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第044話 ヴェルナ、設計の奥を見る

 ヴェルナの輪郭がほどけていく。


 髪の先が、砂みたいに崩れる。


 黒い壁へ吸い込まれるたびに、彼女の体から記録の文字がこぼれた。


 笑っていた時の声。


 怒鳴った時の声。


 俺たちをからかった時の声。


 全部が、薄い光になって壁へ戻ろうとしている。


「ヴェルナ!」


 俺は腕を伸ばした。


 手は届いた。


 ちゃんと触れた。


 なのに、掴んだ感触が安定しない。


 服を引いているのか、影を引いているのか、記録そのものを引いているのか分からない。


「おっと」


 ヴェルナは軽く言おうとした。


 いつもの調子で。


 でも、声が途中で欠けた。


 門の壁に、彼女の構造が表示される。


 デスゲーム管理モジュール。


 観測記録端末。


 神々の遊戯側から降ろされた空の器。


 記録した感情によって、後天的な人格を形成。


 俺は文字を睨んだ。


 意味は分かる。


 分かりたくないくらい、分かる。


 ヴェルナは最初から俺たちと同じ生まれ方をした存在ではない。


 ゲームを管理し、見て、記録するための端末。


 空の器。


 そこへ俺たちの感情や選択や失敗や言葉が積もって、今のヴェルナができた。


「返還されれば」


 ヴェルナが平坦に言った。


「機能としては正常化します」


「何が正常だ」


「記録核へ戻るだけです。管理モジュールとしては、そちらが本来の配置です」


「お前は」


 俺は腕に力を入れた。


「お前はどうなる」


 ヴェルナは少しだけ黙った。


「人格部分は、保持される保証がありません」


 美羽が息を呑む。


 ここなが顔を歪める。


 ラヴィニアの唇が震え、イリヤーナの影が壁へ向かって伸びた。


「返還されれば正常?」


 俺は笑えなかった。


「それでお前が消えるなら、正常なんか知るか」


 門の力が強くなる。


 ヴェルナの腕が、俺の手の中で薄くなった。


 俺は引いた。


「嫌なら戻るな」


 命令じゃない。


 そうしないと、また同じ失敗をする。


 守るために閉じ込める。


 助けるために相手の意思を奪う。


 俺は歯を食いしばって、言葉を選んだ。


「お前が嫌なら、戻るな。戻りたいなら止めない。でも、どうしたいかはお前が言え」


 ヴェルナの目が揺れた。


 初めて見る顔だった。


 分からない、という顔。


「私は、存在理由が分かりません」


 彼女は壁に引かれながら言った。


「見るために作られました。記録するために作られました。だから、まだ見たいという感覚は、機能の延長かもしれません」


「それで」


「でも」


 ヴェルナは、俺たちを見た。


 ユリアを。


 美羽を。


 ここなを。


 ラヴィニアを。


 イリヤーナを。


 そして、俺を。


「今は、見たいだけではありません」


 声が少し震えた。


「ここにいたい」


 その言葉で、壁へ吸われる速度が止まった。


 ヴェルナは息を吸う。


「返りません」


 黒い壁が鳴る。


「私は記録物ではありません。現在の立会人です」


 門はすぐには認めなかった。


 壁の文字が増える。


 返還物。


 観測端末。


 外部神性残片。


 本来所属、記録核。


 美羽が前へ出た。


「緊急立会条項を参照してください」


 白い文字が、彼女の指先から床へ走る。


 黒月礼拝堂で使った条項。


 帰還儀礼が壊れた時、当事者を記録し、証言者を保護するための古い手続き。


 美羽はそれを、深層門の古い記録規則へ接続した。


「当事者が人格を認めた記録者は、返還物ではなく立会者になれるはずです」


 ユリアが続く。


「ヴェルナを立会者として承認する」


 美羽がうなずく。


「契約者としてではありません。本人が望んでいない役割は与えません」


 ここなが手を上げた。


「あたしも承認。ヴェルナさんは、ただの記録じゃない」


 ラヴィニアが胸に手を当てる。


「私も承認します。見ていた者ではなく、今ここで聞いている者として」


 イリヤーナが短く言った。


「承認します。返還対象ではありません」


 俺はヴェルナの腕を掴んだまま、最後に言った。


「俺も承認する。お前はここにいる」


 門の文字が止まる。


 長い沈黙の後、分類が変わった。


 自律記録者。


 ヴェルナの輪郭が戻る。


 彼女は一度だけ目を閉じた。


「……ありがとうございます」


 いつもの軽口ではなかった。


 だから誰も茶化さなかった。


 次の瞬間、ヴェルナの記録板が勝手に開いた。


 灰色の扉の奥、記録核の混線が見える。


「見えます」


 ヴェルナは声を整えた。


「魔国古層の外側に、黒い手の経路があります。三年前、ユリア様が強制転送された時に開いた傷です」


 白い線と黒い線が、記録核の外側で絡んでいる。


 古い門の問い。


 王家の継承記録。


 そこへ、別の手が入り込んでいた。


「観測者側は、その傷から門の問いへ二択を上書きしていました。受諾か切断か。即位か退位か。選択肢を狭め、感情反応を増幅し、観賞しやすい形へ変える」


 俺の胸の奥で、エンプティ・リンクが脈打った。


 記録核の傷と、俺の空白が共鳴している。


 門の分類が浮かぶ。


 人間由来ではない。


 魔国由来ではない。


 観測者の管理神性とも一致しない。


 外なる神性。


 敵対神系統。


 空白接続。


「……何だよ、それ」


 声が掠れた。


 ヴェルナが現代語へ訳す。


「神々の遊戯側から見れば、邪神の力です」


 空気が凍った。


「ただし、邪悪という意味ではありません。彼らの観測する秩序へ穴を開け、複数の契約を一つに束ねる異物。敵対神系統と分類されるのは、観測者側の秩序と相性が悪いからです」


 邪神。


 その言葉だけで、全部を汚された気がした。


 俺たちをつないだもの。


 ユリアと結ばれた言葉。


 美羽たちと続いた契約。


 ここまで来た選択。


 それが、外から来た変な力に作られたものだったら。


 俺は何を信じればいい。


「じゃあ」


 声が震えた。


「俺たちの感情も、作られたのか」


 門が過去記録を照合する。


 無数の断片が浮かぶ。


 森。


 廃都市。


 礼拝堂。


 旧宮。


 俺が誰かを失いたくないと思った瞬間。


 誰かが自分で残ると決めた瞬間。


 門の声が返った。


「エンプティ・リンクは感情を生成できない」


 俺は息を止める。


「相互意思のない契約は増幅できない」


 次の文字。


「空白は器であり、中身は当事者が選んだもの」


 ユリアが俺の手を取った。


 強くは握らない。


 逃げない程度に、そこにいる。


「聖夜」


「……ああ」


「力の出自と、私がお前を選んだことは別だ」


 その言葉で、少しだけ息が戻った。


 美羽も頷く。


 ここなは泣きそうな顔で笑い、ラヴィニアは静かに目を伏せ、イリヤーナは影を俺の足元から少し離してくれた。


 俺が自分で立てるように。


 その時、記録核の奥で黒い手の経路が震えた。


 観測者側の混線が強まる。


 壁に文字が走る。


 邪神の器。


 排除対象。


 次に、別の文字が重なる。


 王配として全てを支配すれば守れる。


 恐怖と万能感。


 両方で誘ってくる。


 片方では、俺を危険なものとして捨てろと言う。


 もう片方では、俺が全部握れば誰も失わないと言う。


 どちらも、俺の弱いところを知っていた。


「黙ってください」


 ヴェルナが記録板を掲げた。


 自律記録者として再分類された彼女の文字が、記録核へ食い込む。


「混線経路を切り離します。ただし完全破壊はしません」


「残すのか」


「証拠です」


 ヴェルナの声は、もう震えていなかった。


「第三部で接続経路として使える可能性もあります。消せば、あちらの干渉を証明する線も消えます」


 灰色の扉の奥で、黒い手の経路が記録核から外される。


 消えない。


 遠くへ退くだけ。


 傷は残る。


 でも、門の問いへ直接かぶさる力は薄くなった。


 記録核が、俺へ向く。


 最後の問いが浮かぶ。


 借り物の力で結ばれた言葉を、なお自分のものと呼ぶか。


 俺は答えられなかった。


 まだ、喉の奥に何かが引っかかっている。


 力は借り物だった。

 なら、あの時の言葉まで借り物だったのか。



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