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第038話 黒月王配の名

 黒銀の階段を降り切った先は、部屋だった。


 広い。


 天井は見えない。けれど、空洞という感じではなかった。真上にも壁があり、真下にも壁があり、俺たちは巨大な球の内側へ立っているみたいだった。


 床だけが平らで、黒い石に細い銀線が円を描いている。


 その円が、呼吸のように明滅していた。


「門前層の記録室ですね」


 ヴェルナが低く言った。


 いつもの軽さはない。笑っていないわけではないのに、目だけが笑っていない。


「深層門そのものではありません。入る前に、意味を揃える場所です」


「意味を揃える?」


 俺が聞くと、壁が動いた。


 いや、壁そのものが動いたんじゃない。壁に映っていた影が、流れ始めた。


 王冠をかぶった者。


 剣を置いた者。


 膝をついた者。


 隣に立つ者。


 手を握る者。


 背を向ける者。


 どれも顔ははっきり見えない。人影というより、記録から余分な部分を削った形だった。


 ユリアが息を呑む。


「歴代の継承者か」


「おそらく。そして、対契約者です」


 ヴェルナの記録板に、見たことのない文字が走る。


 黒い文字。


 銀の縁。


 門の声が、足元から響いた。


「古語展開」


 黒い円の中央に、言葉が浮かぶ。


 黒月王配。


 俺の胸の奥が、嫌な感じに固まった。


 その名前は、地上でも何度も聞いた。貴族たちはそれを利用しようとしていた。民は噂として受け取っていた。俺自身は、そんな大層な名前を自分のものだと思えなかった。


 でも、門の中で出されると違う。


 これは噂じゃない。


 称号でも、飾りでもない。


 どこかへ接続するための、古い役割名だった。


「黒月」


 門の声が続く。


「隠された光を反射する契約」


 壁面に、月が映った。


 白く光る月ではなかった。黒い月だ。闇の輪郭だけがあり、その外側に、見えない光が薄く反っている。


「王配」


 次の言葉で、影が二つに分かれた。


 一人は玉座に座っている。


 もう一人は、その横に立っている。


「王の所有者ではなく、王の意思が失われていないと証言する対の者」


 俺は、反射的にユリアを見た。


 ユリアも俺を見ていた。


 所有者ではない。


 その一文だけで、少しだけ息ができた。


 けれど、それで楽になったわけじゃない。


 所有しないという言葉は、所有できる位置に立つ者へ向けられる禁止だ。


「続きます」


 美羽が言った。


 壁の影が変わる。


 今度は、玉座の前で膝をつく王の影だった。


 いや、膝をついているんじゃない。重みに潰されている。


 その人影の背に、黒い線が何本も刺さっていた。線は床へ、壁へ、街の影へ伸びている。


 国土契約。


 言葉にされなくても、そうだと分かった。


 王の影は、口を開いている。声は出ない。目も鼻もない影なのに、苦しんでいるのだけは分かる。


 その横に、もう一つの影が近づいた。


 対契約者。


 その影は命令しなかった。


 手を引っ張らなかった。


 玉座から降ろせとも、立てとも、耐えろとも言わなかった。


 ただ、王の前に座り込んだ。


 壁に文字が浮かぶ。


 本人の言葉を呼び戻す。


 次の瞬間、影の周囲に短い言葉が散った。


 誰かを守る。


 逃げない。


 この街を嫌いにならない。


 見捨てたくない。


 その言葉が、潰れかけた王の胸へ一つずつ戻っていく。


 王の影は、まだ苦しんでいた。


 それでも、立ち上がる。


 対契約者の影は、王の代わりに玉座へ座らなかった。


 王の手を握りも、引きずりもしなかった。


 ただ、隣に立った。


「成功記録」


 門が告げる。


「対契約者は王を命令せず、王本人の意思を証言した」


 ここなが小さく息を吐いた。


「ちょっと、いい話っぽいのに、重いね」


「いい話で済む制度ではありません」


 美羽が言う。


「隣にいる人間に、王の意思を証言する権限が与えられる。使い方を間違えれば、かなり危険です」


 危険。


 その言葉を聞いた瞬間、壁の影が反転した。


 今度は、別の記録だった。


 王が部屋に閉じ込められている。


 窓のない部屋。


 扉の外に、対契約者の影が立っている。


「守るため」


 壁に、その言葉が大きく出た。


 対契約者は、王を守るために閉じ込めた。


 暗殺者から。


 政敵から。


 民の暴動から。


 国土契約の負荷から。


 あらゆる危険から遠ざけるために、王を部屋の中へ置いた。


 最初は、王の影も抵抗していた。


 扉を叩く。


 叫ぶ。


 外へ出ようとする。


 けれど、時間が進むごとに、動きが減っていく。


 王の影は、最後には玉座に座っているだけになった。


 国土へ伸びる線は安定した。


 街の影も崩れていない。


 けれど、王の胸の中心にあった小さな光が消えていた。


「国土契約、安定」


 門の声は冷静だった。


「王本人の意思、消失」


 黒い文字が、壁を横切る。


 王配失格。


 ラヴィニアが片手で口元を押さえた。


 イリヤーナの影が、床の上でわずかに尖る。


「守るため、でも駄目なのですね」


「駄目だろ」


 俺の声は、自分で思ったより低かった。


「守るためって言えば、何でもできるじゃねえか」


 言ってから、胸の奥が冷えた。


 俺は、ついさっき何を思った。


 ユリアを失いたくない。


 王位なんか捨てて、連れて逃げればいい。


 そう思った。


 あれは、守るためだった。


 いや、俺の中ではそういう顔をしていた。


 でも、ユリアの意思を置き去りにした瞬間、それはこの壁に映った失敗記録と同じ方向を向く。


 守るため。


 一緒にいるため。


 失いたくないから。


 言い訳はいくらでも作れる。


「聖夜」


 ユリアが呼んだ。


 俺は答えられなかった。


 別の言葉が、喉の奥に引っかかっていた。


 ずっといろ。


 あの言葉。


 俺が勝手に契約へしてしまった言葉。


 ユリアが俺に向けた願いで、命令じゃなかったはずの言葉。


 でも、黒月王配なんて役割を持った俺が同じ言葉を返したらどうなる。


 ずっといろ。


 そばにいろ。


 離れるな。


 それが、願いじゃなく命令へ戻る可能性がある。


 俺は自分の手を見た。


 剣も持っていない。


 鎖も持っていない。


 それでも、誰かを縛れる位置へ近づいている。


「禁止事項が出ます」


 ユリアが壁を見上げた。


 彼女の声は震えていなかった。


 銀文字が、円形の壁へ三つ並ぶ。


 ユリアが一つずつ読んだ。


「王位を代行しない」


 最初の文字が、床へ沈む。


「即位・退位を代わりに決めない」


 二つ目の文字が、黒く光る。


「契約を理由に、身体・感情・行動を拘束しない」


 三つ目の文字が、俺の胸へ刺さった。


 身体。


 感情。


 行動。


 全部だ。


 王配という名前で縛ってはいけないものが、全部そこに書いてあった。


「権限を確認します」


 美羽が前へ出る。


 こういう時の美羽は、怖いくらい冷静だ。怖いけど、今はありがたい。


「黒月王配には何が許されるのですか」


 門が返す。


「証言権」


 壁に、王と対契約者と、第三者の影が映る。


「異議申立て権」


 対契約者の影が、王の前へ立つのではなく、王へ向けられた契約線の一部を指し示す。


「統治命令権はない」


 その言葉で、玉座の上に浮かんでいたもう一つの王冠が砕けた。


 美羽はうなずく。


「非常時は?」


「王の意思確認を代行する」


「統治判断の代行ではなく?」


「意思確認の代行」


「確認しました」


 美羽がこちらを見た。


「つまり、聖夜さんが王になる制度ではありません。ユリアさんの代わりに命令する制度でもありません」


「俺が何か決めるわけじゃない」


「決めてはいけない、ですね」


 美羽の訂正はきつかった。


 けれど、必要だった。


 ここながゆっくり手を挙げた。


「それなら、王様を一人にしないための役?」


 門の円が、淡く明るくなる。


 肯定。


 ここなは唇を結んだ。


「一人にしないのと、閉じ込めるのって、近く見えるけど全然違うんだ」


「近く見えるから危険なんだと思います」


 ラヴィニアが静かに続ける。


「では、民との関係はどうなりますか。王配は、民意を代弁する者なのですか」


 門はすぐに否定した。


「王配は民意を代弁する者ではない」


 壁に、群衆の影が映る。


 その声は、王へ向かっている。王配へではない。


「王と民の契約が改変されていないかを証言する者」


「民の声を奪わない、ということですね」


 ラヴィニアは目を伏せた。


 歌姫として民の前に立つ彼女には、その意味が重いのだと思う。


 イリヤーナが一歩前へ出た。


「敵の排除権限は」


 短い問いだった。


 影が床を這う。


 門は否定した。


「王配は私兵の長ではない」


「では、王を害する者を斬る権限は」


「王配権限に含まれない」


 イリヤーナは黙ってうなずいた。


 不満そうではなかった。


 むしろ、線を引かれて安心したようにも見えた。


「影の仕事は、影の責任で行えということですか」


 門は答えない。


 けれど、その一言で、イリヤーナの肩から力が抜けたらしい。


「その線で記録します」


 ヴェルナが記録板を持ち上げた。


「形式が古すぎます」


「古いって、どのくらいだ」


「LVRより古いです」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 LVR。


 俺たちを巻き込んだデスゲーム。


 感情を数値にして、見せ物にして、命まで賭けさせた仕組み。


「黒月王配制度はLVRより古い。こちらは相互確認の仕組みです。継承者と対契約者が、互いの意思を失わせないための構造」


 ヴェルナの指が、記録板の上を滑る。


「LVRはそこから、数値化と観賞だけを抜き出している」


「抜き出した?」


「はい。確認ではなく評価へ。証言ではなく観賞へ。契約ではなく消費へ。根が似ているのではありません。歪めて使われています」


 気持ち悪かった。


 最初から全部、別物の悪意だと思っていた方がまだましだった。


 誰かを一人にしないための仕組みから、誰かの感情を見世物にする仕組みだけを抜き出した。


 その発想が、嫌だった。


「確認したい」


 ユリアが言った。


 門の円が、彼女へ向く。


「王配不在でも、王位継承は可能か」


「可能」


 俺は息を吐いた。


 ユリアの即位に俺が必須ではない。


 そこは、はっきりした。


「では、なぜ私たちはここにいる」


 ユリアは続ける。


「強い対契約が存在する場合、無視して即位すると、双方が損傷する」


 門の声が返す。


 双方。


 ユリアだけじゃない。


 俺もだ。


「つまり、私が王になるために聖夜が必要なのではない。私と聖夜がすでに契約を結んでいるから、無視すれば壊れる」


「肯定」


 ユリアは俺を見た。


 俺は、笑えなかった。


「悪い」


 言った瞬間、ユリアの眉がわずかに動く。


「俺がいるせいで、ややこしくなってる」


「違う」


 ユリアは即答した。


 冷たくはなかった。


 でも、逃げ道を塞ぐ声だった。


「いるせいではない」


 俺の胸の奥が詰まる。


「私が結んだ契約だから、私の責任でもある」


「でも」


「聖夜だけが背負うな。私が、ずっといろと言った。私が、隣にいることを望んだ。ならば、これは私の問題でもある」


 ユリアは玉座の影を見た。


 それから、王配失格と記された壁を見た。


「私は閉じ込められるために王になるのではない。お前を鎖にするために王になるのでもない」


 俺は何も言えなかった。


 美羽が少しだけ目を伏せる。


 ここなは、泣きそうな顔で笑った。


 ラヴィニアは胸の前で指を組み、イリヤーナは影を静かに丸めていた。


 ヴェルナだけが、壁の文字を見続けている。


 門の円が、もう一度明滅した。


「確認完了」


 床の銀線が、二つに分かれた。


 右と左。


 黒い線と、白い線。


 その間に、文字が浮かぶ。


「役割を受け、国土契約へ接続するか」


 右の線が、ユリアの足元へ伸びる。


「役割を拒み、対契約を王家から切り離すか」


 左の線が、俺の足元へ伸びる。


 まただ。


 俺は奥歯を噛んだ。


 受けるか。


 拒むか。


 認めるか。


 切るか。


 いつも、そうだ。


 俺たちが何を考えているかより先に、二つの箱を置いてくる。


「待ってください」


 ヴェルナが言った。


 彼女の声が、さっきまでと違った。


「文字の一部が揺れています」


「揺れ?」


「古層記録の筆跡ではありません。二択の表示に、別の層が混じっています」


 壁の文字を見る。


 俺には、同じに見えた。


 けれどヴェルナの目には、違うものが見えているらしい。


 彼女は記録板を胸に抱え、唇だけで何かを数えた。


 門は黙っている。


 右の線と左の線だけが、俺たちの足元で光っていた。


 認められるか、全部切るか。

 門まで、俺に同じ二択を出してきた。



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