第015話 美羽、現実を思い出す
低い儀礼歌は、旧宮の壁を越えて届いていた。
帰還者を清めよ。
黒月へ戻った魂を、清めよ。
その言葉を聞きながら、美羽は記録紙の端に写した数字列を見つめていた。
ここなはユリアのそばにいる。
ラヴィニアは歌の旋律を聞き分けようとしていた。
イリヤーナは窓の影へ移り、外の気配を探っている。
聖夜はユリアと美羽の間に立ったまま、どちらへ声をかけるべきか迷っていた。
美羽が先に言った。
「これ、魔国暦じゃない」
ヴェルナが机の上に記録片を並べる。
警備結晶から写した文字列。
管理書式の断片。
ユリアの氷紋に反応して残った識別番号。
その中に、明らかに魔国の表記ではない数字列が混じっていた。
「年、月、日、時刻。並びが現実側の端末認証に近い」
美羽は指先で数字をなぞる。
「ゲーム大会の準備端末で見た形式と同じ。参加者登録、ログイン認証、機器チェック。そのあたりで使われてた並び」
聖夜の背中が冷える。
現実。
その言葉が、この黒い旧宮の中で急に生々しくなる。
「三年前の魔国記録と、現実側の大会準備期間がつながってるってことか」
「可能性は高い」
美羽は即断しなかった。
けれど、否定もしなかった。
ヴェルナが小さく頷く。
「外部世界の記録は残っている」
「外部世界って、俺たちの現実か」
「そう」
ヴェルナは管理書式の一部を指した。
「識別情報。時刻。端末。参加者。記録は残っている」
「じゃあ、今の向こうは」
聖夜が言いかけると、ヴェルナは首を横に振った。
「分からない」
短い返事だった。
「現在の状態、肉体、生死、時間経過は読み取れない。ここにあるのは、接続された時の記録」
聖夜は口を閉じた。
知りたいことは、そこだった。
自分たちの体はどうなっているのか。
家族はどうしているのか。
時間はどれだけ経ったのか。
それが分からない。
分からないまま、現実という言葉だけが目の前に戻ってくる。
美羽の指が止まった。
「妹」
その声は、いつもの会長みたいな整った声ではなかった。
メイド人格の芝居がかった声でもない。
ただの、美羽の声だった。
「妹に、何も言わずに消えた」
聖夜は美羽を見る。
美羽は記録紙を握りしめていた。
「大会だって言って出た。すぐ帰るって。夕飯までには戻るって言ったかもしれない。覚えてるのに、覚えてない。どうでもいい会話だったから」
そのどうでもいい会話が、今は重い。
美羽の顔にそう書いてあった。
「向こうで何日経ってるのか分からない。私の体がどうなってるのかも分からない。妹が、私を待ってるのか、諦めたのか、それも分からない」
ここなも黙った。
ユリアは何も言えない顔をしている。
美羽は聖夜へ視線を向けた。
「聖夜」
「……何だ」
「帰る道が見つかったら、どうするの」
質問は真っすぐだった。
逃げ場がない。
「ユリアを選んだことと、現実へ帰ることは両立するの」
聖夜はすぐには答えられなかった。
帰らない。
そう言えば楽かもしれない。
この国でユリアの隣に立つと決めたような顔ができる。
帰る。
そう言えば現実を捨てていないふりができる。
でも、どちらも今は嘘になる。
「分からない」
聖夜は言った。
美羽は責めなかった。
「今は、分からない」
聖夜は続ける。
「帰る道があるのかも、帰ったらどうなるのかも分からない。ユリアを置いていくとか、現実を捨てるとか、そんな答えを今決められない」
ユリアの指がわずかに動く。
聖夜はそれを見たが、先に言い切った。
「まず、帰る道を探す。選べる状態にする。残るか帰るかは、そのあとで決める」
美羽が息を吐いた。
「うん。それでいい」
ユリアが静かに言う。
「帰る場所があるなら、奪いたくない」
それは優しい言葉だった。
けれど、旧宮でここなが怒ったものと、よく似ていた。
美羽はユリアへ向き直る。
「ユリア」
「何」
「私たちの帰るかどうかを、あなたが決めないで」
ユリアが黙る。
美羽は言葉を選びながら続けた。
「あなたが責任を感じるのは分かる。でも、それで私たちを先に離す判断をしたら、結局また選択権が消える。帰るか、残るか、行き来する道を探すか。それは本人が決めること」
ここなが小さく笑う。
「うちが感覚で言ったやつ、美羽が議事録っぽくした」
「茶化さない」
「茶化してないって。助かるなって思っただけ」
少しだけ、空気が緩んだ。
その時、ヴェルナが記録片を一つ動かした。
「復元する」
黒い文字列が薄く浮かぶ。
美羽がすぐに身を乗り出す。
一覧だった。
ユリアの識別子。
その下に、別の識別番号。
さらに別の番号。
名前は読めない。
文字列は欠け、個人名らしき欄は黒く潰れている。
けれど、数は一つではなかった。
「ユリア以外にも」
美羽が呟く。
「三年前から外部世界へ接続された人がいる」
聖夜は一覧を見る。
番号だけでは誰か分からない。
それでも、その向こうに人がいる。
参加者だったのか。
巻き込まれたのか。
どこへ行ったのか。
何も分からない。
「そこに、個人名は残っていますか」
アンテリアの声だった。
それまで黙っていた彼女が、一度だけ前へ出ていた。
美羽が顔を上げる。
アンテリアはすぐに表情を整えた。
「制度上の確認です。失踪者の特定には個人名が必要になります」
言い直すのが少し早すぎた。
左手が、黒月紋の指輪を強く押さえている。
その指先だけが、感情を隠しきれていなかった。
「名前は読めません」
美羽は追及しなかった。
「識別番号だけです。欠損が大きい」
「そうですか」
アンテリアは一歩下がる。
また制度の顔に戻っていた。
けれど美羽は、その反応を忘れないように記録紙の端へ小さく印をつけた。
アンテリアにも、個人的な失踪者がいるのかもしれない。
今は聞かない。
聞けば、彼女はもっと強く扉を閉じる。
ヴェルナが一覧の末尾を指した。
「これは違う」
「参加者じゃない?」
美羽が聞く。
「違う。記録形式が違う」
末尾に、別の識別子があった。
参加者番号ではない。
役割欄も、LVR関連の初期化欄もない。
かわりに、短い表示があった。
GAMEではない。
その記録は、LIVEと表示されていた。
少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。




