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第037話 深層門、開く

 深層門は、旧宮の地下に黒銀の階段を開いていた。


 黒い石床が割れたわけではない。


 もともとそこにあったものが、ようやく見えるようになっただけのように、階段は静かに下へ続いている。


 地上では、戦闘が完全に終わったわけではなかった。


 だが、クローナが発動した継承猶予条項によって、即時の衝突は止まった。王家兵が反対派兵を一人ずつ武装解除し、評議員たちは記録の照合に追われている。


 クローナは顔色の悪いまま、指揮杖を掲げた。


「ゼルヴァン卿を保護拘束。アンテリア=ヴォクスの最高儀礼長権限を一時停止します」


 アンテリアは抵抗しなかった。


 深層門を見ている。


 自分が拠っていた儀礼よりも古いものが動いた。


 その事実が、彼女の言葉を奪っているようだった。


「正式な裁きは、王位と評議会の安定後に行います」


 クローナの声は震えていた。


 けれど、折れてはいない。


 彼女はユリアの前へ進み、片膝をついた。


「ユリア殿下」


 ユリアは立っていた。


 泣いていない。


 王女の顔で、立っていた。


「アウグスト陛下の最期を、報告します」


 クローナは、言葉を一つずつ置いた。


 アウグストが帰還隊を逃がしたこと。


 月蛇の契約を使い切ったこと。


 橋を落とし、追手を止めたこと。


 そして。


「三年前も今日も、お前のせいではない、と」


 ユリアの膝が崩れた。


 声は出なかった。


 泣き叫ぶこともなかった。


 ただ、床に膝をつき、両手で顔を覆った。


 俺は一歩、近づきかけて止まった。


 抱きしめていいのか、わからなかった。


 王女として立っていた時間を、俺が勝手に壊していいのか。


 父を失った娘として泣く時間を、俺が勝手に奪っていいのか。


 だから待った。


 ユリアの手が、俺の服を掴むまで。


 布を握る指が震えていた。


 そこで初めて、俺は膝をつき、ユリアを抱き寄せた。


 短い時間だった。


 王位も、反乱も、深層門も、全部が待ってくれるわけじゃない。


 それでも、その少しの時間だけは、ユリアは王女ではなく、父を失った娘だった。


 クローナは目を伏せたまま、もう一つの言葉を抱えていた。


「神酒聖夜殿」


「俺か」


「陛下から、あなたへの伝言があります」


 俺の背筋がこわばる。


 クローナは、通信の声を思い出すように言った。


「その男に伝えろ」


 一度、息を吸う。


「婿殿、とは言えなかったが」


 その言葉に、ユリアの肩が小さく震えた。


 クローナは続ける。


「名も家柄も力も求めぬ。ユリアが選んだ。それだけで、余には十分だ」


 俺は何も言えなかった。


「余が守れなかった分を頼む」


 勝手に託すな、と思った。


 会ったこともない相手に、そんなものを渡すな。


 俺は王でも、英雄でも、家柄のある誰かでもない。


 ユリアを守り切れる保証なんてない。


 でも、父親が娘を思って残した言葉を、軽く扱うこともできなかった。


 俺はユリアを見た。


「ユリア」


 彼女はまだ俺の服を掴んでいる。


「俺は、あの人に頼まれたから残るんじゃない」


 ユリアが顔を上げた。


 目は赤い。


 でも、こちらを見ている。


「お前がどうしたいかを聞く。父親がそう言ったからでも、国がそう決めたからでもない。お前が、どうしたい」


 ユリアはすぐには答えなかった。


 深層門の黒銀の階段が、静かに光っている。


 地上では、兵たちの足音と記録官の声がまだ続いている。


「即位も、退位も」


 ユリアはゆっくり言った。


「今は答えない」


 それでよかった。


「まず父を弔う。その後、自分で選ぶ」


 その言葉が落ちた瞬間、深層門の奥から声が響いた。


 古い記録音声。


 人の声に似ているが、人ではない。


「継承者」


 ユリアの足元に黒い月の光が灯る。


「対の者」


 俺の胸のエンプティ・リンクが震えた。


「契約の柱」


 美羽、ここな、ラヴィニア、イリヤーナの足元に、それぞれ違う色の線が浮かぶ。


「記録する空白」


 ヴェルナの瞳に、白い光が走った。


 クローナにも、淡い反応が出る。


 だが、それは階段へ呼ぶものではなかった。


 門前立会人。


 そんな意味が、壁面の古い文字に浮かんだ。


 アンテリアの足元には、何も灯らない。


 彼女はそれを見て、唇を噛んだ。


 入門資格を失っている。


 そう告げられたのと同じだった。


 美羽が壁面文字を見上げる。


「確認します。深層門へ入ることと、即位受諾は別手続きですか」


 壁面に文字が流れた。


 継承意思の確認。


 自動即位にあらず。


「よし」


 美羽が小さく息を吐く。


「入った瞬間に即位扱いされるわけではありません」


 ユリアが階段の前へ立った。


「私は入る」


 誰も止めなかった。


「答えを強制されるためではありません。王家が何を隠してきたのか、何を残してきたのかを知るために」


 俺も隣へ進んだ。


「俺も行く」


 クローナがこちらを見る。


 俺は先に言った。


「王配になるためじゃない。ユリアの隣にいるって選んだ俺が、何につながってるのか確かめるためだ」


 美羽たちが、それぞれうなずく。


 ここなはまだ少し青ざめていた。


 ラヴィニアは歌う前のように静かだった。


 イリヤーナは影を足元へ収めている。


 ヴェルナは記録板を閉じ、自分の足で階段の前に立った。


「私は、記録します」


 クローナは門前に残った。


「私は地上を守ります」


 彼女の声には、迷いがなかった。


「反乱後の処理、王家兵の再編、評議会の保全。ここを空ければ、陛下の死がまた利用されます」


 それから、深層門へ向けて頭を下げる。


「アウグスト陛下の遺言を、門前立会人として記録します」


 黒銀の階段が、少しだけ明るくなった。


 七人で降りる。


 ユリア。


 俺。


 美羽。


 ここな。


 ラヴィニア。


 イリヤーナ。


 ヴェルナ。


 階段を一段降りるごとに、地上の音が遠ざかっていく。


 門の奥から、最初の分類が返った。


「人間。空白。対契約、有効。役割、未選択」


 黒月王配。


 門の底で、その名前だけが先に待っていた。



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