第032話 イリヤーナ、影の忠誠
イリヤーナは、音もなく屋根から落ちた。
落ちた、というより、影が形を変えたように見えた。
黒月街の広場から旧宮へ続く細い路地。その奥で、偽装使者を追っていた人物が振り返るより早く、足元の影が伸びる。
腕。
足首。
喉。
三か所を同時に縛られ、男は声も出せずに石壁へ押しつけられた。
イリヤーナの刃が、男の首筋へ入る。
あと少し動けば、殺せる。
俺たちが駆けつけた時、彼女はその位置で止まっていた。
「イリヤーナ!」
俺は息を切らして路地へ入った。
クローナと美羽、ヴェルナが少し後ろに続く。
「殺すな」と言いかけた。
でも、その言葉は出なかった。
イリヤーナはもう止まっていたからだ。
刃は首筋にある。
影は完全に男を拘束している。
だが、血は流れていない。
イリヤーナは俺を見ずに言った。
「殺していません」
「……わかってる」
俺は近づきながら答えた。
「止まったんだな」
そこで初めて、イリヤーナの目がこちらへ向いた。
いつもの静かな目だった。
でも、その奥にある熱は、前より少し違って見えた。
「聖夜様が境界を置かれました」
「俺が命令したからか」
「いいえ」
イリヤーナは短く答えた。
「私が、そうすると選びました」
その言葉で、俺の胸の奥が少しだけ緩んだ。
彼女は便利な暗殺者じゃない。
俺のために勝手に誰かを消す刃でもない。
止まることも、彼女自身の選択になり始めている。
クローナが拘束された男の所持品を調べた。
黒い布に包まれていたのは、さっき見つけた旧宮の警備経路図だけではなかった。
王家転移陣の停止時刻。
外縁から戻るアウグストの予定経路。
黒月礼拝堂の封印鍵の写し。
クローナの顔色が変わる。
「これは、外へ出ていい情報ではありません」
「どのくらいまずい」
「王家、礼拝堂、外縁軍の一部しか知らないはずです。内部協力者がいます」
路地の空気が冷えた。
ユリアの帰還。
聖夜への審査。
市民の不安。
歪められた儀礼歌。
それらの裏で、もっと直接的な刃が王家の通路へ伸びていた。
イリヤーナが男の影へ手を置く。
「命令経路を読みます」
影が薄く震えた。
男は呻こうとしたが、影に喉を押さえられて音にならない。
イリヤーナは目を細める。
「ヴォクス侯爵家の中継所を経由しています」
アンテリアの家名。
俺の中で、すぐに怒りが立った。
「アンテリアが」
「待ってください」
美羽が鋭く止めた。
「疑いと公開告発は分けてください。中継所を経由したことと、アンテリアさん本人が命じたことは別です」
わかっている。
わかっているが、腹の奥は納得しない。
「最終命令者は」
クローナが聞く。
イリヤーナは首を横に振った。
「遮断されています。影に残っているのは中継所までです」
「つまり、証拠は足りない」
俺が言うと、美羽がうなずいた。
「足りません。だから、今は証拠保全です」
その瞬間、拘束された男の身体が不自然に跳ねた。
口の奥で、黒い光が点る。
「自害契約!」
クローナが叫ぶ。
イリヤーナが動いた。
首を落とすのではない。
喉を潰すのでもない。
男の影の中から伸びた細い契約線だけを、刃ではなく影で縫いとめる。
黒い光が口の奥で震え、ほどけず、燃え上がれずに止まった。
男は石畳へ崩れ落ちる。
生きている。
イリヤーナが影を緩めた。
「契約線のみ固定。命は残しました」
クローナがすぐに治療符を貼る。
男は荒い息をしながら、目だけで周囲を見た。
「誰に命じられた」
俺が問う。
男は震える唇で、断片だけを吐いた。
「王が戻れば、全てが遅れる」
クローナが息を呑む。
男は続けた。
「月が笑う夜に、門を閉じろ」
それ以上は、言葉にならなかった。
誰が笑うのか。
どの門を閉じるのか。
わからない。
ただ、その言葉を聞いた瞬間、ヴェルナが顔を上げた。
「笑う」
彼女の声が低くなる。
「どうした」
「デスゲーム観測ログに、破局直前だけ増える反応記号がありました。歓喜、期待、笑いに近い意味を持つ反応です」
俺の背筋が冷えた。
笑う。
誰かが、危機を見て笑っている。
クローナが立ち上がる。
「陛下へ警告を送ります」
「通常回線は」
ヴェルナが言う。
「傍受の可能性があります」
「王家専用の月蛇通信を使います」
クローナは短く答えた。
彼女が小さな黒い筒を取り出す。中から、銀色の細い蛇のような光がほどけた。
それは空中で輪を描き、クローナの言葉を飲み込む。
「外縁帰還経路、漏洩の可能性。転移陣停止計画を確認。旧宮警備経路図流出。帰還予定の変更、または警護再編を要請します」
銀の蛇が消える。
短い沈黙。
やがて、返事が戻った。
文字ではなく、低い声の断片だった。
「予定は変えぬ。ユリアを宮から出すな」
それだけだった。
無策な声ではない。
危険を知らない声でもない。
わかっていて、動く声だった。
クローナが歯を食いしばる。
「陛下は、危険を承知しています」
「なら、なおさら止めろよ」
「止められる方ではありません」
それは信頼なのか、諦めなのか、俺には判断できなかった。
イリヤーナが俺の前に膝をついた。
「聖夜様」
「何だ」
「敵を消す方が早いです」
その言葉は静かだった。
静かだから、冗談ではないとわかる。
「使者を消し、中継所を消し、疑わしい者を消せば、道は狭まります」
俺は彼女を見た。
怒鳴りたくはなかった。
彼女は、俺を守ろうとしている。
ユリアを守ろうとしている。
でも、その守り方を間違えたら、俺たちが選ぶ前に全部が終わる。
「俺たちが選ぶ前に、勝手に終わらせるな」
イリヤーナは目を伏せた。
「はい」
「命令だからじゃない」
俺は続けた。
「お前が止まるって選んだなら、そこまで含めて信じる」
長い沈黙の後、イリヤーナは小さく息を吐いた。
「私は、証拠を守ります」
「ああ」
「生きた証言を残します」
「それでいい」
イリヤーナは立ち上がった。
男の影を縛り直す。
殺すためではなく、逃がさないために。
証言を残すために。
そのとき、ヴェルナの瞳に白い文字列が走った。
誰も表示していない。
礼拝堂の黒い月面もない。
それなのに、彼女の内部に何かが流れ込んだ。
ヴェルナがゆっくり瞬きをする。
「観測価値、上昇」
誰かが、俺たちの危機を見て笑っている。
ヴェルナは、そう言った。
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