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第030話 ここな、本音を拾う

 黒月街の広場には、昨日よりも多くの人が集まっていた。


 公開審査の一環として、市民から質問と異議を受ける場が設けられたからだ。


 黒い石畳の中央には低い壇が組まれ、王家側、神官団側、市民立会人の席が分けられている。俺たちはその中央に立たされた。


 見世物にされている感覚は、まだ消えない。


 けれど、昨日の観測窓とは違う。


 ここにいる人たちは顔を出している。名前を記録される。質問も異議も、公開記録へ残る。


 それでも、声は荒かった。


「殿下を返してくれた人間だ!」


 感謝の声が上がる。


 すぐに別の声がそれをかき消した。


「殿下をまた奪う人間だろう!」


「王家に人間を入れるな!」


「本当に契約者なのか、見せてみろ!」


 好奇。


 侮蔑。


 感謝。


 恐怖。


 全部が混ざって、広場の空気は濁っていた。


 ここなが俺の隣で小さく息を吸う。


 彼女の目は、群衆の顔ではなく、顔の周りに漂う見えない靄を追っている。


「表面は怒り」


 ここながつぶやいた。


「でも、奥が重い。三年前に家族をなくした人。兵士が帰らなかった家。ユリアちゃんが消えた日から、ずっと怖かった人たち」


 声が少しずつ細くなる。


 俺は横目でここなを見た。


 他人の痛みを読むたび、彼女はその痛みへ近づきすぎる。


「ここな、無理するな」


「うん」


 返事はした。


 でも、目は群衆から離れない。


「ユリアちゃんが帰ってきたから、安心したんじゃない。封じてた怖さが、また開いたんだ」


 市民代表の一人が前へ出た。


 年配の女だった。


 黒い喪布を腕に巻いている。三年前に誰かを失った印だと、クローナが小声で教えてくれた。


 女は俺を見て、それからユリアを見た。


 唇が震えている。


「私は、質問を」


 声が途切れた。


 周囲から、言え、という圧がかかる。


 ここなが一歩前へ出た。


「何が一番怖いですか」


 女が目を見開く。


 ここなは、感情を言い当てなかった。


 あなたは怒っていない、本当は怖いのだ、とは言わなかった。


 ただ、本人の言葉を待った。


「何が一番怖いですか」


 もう一度、静かに聞く。


 女の喉が動いた。


「人間が、嫌いなわけではありません」


 広場の声が少し弱まる。


「でも、殿下がまた消えるのが怖いのです。三年前、殿下が消えたあと、国は壊れかけた。兵が死に、家が沈み、誰も本当のことを教えてくれなかった」


 女は喪布を握った。


「あなたが帰りたくなった時、殿下も連れて行くのではありませんか」


 まっすぐな問いだった。


 俺は言葉に詰まった。


 現実世界へ帰る方法は、まだわからない。


 帰れるかどうかもわからない。


 帰りたいかどうかだって、簡単に答えられるものじゃない。


 ここで、俺はずっとこの国にいると言えば、たぶん一部の人は安心する。


 でも、それは嘘になる。


 ユリアを絶対に連れて行かないと言うのも違う。


 ユリアの選択を、俺が先に決めることになる。


「帰る方法があるかも、俺にはわからない」


 俺は言った。


 広場が静かになる。


「永遠にここにいるとも言えない。現実へ帰ることを、もう考えないとも言えない」


 誰かが舌打ちした。


 それでも、言葉を変えなかった。


「でも、ユリアの選択を俺が決めるつもりはない。俺が帰りたいからって、黙って連れて行くことはしない」


 女は俺を見ている。


 納得した顔ではない。


 当然だ。


「何も奪わないとは約束できない」


 自分で言って、胸が痛んだ。


「でも、黙って奪うことはしない。ユリアがどこに立つかは、ユリアが決める」


 広場の空気は、完全には変わらなかった。


「結局、約束できないのか」


「人間は信用できない」


 反対の声は残る。


 ここなは、その声を変えようとはしなかった。


 感情を操作して、賛成へ向けることもしない。


 ただ、怖いまま話を続けられるだけの空間を作っている。


「感情を操ったぞ!」


 鋭い声が、群衆の後ろから飛んだ。


 男が一人、黒布を掲げて叫んでいる。


「その女が何かした! 人間側の術だ! 俺たちの怒りを弱めている!」


 一気に視線がここなへ集まる。


 俺は反射的に前へ出かけた。


 ここなが、先に手を上げた。


「読んだよ」


 広場がざわめく。


「感情は読んだ。怖いとか、怒ってるとか、言葉になってない靄を見た」


 ここなの声は震えていた。


 でも、逃げなかった。


「でも、変えてない。好きにさせたり、賛成にしたりしてない。あなたたちの怖さは、あなたたちのものだから」


 煽動役の男がさらに叫ぼうとする。


 その前に、クローナが記録板を掲げた。


「立会記録を確認しました。感情干渉の魔力波は検出されていません」


 神官団側の記録官も、渋々うなずく。


「読取反応はあります。操作波は確認されません」


 ここなは小さく息を吐いた。


 その肩が、少し落ちる。


 ユリアが壇の中央へ進んだ。


 市民たちの視線が、今度はユリアへ向く。


 守られるべき殿下。


 奪われた王女。


 帰ってきた象徴。


 たぶん、彼らはそう見ている。


 ユリアは、その視線を真正面から受けた。


「三年前、私は消えました」


 謝罪ではなかった。


 言い訳でもない。


「そのことで、あなたたちが何を失ったのか、私はまだ全てを知りません。知るべきだと思っています」


 風が広場を抜ける。


 黒布が揺れた。


「ですが、私はもう、誰かに連れ去られる存在として語られることを拒みます」


 声が強くなる。


「私は戻りました。今ここに立っています。これからどこへ行くか、誰の隣に立つか、何を選ぶかは、私が決めます」


 女が唇を噛んだ。


 泣きそうな顔で、でも目を逸らさなかった。


 ここながふらついた。


 俺はすぐに手を取った。


「もういい。これ以上読まなくていい」


 ここなは俺の手を握り返した。


 指先が冷たい。


「うん」


「本当に止めるぞ」


「止めてくれる人がいるから、読めるんだよ」


 そう言われると、怒りにくい。


 でも、手は離さなかった。


 広場は、賛成に変わったわけではない。


 俺たちを受け入れたわけでもない。


 ただ、叫びだけではなくなった。


 質問が出る。


 答えられないものは、答えられないと記録される。


 怖いという言葉が、怒号ではなく、質問の形を取り始める。


 それだけだった。


 でも、それだけで十分に重かった。


 遠くで、誰かが歌い始めた。


 古い儀礼歌だった。


 帰還者の名を月へ返す旋律。


 けれど、ラヴィニアの顔が変わる。


 彼女は群衆の奥を見た。


「違います」


 声が低い。


「あの旋律、歪んでいます」


 歌は、人を落ち着かせることもできる。


 同じように、怒らせることもできる。



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