表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
32/54

第031話 ラヴィニア、歌で民を動かす

 歌は、最初ひとつだけだった。


 広場の端で、誰かが古い儀礼歌を口ずさんだ。


 帰還者の名を月へ返す歌。


 黒月礼拝堂で聞いた旋律に似ている。けれど、すぐに二つ目の声が別の路地から重なった。三つ目、四つ目。黒月街の複数の場所から、同じ旋律が少しずつずれて流れ始める。


 それを聞いた群衆のざわめきが、また荒くなった。


 静かになりかけていた不安が、急に熱を持つ。


「やっぱり人間は外へ返すべきだ」


「殿下を守れ」


「異物を王家に入れるな」


 声が、さっきより鋭くなる。


 ラヴィニアは顔色を変えた。


「違います」


 彼女は広場の音を聞き分けるように目を閉じる。


「本来の歌ではありません。帰還者の名を共同体へ戻す歌の一部が、反転されています」


「反転?」


 俺が聞くと、ラヴィニアは小さくうなずいた。


「名を迎える音が、外へ返す音に変えられています。帰ってきた者を受け入れる歌が、異物を外へ追う歌に歪められている」


 聞いているだけの俺には、そこまでわからない。


 でも、群衆の空気が変わったことはわかる。


 さっきまで怖いと言葉にし始めていた人たちが、もう一度、短い敵意へ戻されていく。


 ヴェルナが手元に白い光の板を出した。


「音源同期を確認します」


 彼女の指が動く。


 街の地図の上に、いくつもの点が浮かんだ。


「複数の歌い手が偶然合わせたものではありません。開始時刻に同じ遅延周期があります。黒月礼拝堂の観測窓で確認した入力遅延と近い」


「またかよ」


 俺は歯を食いしばった。


 文字で来ないなら、今度は歌か。


 クローナが護衛へ合図を出そうとする。


「歌い手を拘束します。暴動誘発の疑いがあります」


「お待ちください」


 ラヴィニアが止めた。


 声は静かだったが、強かった。


「歌い手自身も、旋律を渡されただけの可能性があります。歌を止める必要はありますが、歌った者をすぐに敵と決めるべきではありません」


 クローナは動きを止めた。


 ラヴィニアの目は怒っている。


 歌を悪用された怒り。


 でも、その怒りは歌い手へ向いていない。


 俺はラヴィニアへ向き直った。


 頼みたい。


 今すぐ歌ってくれ、と言いたい。


 彼女の歌なら、この歪みを止められるかもしれない。


「ラヴィニア、歌って」


 言いかけて、止まった。


 便利な力として使うな。


 そう自分に言い聞かせる。


 ラヴィニアは歌姫だ。


 でも、俺の道具じゃない。


「……どうしたい」


 言い直すと、ラヴィニアが俺を見た。


 少しだけ、表情が柔らかくなる。


「歌います」


 その答えは早かった。


「聖夜様を持ち上げる歌にはしません。人間を受け入れろと命じる歌にも。ユリア殿下の帰還と、この街が抱えた三年間の痛みを、同じ歌へ入れます」


「そんなことができるのか」


「できます」


 迷いのない返事だった。


「怒りを消すのではありません。痛みを消すのでもありません。ただ、誰かに過剰に増幅された分だけ、ほどきます」


 ラヴィニアは広場の中央へ進んだ。


 市民の視線が集まる。


 反対派の声が、彼女を止めようとする。


「歌姫まで人間側か!」


「殿下を惑わすな!」


 ラヴィニアは答えなかった。


 ただ、息を吸う。


 最初の音は、とても細かった。


 けれど、広場の黒い石に触れた瞬間、音は静かに広がった。


 帰還者の名を月へ返す旋律。


 そこに、泣き声のような揺れが混じる。


 ユリアが消えた三年間。


 戻らなかった兵。


 待ち続けた家。


 人間への怒り。


 それらを否定しないまま、音が一つずつほどいていく。


 群衆の中で、泣く者がいた。


 耳を塞いで立ち去る者もいた。


 腕を組んだまま、最後まで睨んでいる者もいる。


 それでよかった。


 全員が味方になる歌ではない。


 勝利を告げる拍手もない。


 ただ、怒鳴る前に、自分の呼吸を思い出させる歌だった。


 歪んだ歌が、対抗するように音量を上げた。


 路地の奥から、屋根の上から、広場の外周から、反転された旋律が強くなる。


 黒月面の文字は出ない。


 でも、わかった。


 対立が激しくなる方を望んでいる何かが、音の形で押してきている。


 ここなが目を閉じる。


「ラヴィニアちゃんの歌、賛成に変えてない」


 彼女は民衆の靄を読んでいた。


「怒ってる人は怒ってる。怖い人は怖い。でも、速すぎた感情が、本人の速度に戻ってる」


 本人の速度。


 それは、昨日の観測コメントや、今の歪んだ歌にはないものだった。


 見ているやつらは速く燃え上がることを望む。


 でも、人が自分の痛みを言葉にするには、もっと遅さがいる。


 美羽が評議会側へ向かった。


「歌い手への報復禁止を記録してください」


 書記官が顔を上げる。


「しかし、暴動誘発の」


「操作された者と、操作した者を分けます。歌った事実だけで拘束すれば、背後の者は隠れます」


 美羽の声は、また手続きの声だった。


「任意聴取。旋律の入手経路の確認。歌い手本人への報復禁止。公開記録へ残してください」


 クローナがうなずき、護衛へ合図を変えた。


 拘束ではなく、保護と聴取。


 一人の歌い手が、護衛に連れられて広場の端へ来た。


 まだ若い男だった。


 顔色が悪い。


「俺は、ただ歌を渡されただけです」


 男は震える声で言った。


「匿名の使者が、これを。黒月の正式な儀礼歌だと」


 差し出された紙には、黒月紋の封蝋がついていた。


 クローナが目を細める。


「王家の印に似ています」


「礼拝堂の印にも似ています」


 ヴェルナが横から見た。


「ですが、微細に違います」


 彼女の指先に白い光が灯る。


 封蝋の縁を読み取るように動かすと、光の板に細い記号が浮かんだ。


「観測層の識別子があります」


 俺の背筋が冷えた。


「つまり」


「神々の遊戯側が、魔国の古い儀礼歌を政治刺激へ転用した証拠です」


 ヴェルナの声は硬い。


「魔国文化を理解していないのではありません。理解した上で、歪めています」


 ラヴィニアの歌が、最後の節へ入った。


 歪んだ旋律は、完全には消えない。


 けれど、広場を支配するほどではなくなっていく。


 歌い終わっても、拍手はなかった。


 勝利の声もない。


 ただ、広場に、互いの言葉が聞こえる程度の静けさが戻った。


 ラヴィニアは深く息を吐き、俺たちの方へ戻ってきた。


「勝ったわけではありません」


「わかってる」


 俺は答えた。


「でも、助かった」


 ラヴィニアは少しだけ目を伏せた。


「私の歌を、支配のために使わせるわけにはいきません」


 そのとき、屋根の影が動いた。


 イリヤーナだった。


 彼女はいつの間にか、広場の周囲を回っていたらしい。


 影から影へ移るように降りてきて、俺の前で膝をつく。


「聖夜様」


「どうした」


「偽装使者を追っていた人物を見つけました」


 彼女の手には、黒い布に包まれた紙片がある。


「その者は逃走中です。ただし、落としたものを回収しました」


 クローナが紙片を開いた。


 顔色が変わる。


「旧宮の警備経路図……」


 ラヴィニアの歌で人を集めた次は。


 影で、逃げ道を消すつもりらしい。



少しでも続きが気になったら、ブックマーク・評価・いいねで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ