第042話 ユリア、正室として並ぶ
白い扉が閉じた後、反照層は静かになった。
俺は、その前で待っていた。
手を伸ばさない。
呼ばない。
覗かない。
たったそれだけのことが、ひどく難しかった。
ユリアの中で何が起きているのか、俺には分からない。
門は完全に遮断したわけではなかった。
白い扉の表面へ、断片だけが映る。
記録映像。
俺たちに見せるためというより、門が判定の過程を残しているような映り方だった。
扉の向こうに、氷の玉座が現れた。
黒い床。
白い霜。
玉座の背には、月蛇の紋章がある。
けれど、そこにアウグストはいない。
父親の不在だけが、玉座より大きく見えた。
ユリアは一人で立っている。
黒い喪の色も、王女の衣も、今の彼女には重そうだった。
壁に、欠けた記録が浮かぶ。
三年前に空白になった継承記録。
帰還者として戻るはずだった王女。
帰還しなかった三年。
その間に積み上がった未処理の契約。
今、それらが全部ユリアへ向かっている。
国土契約の線が、氷の玉座から彼女の足元へ伸びていた。
門の声が、白い扉越しに響く。
「王位継承を受けるか」
少し間が空く。
「放棄するか」
二択だった。
けれど、さっきのものとは違う。
月蝕の制限時間はない。
焦らせる感情もない。
どちらを選べば苦しむかを楽しみに待つ気配もない。
ただ、王家の古い問いとしてそこにあった。
ユリアは逃げなかった。
目を閉じる。
一度だけ、胸の前で手を握る。
それから、顔を上げた。
「王位継承を受ける」
俺は息を止めた。
ユリアの声は震えていた。
それでも、折れていなかった。
「父の代わりになるためではない。父にはなれない」
白い玉座の霜が、わずかに光る。
「帰還した私が、この国をもう一度選ぶために受ける」
その言葉で、国土契約の線が強くなった。
俺の胸の奥も、少しだけ痛くなる。
彼女は選んだ。
俺と逃げるんじゃなく。
俺に背負わせるんでもなく。
自分で、戻ってきた国を選んだ。
門が次の文字を出す。
即位儀礼。
王冠。
玉座。
民への宣告。
ユリアは、その文字の前で首を横に振った。
「即時戴冠は受けない」
扉の外で、美羽が小さく息を呑む。
ユリアは続けた。
「服喪がある。反乱の事実確認がある。アンテリアの裁きがある。市民への説明がある」
一つずつ、言葉を置く。
父を亡くした娘として。
継承者として。
逃げないために。
「それらを終えずに王冠だけ受ければ、私は父の死を利用することになる」
氷の玉座が、沈黙する。
門の返答は遅かった。
けれど、返ってきた。
「継承受諾、有効。即位儀礼、延期可能」
白い扉に、古い条文が浮かぶ。
王死亡直後の服喪。
継承者の契約安定。
反乱時の事実確認。
民への説明。
省略されていた規定。
アンテリアが、あるいは今の制度が、都合よく薄くしていた手続きが、そこに残っていた。
ユリアはそれを読んだ。
怒るでもなく、泣くでもなく。
ただ、覚えるように。
次に、扉の中の景色が変わった。
玉座の前に、黒い線が現れる。
俺の足元からつながっているはずの、対契約の線だ。
門が問う。
「聖夜を王配として指名するか」
俺は、扉の外で体をこわばらせた。
「契約を私的領域へ戻すか」
また二つ。
けれど、ユリアはすぐに答えなかった。
彼女は黒い線を見て、それから玉座を見た。
「どちらも選ばない」
白い扉の表面が、わずかに波打つ。
「聖夜を完成した王配として指名する権利は、私一人にない」
その言葉に、俺は息を吐いた。
ユリアは俺を所有物みたいに呼ばない。
知っていた。
でも、改めて聞くと、胸の奥がほどける。
「だが私的領域へ戻せば、国へ影響する契約を隠すことになる。それも違う」
ユリアは、黒い線へ手を伸ばした。
掴まない。
引き寄せない。
ただ、その存在を隠さないように指し示す。
「神酒聖夜を、私の対契約者として公に認める」
門の文字が変わる。
黒月王配候補。
審査。
正室。
継承者。
ユリアはその文字をまっすぐ見た。
「黒月王配候補の審査へ、私も正室・継承者として並ぶ」
正室。
その言葉が出た瞬間、別の記録が開いた。
俺は思わず美羽たちを見た。
美羽は表情を引き締めている。
ここなは胸元を押さえていた。
ラヴィニアは静かに息を整え、イリヤーナは目を細めている。
白い扉に、正室の役割が表示される。
側室を従属物にしない。
複数契約の変更には全員の意思確認を行う。
王家都合で誰かを切り捨てない。
俺は喉の奥で息を止めた。
正室という言葉は、どうしても序列みたいに聞こえる。
誰が上で、誰が下か。
誰が認めて、誰が従うか。
でも、門が示した役割は違った。
所有の上位者ではない。
契約共同体の同意を守る場所だった。
ユリアが言う。
「美羽、ここな、ラヴィニア、イリヤーナとの契約を、王位のために解消しない」
四人が、それぞれ顔を上げる。
「ただし、私が勝手に継続を決めることもしない。四人自身の再確認を条件にする」
白い扉の氷が、ゆっくりと溶ける。
ユリアの単独室が消えていく。
扉が開いた。
彼女が戻ってくる。
俺は一歩進みかけて、止まった。
ユリアは、俺の隣に来なかった。
まず、俺の正面に立った。
それが、何よりユリアらしかった。
「聖夜」
「ああ」
声がうまく出ない。
「私は王位継承を受けた。即位儀礼は延期する。服喪、反乱の確認、アンテリアの裁き、市民への説明を終えるまで、王冠は受けない」
「うん」
「お前を、完成した王配として指名しない」
「分かってる」
「だが、私の対契約者として公に認める。黒月王配候補の審査へ、私も正室・継承者として並ぶ」
俺は口を開きかけた。
俺でいいのか。
そう聞きそうになった。
でも、その言葉は違う気がした。
俺を選んだユリアへ、俺自身の不安をまた返すだけになる。
それでも少しだけ漏れた。
「俺で」
ユリアが遮る。
「私が選んだ」
まっすぐだった。
「次は、あなたが選び続ける番」
俺は黙った。
選ばれた。
それで終わりじゃない。
選ばれ続けるように、俺も返し続ける。
ユリアは俺の横へ移動した。
二人で、扉の前に立つ。
王女と護衛ではない。
王と王配でもない。
継承者と、候補審査中の対契約者。
言葉にするとまだ堅い。
でも、俺たちが今立っている場所としては、それが一番嘘がなかった。
門の円が、今度は四人へ向いた。
美羽。
ここな。
ラヴィニア。
イリヤーナ。
それぞれの足元に、細い柱の光が立つ。
「契約継続理由を問う」
門の声が響いた。
正室が選んだから、側室は従う。
門は、そんな簡単な答えを許さなかった。
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