時、ヴェルナが壁の配置図へ顔を向けた。
「残ってる」
全員の視線が動く。
配置図の下。
黒い石壁に、小さな警備結晶が埋め込まれていた。
古いものだ。
記録室にあった結晶よりも小さく、明かりもほとんどない。
クローナが立ち上がる。
「詰所内の補助記録です。主記録ではありません」
「だから、持っていかれなかった」
ヴェルナは結晶へ近づいた。
触れない距離で止まる。
「持っていかれた先の痕跡が、少し残っている」
聖夜の背筋が冷えた。
美羽がすぐに言う。
「触ったらどうなるの」
ヴェルナは、いつもの無表情で答えた。
「分からない」
「分からないなら、触るな」
聖夜は即座に言った。
ヴェルナは振り向く。
「触れなければ、見えない」
「触れたら、お前に何が起きるか分からないんだろ」
「そう」
あまりに平坦な返事だった。
だから、余計に怖い。
ヴェルナは記録を見つける。
残す。
けれど、そのために自分が傷つくことを、計算に入れていないように見える。
ユリアが警備結晶を見る。
クローナも、まだ乱れた呼吸のまま視線を向ける。
聖夜は拳を握った。
消された記録の向こうに、持っていかれた先がある。
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