第036話 遊戯は終わっていない
「ユリアへつなげるな。お前が聞け」
アウグストの声は、クローナの通信具からだけ聞こえていた。
旧宮の廊下では、反対派兵と王家兵がぶつかっている。転移陣は沈黙し、外部通信は切られ、評議室へ向かう通路の一部は封鎖された。
それでも、クローナは通信具を落とさなかった。
「陛下」
「救援へ来るな」
遠い爆音が混じる。
「ユリアを生かせ。三年前も今日も、お前のせいではない」
クローナの顔が歪んだ。
彼女は何かを言おうとして、言えなかった。
アウグストは続ける。
「ユリアの連れへ伝えろ」
俺の胸が強く鳴った。
「名も家柄も力も求めぬ。ユリアが選んだ。それで十分だ」
それ以上は、雑音に飲まれた。
通信の向こうで、月蛇の契約が崩れる音がした。
銀色の蛇が何本も千切れ、橋頭の映像が一瞬だけ開く。
アウグストは追手と橋を落としていた。
帰還隊の生存者を逃がすために、自分の足場ごと。
強さを見せるためではない。
時間を作るため。
ユリアが走り出しかけた。
俺は反射的に手を伸ばし、けれど止める言葉が出なかった。
通信が途絶える。
クローナは、王の死をすぐには口にできなかった。
三年前と同じ顔をしていた。
守れなかった者の顔。
それでも彼女は、指揮を手放さない。
「評議室前を維持。地下退避路を開け。負傷者を奥へ」
ユリアは通信の沈黙を聞いていた。
泣かなかった。
叫びもしなかった。
ただ、俺の手を強く握った。
痛いくらいに。
俺は慰めの言葉を探した。
何も見つからなかった。
大丈夫だとは言えない。
間に合うとも言えない。
父親を失った人間に、今すぐ何かを言えるほど、俺はできていない。
評議室の扉が破られた。
ゼルヴァン側の兵が流れ込む。
ゼルヴァン自身が、青ざめた顔で前へ出た。
「アウグスト陛下、崩御」
その言葉が、広い部屋に落ちた。
「王位空白を避けるため、ユリア殿下には即時の判断を求めます。即位か、退位か」
早い。
あまりにも早い。
父の死が、もう選択肢に変えられている。
アンテリアが姿を現した。
彼女も動揺していた。
顔色は悪く、唇はわずかに震えている。
だが、口から出るのは制度の言葉だった。
「継承者は日没までに即位を受けるか、権利を放棄しなければなりません」
「ふざけるな」
俺は前へ出た。
王配候補としてではない。
そんな肩書きは、まだ誰も認めていない。
俺はユリアの対契約者で、生還証言者だ。
少なくとも、彼女が何を選ぶかを、横から奪わせないためにここにいる。
「ユリアが決めるまで、誰も触れるな」
アンテリアの目がこちらへ向いた。
「あなたに王位継承へ発言権はありません」
「ない」
俺は即答した。
「俺に王位を決める権利はない。だからこそ、他人がユリアの代わりに決めることも許さない」
ゼルヴァンが何か言いかける。
その前に、美羽が法典を開いた。
「非常継承規則、弔いおよび契約安定化猶予」
アンテリアの顔が強ばる。
美羽は読み上げた。
「王死亡確認後、継承者が王家契約の再接続を受ける前に、弔いと契約安定化のための猶予を認める。戦時および内乱時においても、最低限の確認時間を省略してはならない」
「その条項は」
「省略されていました」
美羽の声は冷たい。
「あなた方の提示した即位か退位かの二択には、この一条がありません」
ここなが兵たちを見た。
「全員が、これを望んでるわけじゃない」
彼女の声は震えていたが、はっきりしていた。
「王様が死んだって聞いて、命令が正しいのかわからなくなってる人がいる。怖くて、でも止まれない人がいる」
ラヴィニアが低く歌い始めた。
王の死を煽る歌ではない。
歓声へ変える歌でもない。
弔いの低い旋律。
兵と市民の呼吸を、死を消費する速さから引き戻す歌だった。
イリヤーナはゼルヴァンへ届く位置に立った。
刃は抜いていない。
殺さない。
ただ、ユリアへ手を伸ばした瞬間に止められる位置。
彼女はその境界を守っている。
クローナが、ようやく通信具を下ろした。
「アウグスト陛下の死亡を、王家側として確認します」
声が震えている。
それでも、部屋全体に届いた。
「同時に、非常継承規則に基づき、継承猶予条項を発動します。日没までの即答要求は停止。王家契約安定化と弔いの確認を優先します」
反対派兵の動きが止まった。
全てが止まったわけではない。
だが、即時衝突は一歩だけ遠ざかった。
ヴェルナが、観測ログを全員へ投影した。
紫黒の曲線が跳ね上がる。
王の死と同時に、笑い反応が最大になっていた。
白い文字が、空中に浮かぶ。
最高の分岐。
次は即位か退位か。
礼拝堂で見たものと同じ二択誘導。
俺の胃の奥が冷えた。
「デスゲーム運営は消えたのかもしれない」
俺は言った。
「でも、その上で選択を見て笑ってたやつらは残ってる。魔の国の制度も、傷も、今度は新しいゲーム盤にしてる」
ユリアが、その表示を見た。
父の死を見世物にした文字。
即位か退位かを、次の見どころにした文字。
彼女の手が、俺の手から離れる。
逃げるためではない。
前へ出るために。
「私は、即位も退位も、あなたたちの望む速度では選びません」
ユリアの声が、評議室に通った。
「私の父の死を、あなたたちの続きにしない」
アンテリアは空中の文字を見上げていた。
初めて、自分も見られていたのだと理解した顔だった。
誘導された。
利用された。
それでも、彼女が選んだ事実は消えない。
アンテリアは唇を震わせた。
「審査は、継続されます」
それは、罪を認める言葉ではなかった。
制度へ逃げ込む言葉だった。
だが、もう前と同じ響きではない。
旧宮の地下から、地鳴りが起こった。
黒い石床の奥で、何か古いものが目を覚ます。
アウグストの王家契約が途絶え、ユリアの継承権が単独で浮上した。
同時に、俺の胸のエンプティ・リンクが震える。
ユリアとの対契約が、黒い月の奥へ引かれていく。
「これは観測者側の入力ではありません」
ヴェルナが言った。
「魔の国自身の古い契約反応です」
黒月街の地下。
封じられていた深層門が、完全ではない形で開き始めていた。
月の中に、翼を持つ蛇の紋章が浮かぶ。
観測者の文字ではない。
ゲームの選択肢でもない。
もっと古い、魔の国の声。
遊戯は終わっていない。
だからといって、全ての選択が偽物になるわけではない。
見られていても、選ぶ責任は俺たちにある。
深層門の向こうから、低い声が響いた。
「対の者。名を持たぬ者。門前へ」
父親を失ったその夜に、
ユリアの国は、俺たちへ門を開いた。
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