第047話 太陰外縁の夜明け
黒月街に朝が来た。
黒い石畳には、夜の傷が残っている。
割れた舗装。
焦げた門扉。
崩れた街灯。
兵の足跡と、血を洗った水の跡。
空はまだ暗い。
それでも、東の端だけが薄く青い。
王家旗は半旗になっていた。
市民は勝利を祝っていない。
家々の窓には、黒銀の布が掛けられている。
そこには死者の名が書かれていた。
王家兵。
市民。
反乱に巻き込まれた者。
帰還隊の者。
名を知らない誰かのために、空白の布を掛けている家もあった。
俺たちが旧宮へ戻ると、街の視線が集まった。
歓声はない。
罵声もない。
ただ、静かな視線だった。
「王配候補だ」
誰かが小さく言った。
俺は反応しなかった。
その名前を否定するためでも、受け取って胸を張るためでもない。
今は、そういう朝じゃなかった。
旧宮の正門前に、黒い棺台が置かれている。
アウグストの遺体は、完全には戻らなかった。
帰ってきたのは、月蛇の契約核と、裂けた王衣だけだった。
それでも、ユリアは棺台の前へ進んだ。
膝をつかない。
泣き崩れない。
けれど、手を伸ばす時だけ、指が震えていた。
「父上」
短い呼びかけだった。
王へではない。
父親へ向けた声だった。
ラヴィニアが一歩下がって頭を垂れる。
「弔いの歌を、許されるなら」
ユリアは少しだけ目を閉じた。
「即位の歌とは分けて」
「はい」
ラヴィニアの声は静かだった。
「王としての象徴だけではなく、一人の死者として送ります」
歌が始まる。
派手ではない。
民を盛り上げる歌でも、勝利を飾る歌でもない。
低く、細く、名前を呼ぶための歌だった。
黒銀の布が、朝の風で揺れる。
ユリアは市民の前へ立った。
「父は死んだ」
その一言で、広場の空気が沈む。
「だが、父の死を、反対派への報復理由にはしない」
ざわめきが起こる。
ユリアは続けた。
「死者全員の名を確認する。王家兵、市民、反乱に加わった者、巻き込まれた者。誰の死も、都合のよい数字にしない」
クローナが目を伏せた。
美羽は記録を取っている。
ここなは、広場の感情に顔を歪めながらも立っていた。
イリヤーナは人の流れを見ている。
ヴェルナは、歌と宣言を別の層で記録していた。
その弔いの端で、アンテリアが立会いを求めた。
権限停止中。
拘束下。
それでも、彼女は言った。
「死者を悼むことだけは、許されませんか」
クローナの手が剣へ近づく。
俺の胸にも、怒りが先に来た。
どの口で。
そう思った。
でも、ユリアは黙ってアンテリアを見た。
クローナが判断を下す。
「逃亡防止の護衛を付ける。発言は許可した時のみ。弔いの列へ近づきすぎるな」
「……感謝します」
裁く前に、死者を悼む権利まで奪わない。
それは優しさというより、線引きだった。
弔いが終わった後、ヴェルナがアンテリアへ記録提示を申し出た。
広場ではなく、小評議室で。
ユリアがそう決めた。
公開処刑みたいにしないためだ。
部屋には、ユリア、クローナ、美羽、俺、ヴェルナが立ち会った。
アンテリアは椅子に座らされた。
背筋は伸びている。
けれど、指先は白くなっていた。
ヴェルナが記録板を置く。
「あなたの甥に関する記録です」
アンテリアの目が変わった。
「偽造なら」
「偽造ではありません」
ヴェルナは静かに言った。
「ただし、死の場面は再生しません」
記録板に、情報だけが浮かぶ。
三年前。
VRMMO大会参加。
デスゲーム開始後、死亡。
LVRゼロによる強制排除記録。
現実側死亡確認。
名前は伏せられた。
顔も出ない。
倒れる映像もない。
アンテリアは画面を見つめたまま、首を横に振る。
「あり得ません。その記録は、後から作られたものです」
ヴェルナは時刻を出した。
識別子を出した。
管理層記録を出した。
美羽が一つずつ確認する。
「複数記録の時刻が一致しています。管理層、参加者側ログ、現実側確認。改竄痕跡は見当たりません」
アンテリアの唇が震えた。
ヴェルナは次の記録を重ねる。
神々の遊戯側との通信履歴。
甥の死亡確認より後の日付。
そこに、短い文が残っていた。
消息を知りたければ協力せよ。
取引条件。
王家帰還経路。
封印鍵。
非常継承規則。
アンテリアの顔から、色が消えた。
「取引は、最初から履行不能でした」
ヴェルナの声は感情を削っていた。
「相手は、甥御さんがすでに亡くなっていることを知った上で、消息を餌にしています」
アンテリアは声を荒げなかった。
ただ、制度の言葉を探すように口を開く。
規則。
儀礼。
正統性。
血統。
けれど、何も出てこなかった。
「では」
彼女はようやく言った。
「では、わたくしは何を守っていたのですか」
俺は拳を握った。
怒りは消えていない。
アウグストは死んだ。
ユリアは父を失った。
街は傷ついた。
それでも、その言葉だけは分かってしまった。
失った身内を取り戻したい。
せめて消息を知りたい。
その感情だけは、俺にも分かってしまう。
「制度じゃない」
俺は言った。
アンテリアが俺を見る。
「あんたは甥を守ろうとしてたんだと思う」
彼女の目が揺れた。
「その思いは本物だったんだろうな」
俺はそこで止めなかった。
止めたら、赦しになってしまう。
「でも、本物の思いが、選んだ手段を正しくはしない」
アンテリアは目を閉じた。
「わたくしは、陛下を殺すつもりなどありませんでした」
「それは記録にも出てる」
俺は返した。
「でも、殺すつもりがなかったことと、止められた時に止めなかったことは別だ」
アンテリアの肩が、小さく震えた。
ユリアは長い間、黙っていた。
父を殺された娘として。
継承者として。
喪主として。
どの言葉を選んでも足りない場所に、彼女は立っていた。
「私は、今ここで判決を出さない」
ユリアが言った。
「父を失った直後の怒りだけで裁けば、私は裁きではなく復讐をする」
クローナが目を上げる。
「記録を保全する。正式審理へ回す。アンテリア・ヴォクスの権限停止は継続。通信、封印鍵、取引記録をすべて提出させる」
クローナがうなずいた。
「保護拘束へ戻します。逃亡と証拠隠滅を防ぐため、そして神々の遊戯側による口封じの可能性を考慮して」
アンテリアが立ち上がる。
退室の前に、彼女はヴェルナを見た。
「甥の」
声がかすれる。
「最後の言葉は」
ヴェルナは記録板を閉じた。
「死の場面は見せません」
アンテリアの顔が歪む。
「ですが、本人が残した短い家族宛てのメッセージがあります。観賞用ではなく、遺族へ渡す記録として、後であなたに渡します」
アンテリアは何も言えなかった。
クローナに付き添われ、部屋を出ていく。
俺はヴェルナを見た。
全部記録できる。
でも、全部見せていいわけじゃない。
今のヴェルナは、それを自分で選んだ。
「よかったと思う」
俺が言うと、ヴェルナは少しだけ目を丸くした。
「何がです」
「見せないって決めたこと」
ヴェルナは、軽口を返さなかった。
「記録者ですから」
そう言ってから、少し考える。
「いえ。立会人ですから」
小評議室の窓から、朝日が差した。
黒月街の空は、完全な闇じゃなかった。
明るさは勝利の合図ではない。
次の仕事が見えるだけの光だ。
旧宮へ戻ると、美羽が俺たちを見回した。
疲れ切った顔で、それでも現実的な声を出す。
「まず、朝ごはんにしましょう。生きている人には、それが必要です」
王が死んでも、朝は来る。
そして朝には、腹が減る。
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