第014話 ここな、本音でユリアを支える
ユリアは、廊下へ出た瞬間にはもう表情を戻していた。
氷の玉座で震えていた声も、聖夜の手を握っていた指の力も、そこにはない。
王女の顔。
殿下と呼ばれる者の顔。
聖夜には、それが分かった。
分かってしまったから、何か言いかけた。
「ユリア」
けれど、その前にここなが動いた。
「待ち」
軽い声ではなかった。
いつもの、場を明るくする「あーし」の響きではない。
もっと低い。
もっと近い。
「その顔で続けんの、なし」
ユリアが足を止める。
クローナも、美羽も、ラヴィニアもイリヤーナも黙った。
ヴェルナだけが、ここなの横顔をじっと見ている。
ユリアは静かに答えた。
「調査は続ける。玉座の記録と警備結晶の記録を照合する必要がある」
「うん。それは分かる」
ここなは頷いた。
「でも今、それやったら、ユリアがまた自分のこと後回しにする」
「私は平気」
「平気って顔じゃない」
ここなが一歩近づく。
聖夜は反射的に口を開いた。
「ここな、ユリアは」
「聖夜、今は黙って」
ここなは振り向かずに言った。
聖夜は止まった。
「今、聖夜が答えたら、ユリアがまた黙る」
その一言で、聖夜は何も言えなくなった。
たぶん、その通りだった。
自分がユリアを庇えば、ユリアは「大丈夫」と言う。
自分が残ると言えば、ユリアはそれを聞いてから自分の言葉を選ぶ。
そういうところがある。
聖夜は奥歯を噛んで、黙った。
ここなはユリアを見る。
「玉座が怖かったんじゃないよね」
ユリアの目が、ほんの少し揺れた。
「違う」
「うん。違う」
ここなは即座に頷いた。
「怖いの、そこじゃない。自分が選ばれたせいで、聖夜も、うちらも、この国まで来ちゃったって思ってる」
ユリアは答えなかった。
ここなは続ける。
「自分が奪われたせいで、みんな巻き込んだって思ってる。だから今、王女の顔して、うちらを逃がす準備してる」
聖夜は息を呑んだ。
ユリアの沈黙が、答えだった。
しばらくして、ユリアが言った。
「これは、私の国の問題」
声は静かだった。
「あなたたちは、私の過去に巻き込まれた。ここから離れてもいい。側室候補という扱いも、私から解除するよう求める」
ラヴィニアの眉が上がる。
イリヤーナの影が揺れる。
美羽は何も言わず、記録紙を閉じた。
ユリアは聖夜を見た。
「聖夜も」
その言葉だけ、少し遅れた。
「現実へ帰る道が見つかったら、戻っていい。私のために、この国に縛られなくていい」
優しい言葉のはずだった。
けれど、ここなの顔がはっきり怒った。
「それ、優しいふりして、うちらの選ぶ分なくしてる」
ユリアが目を見開く。
ここなは一歩踏み込んだ。
「うちら、選ばされるの散々やってきたじゃん。死ぬか進むか、守るか捨てるか、好きか嫌いかまで数字にされてさ」
その声は震えていない。
怒っている。
でも、ユリアを責めたい怒りではなかった。
「やっと自分で選ぶって話してるのに、ユリアが先に『離れていい』って決めたら、それも同じだよ」
ユリアは言い返せなかった。
ラヴィニアが静かに扇を閉じる。
「わたくしが利用されるかどうかは、わたくしが決めますわ」
声は優雅だった。
だが、甘くはない。
「歌姫として見られることも、側室候補として扱われることも、不愉快ではあります。けれど、それを利用し返すか、拒むか、交渉材料にするかは、わたくしの判断です」
イリヤーナも続いた。
「影に立つことも、私が選びました」
聖夜の方を一度だけ見る。
「命じられたからではありません。置いていかれたくないからでもありません。私が、ここに立つと決めたからです」
美羽がそこで口を開いた。
「帰還経路の調査は続ける」
ユリアが美羽を見る。
「それは、逃げるためだけじゃない。選べる状態を作るため。帰れるのか、帰れないのか、帰ったらどうなるのか。それを知らないまま残るのも、知らないまま離れるのも、どっちも危ない」
ここなが小さく頷く。
「そゆこと」
聖夜は、ようやく口を開いた。
うまい言葉は出てこない。
ここなみたいに本音をまっすぐ刺せるわけでも、美羽みたいに整理できるわけでもない。
だから、自分の分だけ言った。
「俺も勝手に残る」
ユリアが聖夜を見る。
「お前が決めるな。俺が決める」
少し乱暴だった。
言ってから、もっと別の言い方があっただろうと思った。
でも、これが今の聖夜にできる精一杯だった。
「お前も勝手に決めろ」
ユリアの唇が、わずかに震えた。
強くあろうとする顔が、少しだけ崩れる。
「また」
そこで声が詰まった。
ここなは待った。
聖夜も待った。
ユリアは目を伏せ、短く言った。
「また、奪われるのが怖い」
その言葉は、聖夜だけに向けられたものではなかった。
ここな。
美羽。
ラヴィニア。
イリヤーナ。
ヴェルナ。
クローナ。
今、ここにいる全員を失う恐怖だった。
「私が選んだと思ったものを、また外から奪われるのが怖い」
ここなは、もう何も説明しなかった。
ただ、ユリアを抱きしめた。
正室とか、側室候補とか、王女とか、そんな距離ではなかった。
友達として。
ユリアの肩が、ここなの腕の中で少しだけ落ちる。
泣きはしない。
けれど、息を吐いた。
長く止めていた息を、やっと吐いたみたいに。
ここなはユリアの背中を軽く叩いた。
「はいはい。怖いの確認できたから、今日は勝ちでーす」
ユリアが小さく眉を寄せる。
「勝ち?」
「怖いって言えた。超えらい。ポイント十億」
「何の」
「ここなポイント」
聖夜は思わず息を漏らした。
美羽も目元だけで笑う。
ラヴィニアは「基準が分かりませんわ」と言いながら、少しだけ肩の力を抜いた。
イリヤーナは真顔で「私にも付与されますか」と聞き、ここなが「あとで審査」と返した。
場の空気が、ほんの少し戻る。
その時だった。
旧宮の外から、低い歌が聞こえてきた。
祈りの列の歌に似ている。
けれど、言葉が違った。
帰還者を清めよ。
黒月へ戻った魂を、清めよ。
ラヴィニアの表情が消える。
クローナが窓の方を見た。
美羽が記録紙を開き直す。
ユリアはここなの腕からゆっくり離れた。
黒月礼拝堂が、動き始めていた。
歌を聞きながら、美羽だけが記録紙の端に写した数字列を見つめていた。
それは魔国暦ではなく、現実世界の時刻表記に似ていた。
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