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第012話 ヴェルナ、記録に触れる

 警備結晶は、記録室へ運ばれた。


 小さな黒い結晶だった。


 詰所の壁から外されたそれは、机の上に置かれると、ただの古い石のようにも見えた。


 けれどヴェルナは、それから目を離さない。


 触れていない。


 近づきすぎてもいない。


 それでも、何かに耳を澄ませているようだった。


 聖夜は腕を組んだまま、机の横に立つ。


「本当に危ないのか」


 ヴェルナは頷いた。


「たぶん」


「たぶん、で触ろうとしてたのか」


「触れなければ、分からない」


「だからって」


 言いかけた聖夜を、美羽が手で止めた。


「ヴェルナ。危険の中身を言葉にして」


 ヴェルナは少し考えた。


 彼女にとって、感じているものを説明に変えることは簡単ではないらしい。


「私の記録は、見たものを全部残す」


「うん」


「これは、残されなかった記録」


 ヴェルナは警備結晶を見る。


「完全記録と欠落記録がぶつかる。触れれば、向こう側の命令が私を見つけるかもしれない」


「向こう側って」


 聖夜の声が低くなる。


「ゲーム管理側か」


「似ている。でも同じとは限らない」


 ヴェルナは淡々と言った。


「命令が再起動するかもしれない。私が止まるかもしれない。別の記録に上書きされるかもしれない」


「やめろ」


 聖夜は即答した。


 迷わなかった。


 情報が欲しい。


 ユリアの三年前を知りたい。


 この国で何が起きたのか、自分たちが巻き込まれたものが何なのか、知りたい。


 それでも、今の説明を聞いてなお触れさせるのは違う。


「情報のためにお前を使う気はない」


 ヴェルナが聖夜を見る。


「止める命令?」


 その聞き方が、聖夜の胸に引っかかった。


 命令。


 止める。


 許可する。


 ヴェルナはずっと、誰かの判断を受け取る形で動いてきたのかもしれない。


 聖夜は、息を吐いた。


「命令じゃない」


「では、何」


「俺は嫌だって言ってる」


 ヴェルナは瞬きをした。


 美羽が少しだけ視線を伏せる。


 ユリアは黙って聞いていた。


「でも、お前がどうするかは、お前が決めろ」


 聖夜は言った。


 言ってから、怖くなった。


 選ばせるということは、危険を引き受けさせることでもある。


 自分が止めれば、ヴェルナは触れないかもしれない。


 けれどそれは、ヴェルナを守るふりをして、彼女の選択を奪うことにもなる。


「決める」


 ヴェルナは小さく繰り返した。


 自分の中にない言葉を、口の中で確かめるような声だった。


 そこへ、アンテリアが静かに割って入る。


「認められません」


 声は冷たくなかった。


 むしろ、慎重だった。


「ヴェルナ殿は王家血統者ではなく、黒月礼拝堂の神官でもありません。正体不明の存在を王家記録へ接続することは、制度上認められません」


 聖夜は言い返そうとして、止まった。


 アンテリアの反対は筋が通っている。


 正体不明。


 その言葉はきついが、間違ってはいない。


 ヴェルナが何者なのか、聖夜たちもまだ全部は分かっていない。


 美羽も反論しなかった。


「制度上の反対として記録します」


 アンテリアは続けた。


「この接触で王家記録が汚染された場合、責任は誰が負うのですか」


 部屋が静かになる。


 ユリアが一歩前へ出た。


「私」


 短い返事だった。


 アンテリアがユリアを見る。


「殿下」


「これは私の記録」


 ユリアは警備結晶を見た。


「私が消えた日の記録。私が奪われたかもしれない記録。なら、見るかどうかを決める責任は私にある」


「王家記録は、殿下個人の所有物ではありません」


「知っている」


 ユリアは頷いた。


「だから王女として許可する。ヴェルナが触れる権利を、私が与える」


 アンテリアはすぐには答えなかった。


 その沈黙は、反発ではなく計算に近かった。


 やがて、記録板へ指を走らせる。


「黒月礼拝堂最高儀礼長として、制度上の異議を付記します。その上で、王家血統者ユリア殿下の責任許可として記録します」


 ユリアが頷く。


「ありがとう」


 アンテリアは礼を受けなかった。


 聖夜はヴェルナを見た。


「本当にやるのか」


 ヴェルナは警備結晶を見る。


「私が決める」


 さっきの繰り返しとは違った。


 わずかだが、自分の言葉になっていた。


「触れる」


 聖夜は止めなかった。


 ただ、机のすぐ横へ移動した。


 何かあれば引き離せる距離。


 ヴェルナは警備結晶へ手を伸ばす。


 白い指先が、黒い結晶に触れた。


 その瞬間、部屋の明かりが落ちた。


 魔力灯が消えたわけではない。


 光が、音もなく遠くなった。


 警備結晶の奥に、黒い文字列が開く。


 紙でも魔国語でもない。


 だが、聖夜には一部だけ読めた。


 SUBJECT: Y.VALSTEIN


 ROLE: CORE


 LINK: FORCED


 LVR INITIALIZE


 そこまで見えたところで、文字列がざらついた。


 続きは潰れ、黒い線になって流れる。


 長く見てはいけないものだと、本能が言っていた。


 ヴェルナの瞳から光が消えた。


 身体が一瞬、完全に停止する。


 呼吸すら止まったように見えた。


「ヴェルナ」


 聖夜が呼ぶ。


 返事はない。


 美羽が文字列を見て、顔色を変えた。


「参加者登録画面と同じ系統」


「分かるのか」


「全部じゃない。でも、書式が近い。名前、役割、リンク状態、初期化処理」


 美羽は震える手で記録紙を押さえた。


「ユリアは、登録されてる」


 ヴェルナの唇が少し動く。


「管理側の書式」


 声に抑揚がない。


 いつもの無表情ではない。


 そこにいるのに、遠い。


「でも、私が知るゲーム管理より上位の命令が混じっている」


「上位?」


 聖夜が聞く。


 ヴェルナは答えなかった。


 代わりに、警備結晶の中で映像が歪む。


 旧宮の廊下。


 低い天井。


 黒い石壁。


 幼いユリアの部屋へ続く扉。


 そこへ、黒い手のようなものが伸びた。


 内側からではない。


 廊下の奥からでも、扉の影からでもない。


 記録の外側。


 見えている画面そのものを、破って入ってくる。


 黒い手は、世界の縁を掴むように動いた。


 その瞬間、ヴェルナの指先が黒く染まりかける。


「もういい」


 聖夜はヴェルナの手首を掴んだ。


 ヴェルナは動かない。


 警備結晶から離れない。


「聖夜」


 美羽の声が飛ぶ。


 聖夜は迷わなかった。


 力任せに、ヴェルナを結晶から引き離した。


 黒い文字列が弾ける。


 部屋の光が戻った。


 ヴェルナの身体が、聖夜の腕の中で軽く揺れる。


 聖夜はそのまま支えた。


「情報はもういい」


 ヴェルナは瞬きをした。


 瞳に、ゆっくり光が戻っていく。


「途中」


「途中でいい」


「記録が」


「お前が先だ」


 ヴェルナは、分からないものを見るように聖夜を見た。


 記録を中断されたことに怒っているのではない。


 戸惑っている。


 自分が記録より優先されたことを、うまく処理できていない顔だった。


 ユリアが警備結晶を見る。


 黒い文字列はもう消えている。


 だが、最後に一つだけ氷の紋が浮かんだ。


 王家血統認証で見たものと同じ、冷たい紋。


 アンテリアが息を呑む。


 クローナの手が剣の柄を探すように動いた。


 ヴェルナは聖夜の腕から少し離れ、結晶を見た。


「ユリアは参加したんじゃない」


 声はまだ弱い。


 けれど、はっきりしていた。


「参加者にされた」



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