第031話 ラヴィニア、歌で民を動かす
歌は、最初ひとつだけだった。
広場の端で、誰かが古い儀礼歌を口ずさんだ。
帰還者の名を月へ返す歌。
黒月礼拝堂で聞いた旋律に似ている。けれど、すぐに二つ目の声が別の路地から重なった。三つ目、四つ目。黒月街の複数の場所から、同じ旋律が少しずつずれて流れ始める。
それを聞いた群衆のざわめきが、また荒くなった。
静かになりかけていた不安が、急に熱を持つ。
「やっぱり人間は外へ返すべきだ」
「殿下を守れ」
「異物を王家に入れるな」
声が、さっきより鋭くなる。
ラヴィニアは顔色を変えた。
「違います」
彼女は広場の音を聞き分けるように目を閉じる。
「本来の歌ではありません。帰還者の名を共同体へ戻す歌の一部が、反転されています」
「反転?」
俺が聞くと、ラヴィニアは小さくうなずいた。
「名を迎える音が、外へ返す音に変えられています。帰ってきた者を受け入れる歌が、異物を外へ追う歌に歪められている」
聞いているだけの俺には、そこまでわからない。
でも、群衆の空気が変わったことはわかる。
さっきまで怖いと言葉にし始めていた人たちが、もう一度、短い敵意へ戻されていく。
ヴェルナが手元に白い光の板を出した。
「音源同期を確認します」
彼女の指が動く。
街の地図の上に、いくつもの点が浮かんだ。
「複数の歌い手が偶然合わせたものではありません。開始時刻に同じ遅延周期があります。黒月礼拝堂の観測窓で確認した入力遅延と近い」
「またかよ」
俺は歯を食いしばった。
文字で来ないなら、今度は歌か。
クローナが護衛へ合図を出そうとする。
「歌い手を拘束します。暴動誘発の疑いがあります」
「お待ちください」
ラヴィニアが止めた。
声は静かだったが、強かった。
「歌い手自身も、旋律を渡されただけの可能性があります。歌を止める必要はありますが、歌った者をすぐに敵と決めるべきではありません」
クローナは動きを止めた。
ラヴィニアの目は怒っている。
歌を悪用された怒り。
でも、その怒りは歌い手へ向いていない。
俺はラヴィニアへ向き直った。
頼みたい。
今すぐ歌ってくれ、と言いたい。
彼女の歌なら、この歪みを止められるかもしれない。
「ラヴィニア、歌って」
言いかけて、止まった。
便利な力として使うな。
そう自分に言い聞かせる。
ラヴィニアは歌姫だ。
でも、俺の道具じゃない。
「……どうしたい」
言い直すと、ラヴィニアが俺を見た。
少しだけ、表情が柔らかくなる。
「歌います」
その答えは早かった。
「聖夜様を持ち上げる歌にはしません。人間を受け入れろと命じる歌にも。ユリア殿下の帰還と、この街が抱えた三年間の痛みを、同じ歌へ入れます」
「そんなことができるのか」
「できます」
迷いのない返事だった。
「怒りを消すのではありません。痛みを消すのでもありません。ただ、誰かに過剰に増幅された分だけ、ほどきます」
ラヴィニアは広場の中央へ進んだ。
市民の視線が集まる。
反対派の声が、彼女を止めようとする。
「歌姫まで人間側か!」
「殿下を惑わすな!」
ラヴィニアは答えなかった。
ただ、息を吸う。
最初の音は、とても細かった。
けれど、広場の黒い石に触れた瞬間、音は静かに広がった。
帰還者の名を月へ返す旋律。
そこに、泣き声のような揺れが混じる。
ユリアが消えた三年間。
戻らなかった兵。
待ち続けた家。
人間への怒り。
それらを否定しないまま、音が一つずつほどいていく。
群衆の中で、泣く者がいた。
耳を塞いで立ち去る者もいた。
腕を組んだまま、最後まで睨んでいる者もいる。
それでよかった。
全員が味方になる歌ではない。
勝利を告げる拍手もない。
ただ、怒鳴る前に、自分の呼吸を思い出させる歌だった。
歪んだ歌が、対抗するように音量を上げた。
路地の奥から、屋根の上から、広場の外周から、反転された旋律が強くなる。
黒月面の文字は出ない。
でも、わかった。
対立が激しくなる方を望んでいる何かが、音の形で押してきている。
ここなが目を閉じる。
「ラヴィニアちゃんの歌、賛成に変えてない」
彼女は民衆の靄を読んでいた。
「怒ってる人は怒ってる。怖い人は怖い。でも、速すぎた感情が、本人の速度に戻ってる」
本人の速度。
それは、昨日の観測コメントや、今の歪んだ歌にはないものだった。
見ているやつらは速く燃え上がることを望む。
でも、人が自分の痛みを言葉にするには、もっと遅さがいる。
美羽が評議会側へ向かった。
「歌い手への報復禁止を記録してください」
書記官が顔を上げる。
「しかし、暴動誘発の」
「操作された者と、操作した者を分けます。歌った事実だけで拘束すれば、背後の者は隠れます」
美羽の声は、また手続きの声だった。
「任意聴取。旋律の入手経路の確認。歌い手本人への報復禁止。公開記録へ残してください」
クローナがうなずき、護衛へ合図を変えた。
拘束ではなく、保護と聴取。
一人の歌い手が、護衛に連れられて広場の端へ来た。
まだ若い男だった。
顔色が悪い。
「俺は、ただ歌を渡されただけです」
男は震える声で言った。
「匿名の使者が、これを。黒月の正式な儀礼歌だと」
差し出された紙には、黒月紋の封蝋がついていた。
クローナが目を細める。
「王家の印に似ています」
「礼拝堂の印にも似ています」
ヴェルナが横から見た。
「ですが、微細に違います」
彼女の指先に白い光が灯る。
封蝋の縁を読み取るように動かすと、光の板に細い記号が浮かんだ。
「観測層の識別子があります」
俺の背筋が冷えた。
「つまり」
「神々の遊戯側が、魔国の古い儀礼歌を政治刺激へ転用した証拠です」
ヴェルナの声は硬い。
「魔国文化を理解していないのではありません。理解した上で、歪めています」
ラヴィニアの歌が、最後の節へ入った。
歪んだ旋律は、完全には消えない。
けれど、広場を支配するほどではなくなっていく。
歌い終わっても、拍手はなかった。
勝利の声もない。
ただ、広場に、互いの言葉が聞こえる程度の静けさが戻った。
ラヴィニアは深く息を吐き、俺たちの方へ戻ってきた。
「勝ったわけではありません」
「わかってる」
俺は答えた。
「でも、助かった」
ラヴィニアは少しだけ目を伏せた。
「私の歌を、支配のために使わせるわけにはいきません」
そのとき、屋根の影が動いた。
イリヤーナだった。
彼女はいつの間にか、広場の周囲を回っていたらしい。
影から影へ移るように降りてきて、俺の前で膝をつく。
「聖夜様」
「どうした」
「偽装使者を追っていた人物を見つけました」
彼女の手には、黒い布に包まれた紙片がある。
「その者は逃走中です。ただし、落としたものを回収しました」
クローナが紙片を開いた。
顔色が変わる。
「旧宮の警備経路図……」
ラヴィニアの歌で人を集めた次は。
影で、逃げ道を消すつもりらしい。
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