第041話 隣にいる以上、答える
王配にはならない。
そう言うだけなら、責任から逃げるのは簡単だった。
黒い扉の前で、俺は立ち止まっていた。
責任を負えないなら去るか。
刻まれた文字は、脅しのようにも見えた。
けれど、さっきの偽の二択とは違う。
月蝕の表示もない。
焦らせる気配もない。
選ばなければ誰かが壊れる、という嫌な期待も混じっていない。
ただ、そこに問いがある。
「去る、か」
呟くと、扉の表面に記録が映った。
三つ。
一つ目は、玉座だった。
王の影が座っている。
その周囲を、制度の文字が取り囲んでいた。
継承規則。
儀礼手順。
血統条項。
安全確保。
民意安定。
正しい言葉ばかりだった。
正しい言葉が重なりすぎて、王本人の声が埋もれていく。
隣に立つ対契約者の影が、そこで初めて前へ出た。
王の代わりに命令するのではない。
王を連れて逃げるのでもない。
制度の文字へ向かって、異議を唱えていた。
王の意思確認、未了。
本人発言、未記録。
代替判断、無効。
その言葉で、玉座の影が少しだけ息を取り戻す。
二つ目の記録は、街だった。
対契約者の影から伸びた黒い線が、国土の契約線と絡んでいる。
悪意ではない。
でも、力が強すぎる。
その力が流れ込んだ場所で、街の一部が歪んでいた。
対契約者は、膝をついて説明している。
自分の契約が何をしたのか。
どこまでが意図したことか。
どこからが制御できていないことか。
逃げずに、王と民の前で説明している。
三つ目の記録は、戦場だった。
王を守るために、民を城壁の外へ置き去りにしようとする兵たちがいる。
対契約者の影は、王の前に立たない。
民の前にも立たない。
その間に立って、線を引いていた。
王を守る名目で、民を切り捨てない。
民を救う名目で、王の意思を消さない。
どちらか一方を選べと迫る声に、待てと言っていた。
記録が消える。
俺は息を吐いた。
「全部、できるとは言えない」
自分でも、すぐ分かった。
魔の国の法を知らない。
民の暮らしも知らない。
貴族の力関係も、王家契約の細かい仕組みも知らない。
俺の中にある空白の力が何なのかも、まだ分からない。
エンプティ・リンクがどこへつながり、何を削るのかも分からない。
そんな状態で、全部できますなんて言ったら嘘だ。
「知らないなら」
美羽の声が、反照層の外から届いた。
今度ははっきり聞こえる。
「候補段階で学ぶ制度はありませんか」
黒い扉の文字が止まった。
美羽は続ける。
「即座に役割を確定させるのではなく、対契約者が国と互いを知る期間です。古い制度なら、むしろその段階がない方が不自然です」
さすがだと思った。
俺が感情で詰まっている場所へ、手続きの道を探す。
門の声が響く。
「候補段階、存在」
扉の文字が組み替わった。
黒月王配候補。
その文字を見た瞬間、俺は反射的に警戒した。
候補。
まただ。
正式じゃないから大丈夫。
仮だから大丈夫。
そう言いながら外堀を埋められる感じがした。
「候補には証言義務」
文字が続く。
「学習義務」
「統治権なし」
「辞退可能」
「辞退時、契約への影響を当事者全員へ説明」
俺は黙って読んだ。
権限。
義務。
辞める条件。
全部、出ている。
隠されていない。
「アンテリアの制度とは違いますね」
ヴェルナが言った。
彼女の記録板には、古い候補制度と現在の儀礼台帳が並んでいた。
「現在の運用では、候補段階がほぼ形骸化しています。純血の対契約者なら即時承認。家格、血統、儀礼適性を満たせば、学習期間を短縮してきた」
「それを、俺で戻したのか」
「はい。人間で、外部者で、空白を持ち、既存分類に入らない。だから古い段階制度が再起動した」
喜ぶところではない。
でも、助かった部分はある。
アンテリアたちが使っていた制度が、最初から全部悪かったわけじゃない。
古い仕組みの中にあった猶予や学習や辞退条件を、都合よく潰していた。
「でも、候補って言葉も嫌だ」
俺は正直に言った。
「また、気づいたら受けるしかない場所まで連れていかれそうで」
「違いがあります」
ヴェルナの声は、妙に優しかった。
「今回は選択肢が隠されていません。権限、義務、辞退条件が全て表示されています」
「それでも選ばせてる」
「選ばせています。ですが、選ばされている構造と、選ぶための条件提示は同じではありません」
俺は言い返せなかった。
それは、たぶん正しい。
俺が嫌っているのは、選択そのものじゃない。
選択肢を隠されること。
片方を選ばなければ誰かを壊すと脅されること。
選んだ後の責任だけを押しつけられて、選ばせた側が笑っていること。
今ここにある候補制度は、少なくともそれとは違う。
楽ではない。
重い。
でも、見えている。
「頼む」
ふいに、その言葉を思い出した。
クローナから聞いた、アウグストの遺言。
余が守れなかった分を頼む。
あの時の俺は、勝手に託すなと思った。
今も、少し思っている。
でも、あれは命令ではなかった。
王命じゃない。
制度の強制でもない。
父親が、自分にできなかったことを誰かへ言葉で残した。
ユリアを所有して渡したんじゃない。
娘の隣に立つかもしれない相手へ、自分の証言を残しただけだ。
「俺は」
扉の前で、もう一度息を吸う。
「王配になるために隣にいるんじゃない」
黒い文字が静かに揺れる。
「でも、隣にいる以上、向けられる問いには答える」
答えられるとは言わない。
正しい答えを出せるとも言わない。
「知らないことは学ぶ。できないことを、できるとは言わない」
俺は自分の手を見る。
空白の力がある。
怖いくらい何かを削れる力だ。
それでも、その力で全部をどうにかするとは言わない。
「俺の契約が国に損害を出すなら、説明する。ユリアの意思が制度に潰されるなら、異議を言う。ユリアを守るって言葉で、民を切り捨てるなら、その時は自分を疑う」
格好よくはない。
何も保証していない。
でも、ここで保証したら嘘になる。
「だから、今の俺が言えるのはそれだけだ」
門の声が返る。
「責任意思、有効」
扉の文字が黒から銀へ変わった。
俺の足元にあった影が、少しだけ軽くなる。
それでも、扉は開かない。
「対契約者一人の意思のみでは、候補認定不可」
当たり前だった。
俺がどう言おうと、俺一人で決まる話じゃない。
「王家継承者本人が、対として並ぶかを選ぶ必要あり」
反照層の闇が、横へ割れた。
ユリアの前に、単独の扉が開く。
白い扉。
黒い氷の縁取り。
その向こうから、冷たい風が吹いた。
俺は一歩動きかけて、止まった。
行きたい。
隣へ立ちたい。
でも、これは俺の問いじゃない。
俺がついていけば、それだけでユリアの答えへ影が落ちる。
「聖夜」
ユリアが俺を見た。
反照層の中で、初めてはっきり姿が見えた。
疲れている。
父親を失った顔だ。
それでも、目は折れていない。
「行ってくる」
「ああ」
喉が詰まった。
「待ってる」
それだけ言えた。
ユリアは小さくうなずく。
「次は私が答える」
彼女は一人で扉へ入った。
白い扉が閉じる。
俺は、その前で立ち止まったまま、手を伸ばさなかった。
俺が隣に立つと決めても、
ユリアが並ぶと決めなければ、何も始まらない。
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