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第013話 ユリアの氷の玉座

 氷の紋は、すぐには消えなかった。


 警備結晶の表面に浮かび、薄い光を放っている。


 ユリアはその紋を見ていた。


 表情は静かだ。


 けれど聖夜には、彼女の呼吸がほんの少し浅くなったのが分かった。


 アンテリアが記録板を閉じる。


「氷の儀礼室へ」


 ユリアが頷いた。


 クローナが先導し、旧宮のさらに奥へ進む。


 黒い石の廊下はだんだん冷たくなった。


 魔力灯の光が青白く変わる。


 扉の前には、月蛇の紋ではなく、氷の花のような紋章が刻まれていた。


 クローナが扉に手を置く。


「この奥が、氷の玉座です」


「玉座って、即位する場所か」


 聖夜が聞くと、クローナは首を横に振った。


「いいえ。即位の玉座ではありません。王家血統が、過去の契約記録へ触れるための神具です」


「契約記録」


「王家が何を継ぎ、何と結ばれ、何を背負ってきたかを確認する場所です」


 扉が開く。


 冷気が流れ出した。


 部屋の中央に、透明な氷でできた椅子があった。


 玉座というには、華やかではない。


 飾りは少なく、背もたれには王家血統認証で見たものと同じ氷紋が刻まれている。


 座る者を祝う椅子ではない。


 座る者を調べる椅子だ。


 聖夜は、そう感じた。


 ユリアは入り口で足を止めた。


 クローナが気づく。


「殿下」


「三年前も、ここに座った」


 ユリアの声は低かった。


「継承適性の確認。父と、礼拝堂と、記録官がいた。その後、自室へ戻って、眠った」


 聖夜は何も言わなかった。


 その先は、もう分かっている。


 ユリアは消えた。


 参加したのではなく、参加者にされた。


「座らなくていい」


 聖夜は言った。


 ユリアがこちらを見る。


「真相のためでも、嫌なら座らなくていい。怖いなら、怖いままでいい」


 アンテリアがわずかに眉を動かす。


 だが、聖夜は続けた。


「俺が決めることじゃない。クローナでも、礼拝堂でもない」


 ユリアはしばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吸う。


「私が決める」


 その言葉は、前話のヴェルナの言葉に似ていた。


 けれど、もっと深く、冷たい。


 ユリアは玉座へ歩いた。


 一歩ずつ、自分の足で進む。


 座る瞬間、氷が低く鳴った。


 背もたれの氷紋が光り、ユリアの髪と瞳に青白い光が反射する。


 次の瞬間、聖夜は見覚えのある力を感じた。


 デスゲームの中で、ユリアが見せた氷。


 敵を止め、道を閉ざし、それでも仲間を守るために使った力。


 あれは、ゲームが与えた能力ではなかった。


 元からユリアにあったものを、あの場所が別の名前で使わせていただけだ。


 美羽が小さく呟く。


「能力じゃない。血統の契約構造……」


 アンテリアがその言葉を記録する。


 室内の光が変わった。


 氷の玉座の周囲に、三年前の感覚記録が浮かび上がる。


 冷たい儀礼室。


 淡々とした確認の声。


 外から届く、誰かの視線。


 それは人の目ではなかった。


 壁の向こうでも、廊下の奥でもない。


 記録を見ている何か。


 ユリアの肩が強張る。


 映像は自室へ移った。


 読みかけの本。


 背丈を測った柱。


 夜の魔力灯。


 幼いユリアが寝台に横たわる。


 眠りに落ちる、その直前。


 黒い手が伸びた。


 空間を破ったのではない。


 扉を開けたのでもない。


 ユリアの周囲に張られた、見えない線。


 王家血統、近衛の誓い、儀礼室の認証、まだ名前のない契約。


 その線を、外側から掴んだ。


 ユリアが息を呑む。


「……声」


 聖夜は玉座へ近づきかけて、止まった。


 代わりに聞く。


「思い出したのか」


 ユリアは頷いた。


「声というより、処理音」


 氷の中で、感情のない言葉が響く。


 適合者確認。


 中核役割、付与。


 それは神の声ではなかった。


 怒りも喜びもない。


 誰かの願いを聞く声ではない。


 対象を分類し、役割を貼り付ける音だった。


「私は」


 ユリアの声が震えた。


「私は、あれに選ばれたんじゃない」


 その瞬間、玉座の氷が軋んだ。


 儀礼室の床に霜が走る。


 壁の氷紋が広がり、魔力灯の光が白く凍りつく。


 クローナが近づこうとして、足を止めた。


 霜が刃のように立ち上がり、彼女の前を遮る。


「殿下」


「違う」


 ユリアは玉座の肘掛けを握った。


「私は、あんなものに選ばれたんじゃない」


 恐怖と怒りが、氷になって部屋を満たしていく。


 アンテリアが神官たちへ記録保持を命じる声が聞こえた。


 けれど聖夜は、もう聞いていなかった。


 足元の氷が靴底を噛む。


 冷たい。


 痛い。


 それでも前へ出た。


「ユリア」


 玉座の周囲の氷が伸びる。


 聖夜の袖を裂き、手の甲に冷たい傷をつける。


 だが、彼は止まらなかった。


「戻ってこい」とは言わなかった。


 それは、ユリアがどこかへ行ってしまったみたいだから。


 違う。


 ユリアはここにいる。


 過去を見せられ、奪われた瞬間を突きつけられ、それでもここにいる。


 聖夜は玉座の前で膝をつき、ユリアの手を取った。


 氷が手のひらを刺す。


 だが、その奥で別のものが震えた。


 デスゲームの中で結ばれたもの。


 数値ではない。


 表示でもない。


 誰かに押しつけられた役割でもない。


 あの場所で、互いに選び返してきた時間。


 それが、氷の広がりを止めた。


「ここにいる」


 聖夜は言った。


「俺は、ここにいる」


 ユリアの指が、聖夜の手を握り返した。


 霜の伸びが止まる。


 凍っていた空気が、少しずつほどけていく。


 ユリアは顔を上げた。


 目は濡れていない。


 けれど、その奥にあった恐怖が、初めて言葉になった。


「私は選んだんじゃない」


 部屋の誰も口を挟まなかった。


「選ばれて、奪われた。役割を貼られて、知らない場所へ落とされた」


 ユリアは聖夜の手を握ったまま続ける。


「でも」


 その声だけは、少し違った。


「あの場所で、聖夜の隣に立つと決めたのは、私」


 聖夜は何も言わない。


 その答えは、聖夜が言うものではない。


 ユリア自身のものだ。


「あなたを選んだのは、私の意思」


 氷の玉座が、静かに光を弱めた。


 アンテリアは感情を見せなかった。


 ただ、記録官へ命じる。


「外部システムと王家契約の混線可能性。血統認証と魂契約様反応の同時発生。記録を残しなさい」


 声は平らだった。


 だが、警戒は強くなっている。


 聖夜にも分かった。


 アンテリアにとって、今の共鳴は美しい絆ではない。


 王家の契約に、人間の少年と外部の仕組みが混じった危険な現象だ。


 彼女が人間王配を拒む理由が、また一つ増えた。


 ユリアは玉座から立ち上がった。


 クローナが駆け寄ろうとする。


 だが、ユリアは手で制した。


「歩ける」


 聖夜も手を離した。


 支えたくないわけではない。


 けれど、今はユリアが自分で歩く時間だった。


 ユリアは氷の儀礼室を出る。


 被害者として運ばれるのではなく、自分の足で。


 廊下へ出た瞬間、ここなが息を呑んだ。


 彼女の目だけが、ユリアの周囲にまとわりつく黒い靄を見ていた。



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