第040話 王配になるためではない
ユリアだけを連れて逃げれば、全部守れる。
幻の中の俺は、本気でそう思っていた。
馬車は夜の黒月街を抜ける。
石畳の上を車輪が跳ね、遠くで鐘が鳴っていた。
警鐘なのか、弔いなのか、もう分からない。
俺は手綱を握っている。
隣にはユリアがいる。
眠っているように見えた。
けれど、違う。
目を閉じているだけだ。
彼女の手は膝の上で固く握られている。起きている。全部聞こえている。分かっている。
それでも、何も言わない。
「ユリア」
幻の中の俺が呼ぶ。
ユリアは答えない。
馬車の後ろで、黒い街が遠ざかっていく。
旧宮の灯り。
避難する人々の影。
クローナの指揮の声。
美羽たちの姿。
全部が小さくなる。
俺は振り返らない。
振り返れば、戻りたくなるからだ。
戻れば、ユリアをまた危険の中へ置くことになるからだ。
だから逃げる。
ユリア一人を抱えて。
俺の手が、強く手綱を握る。
「これでいい」
幻の俺が言った。
「これなら、お前は生きてる」
ユリアの横顔は動かなかった。
生きている。
確かに、生きている。
でも、そこに自分で選んだ顔はなかった。
彼女は馬車に乗せられたものみたいに、ただそこにいた。
俺は息が詰まった。
「違う」
声を出した瞬間、幻の馬車が崩れた。
黒い街が砕け、夜が反転する。
次の幻が来る。
今度は、王宮の奥だった。
分厚い扉。
外からしか開かない鍵。
窓のない部屋。
その中に、ユリアがいる。
俺は扉の外に立っていた。
胸には黒月王配の紋章がある。
さっきまで嫌悪していたはずの称号を、幻の俺は受けていた。
国を安定させるため。
ユリアを守るため。
反乱を止めるため。
外では兵たちが俺の命令を待っている。
いや、命令権なんてないはずだ。
でも幻の中では、それがあることになっていた。
俺が言えば、人が動く。
俺が止めれば、情報が止まる。
俺が許可しなければ、誰もユリアに会えない。
「今は危ない」
幻の俺が扉越しに言う。
「落ち着くまでここにいろ」
中から、ユリアの声がした。
小さい。
最初は怒っていた。
次は説得していた。
その次は、頼んでいた。
やがて、声が細くなる。
最後には、何も聞こえなくなった。
廊下の外では、国が安定していた。
暴動は起きない。
兵は整列する。
貴族たちは頭を下げる。
街の灯りも消えない。
でも、扉の向こうからユリアの声が消えていた。
俺の喉が鳴る。
「守ってねえ」
幻の俺は、扉の前に立ったまま動かない。
「それは、守ってねえだろ」
俺が叫ぶと、扉が内側から凍った。
黒い氷が廊下へ走り、紋章を砕く。
次の幻。
そこは、旧宮の外れだった。
俺はユリアの手を握っている。
黒月王配の紋章はない。
王家の儀礼も受けていない。
国土契約ともつながっていない。
ただ、対契約だけを俺とユリアの間に残している。
「俺たちの問題は、俺たちだけで決めればいい」
幻の俺はそう言った。
それは一見、まともに聞こえた。
国に利用されない。
称号に縛られない。
制度に飲まれない。
俺が言いそうな言葉だった。
けれど、その先でユリアだけが評議会の前に立っている。
アウグストの死。
反乱後の処理。
アンテリアの審査。
ゼルヴァン派の再編。
民への説明。
国土契約の安定。
全部がユリアへ集まっていた。
俺は少し離れた場所で、それを見ている。
俺たちは私的な契約だから。
国とは別だから。
そういう顔で、ユリアの負荷を見ないふりしている。
ユリアの背筋は、最初はまっすぐだった。
次第に、肩が下がる。
言葉が遅れる。
眠らない目になる。
それでも俺は、国のことは分からないと言っていた。
知らないから。
関係ないから。
称号を受けていないから。
その全部が、言い訳になっていた。
「これも違う」
俺は奥歯を噛んだ。
「これも、逃げてる」
幻が止まる。
三つの景色が、俺の周囲に並んだ。
ユリアを連れて逃げる俺。
ユリアを閉じ込める俺。
ユリアだけに背負わせる俺。
全部、俺だった。
どれも、少しずつ俺が選びそうな顔をしていた。
守りたい。
失いたくない。
縛られたくない。
利用されたくない。
その言葉は、全部本物だ。
でも、本物だから正しいわけじゃない。
誰を守るかを俺だけで決めれば、相手の意思は簡単に消える。
どう守るかを俺だけで決めれば、ユリアは俺の中のユリアに置き換わる。
何を背負わないかを俺だけで決めれば、背負わなかった分は誰かに乗る。
反照層の闇に、門の声が響いた。
「王配となるため、継承者を選んだか」
俺は顔を上げた。
問いは、二択じゃない。
でも、逃げ場はなかった。
「違う」
声はすぐ出た。
そこだけは迷わなかった。
「王配になるためじゃない」
黒い月の影が、少し揺れる。
「国を手に入れるためでも、称号が欲しかったからでもない」
デスゲームの中で、俺はユリアにいてほしいと思った。
最初は、生き残るためだった。
強いから。
頼れるから。
俺が死なないために必要だったから。
でも、それだけじゃなくなった。
ユリアが俺を道具にしないと知った。
俺の言葉を聞こうとする人だと知った。
強くて、怖くて、不器用で、優しくて。
自分を凍らせる癖があって。
それでも誰かの手を離さない人だと知った。
「ユリアにいてほしいと思った。今も、そう思ってる」
反照層の向こうで、ユリアの気配がわずかに近づいた。
姿は見えない。
でも、聞いている。
「俺は、王配になるためにユリアを選んだんじゃない。ユリアの隣にいたいと思ったら、その先にこの名前があっただけだ」
門は沈黙した。
それから、次の問いを出した。
「ならば、国は継承者から切り離せるか」
俺は答えられなかった。
すぐには。
さっきの問いとは違う。
違う、と言えば済む話じゃなかった。
ユリア個人を選んだ。
それは本当だ。
国を選んだわけじゃない。
それも本当だ。
でも、ユリアは国を背負っている。
背負わされているだけではない。
彼女自身が、捨てられないものとして見ている。
俺がユリアだけを選んだから、国は関係ない。
そう言うのは簡単だ。
簡単すぎる。
「切り離せない」
俺はようやく言った。
「でも、同じものにもできない」
反照層の闇が静かになる。
言葉を探していると、ユリアの声がした。
今度は幻じゃない。
ちゃんと、近くから届く声だった。
「聖夜」
「ユリア」
「私は、国だけではない」
「分かってる」
「同時に、国を捨てれば、私でなくなる部分もある」
俺は黙った。
ユリアは続ける。
「父が死んだ。民がいる。兵がいる。私を嫌う者も、恐れる者も、待つ者もいる。私はそれを全部愛しているとは言えない」
少しだけ、声が揺れた。
「だが、無関係だとは言えない」
「俺に、その国を愛せって言ってるのか」
「言わない」
即答だった。
ユリアらしい速さだった。
「お前に、私の国を愛せとは求めない。まだ知らないものを愛すると言われても、私は信じない」
「だよな」
少しだけ笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
「ただ、私が向き合うものを、見ないふりはしないでほしい」
それは命令ではなかった。
願いでも、少し違う。
彼女が自分の形を説明している言葉だった。
俺は息を吸った。
「国のために、ユリアの隣にいるんじゃない」
言いながら、足元の闇を見た。
「でも、ユリアの隣にいるなら、ユリアが向き合う国を無視しない」
それで十分かは分からない。
格好いい答えでもない。
国を背負う覚悟がある、と言えるほど、俺はこの国を知らない。
民の名前も、法も、土地も、痛みも、まだほとんど知らない。
それを知らないまま、背負うなんて言ったら嘘になる。
門の円が、黒い光を返した。
「動機、有効」
俺は少しだけ息を吐く。
だが、次の言葉が来た。
「責任、未回答」
「……だろうな」
分かっていたのに、腹が立った。
正しい答えを探す試験みたいだ。
何を言っても、採点される。
足りないところへ赤い線を引かれる。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
思わずこぼれた。
その時、遠くから声が届いた。
「たぶん、そういう場所じゃないよ」
ここなだった。
反照層の外にいるはずなのに、声だけが柔らかく入ってくる。
「正解を言う場所じゃなくて、嘘をつけない場所なんだと思う」
俺は目を閉じた。
正解じゃない。
嘘をつけない。
だったら、言えることは一つしかない。
「俺は、国を背負えるとはまだ言えない」
闇に向かって言う。
「この国のことを知らない。ユリアの背負ってるものも、まだ全部は分かってない。俺の力が何なのかも、どこへつながってるのかも分からない」
情けない答えだ。
でも、嘘ではない。
「それでも、知らないから関係ないとは言わない。ユリアの隣にいるって言った以上、見ないふりはしない」
門の光が、ゆっくりと沈む。
「不確かさ、虚偽なし」
それが褒め言葉なのか、ただの記録なのか分からない。
どちらでもよかった。
反照層の奥に、次の扉が現れた。
黒い扉。
銀の文字。
そこに刻まれた問いを見て、俺は喉の奥を固くした。
責任を負えないなら去るか。
王配にはならない。
そう言うだけなら、責任から逃げるのは簡単だった。
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