第029話 美羽、秩序で支える
美羽は、法典の山の前で姿勢を崩さなかった。
黒い革表紙の王家契約法典。銀の留め具がついた礼拝堂先例集。戦時継承規則。古い神官団通達。市民立会に関する細則。
机の上だけでは足りず、床にまで資料が積まれている。
俺は、その横で出された薄いスープを見下ろしていた。
「聖夜くん、食べてください」
美羽の声が、いつもの柔らかいものに変わる。
「さっきから三口しか進んでいません。次の審査まで時間がありませんし、空腹のまま評議室に戻ると判断が荒くなります」
メイドの顔だ。
俺の体調や食事を、当然のように管理しようとする顔。
「お前こそ寝てないだろ」
「私は読みながら休んでいます」
「それは休んでない」
美羽は返事の代わりに、俺の前へパンを置いた。
「食べてください」
反論する気力が少し削がれる。
俺が仕方なくパンを口に運ぶと、美羽はすぐに別の顔へ戻った。
背筋を伸ばし、資料を三つの山に分ける。条文、前例、手続き。指先の動きが速い。
「王配承認に関する法典は、承認後の責務ばかり厚くて、承認前の排除手続きが薄いです。礼拝堂先例は例外が多い。戦時継承規則はさらにややこしいですが、ここに使える条文があります」
会長の顔だ。
人をまとめ、会議を動かし、質問を組み立てるときの美羽。
その声を聞いていると、俺は自分が守られているようで、少し落ち着かない。
「美羽」
「はい」
「無理するな」
指先が止まった。
美羽はゆっくり顔を上げる。
いつもの整った表情が、少しだけ崩れた。
「怖いですよ」
それは、三つ目の顔だった。
メイドでも、会長でもない。
俺たちと同じ現実から来た、美羽自身の声。
「知らない国の法典を読んで、知らない制度の中で、誰かの人生を左右するかもしれない言葉を選ぶんです。怖くないわけがありません」
美羽は手元の紙を握った。
「でも、読めるものは読む。わかるところは整理する。怖いからって、読める文字を読まない理由にはしません」
「それでも」
「無理をするかどうかも、私が決めます」
言葉が、まっすぐ返ってきた。
「聖夜くんは、礼拝堂で私たちの意思を聞くべきだと言ってくれました。なら、私の意思も同じように扱ってください」
俺は少し眉をひそめ、それからすぐに理解した。
美羽が言ったのは、あの礼拝堂でのことだ。俺たちが全員、自分の言葉で立った時間。
「わかった」
俺は小さく息を吐いた。
「悪い。守られてる感じが、ちょっと気持ち悪かった」
美羽は一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑った。
「気持ち悪い、ですか」
「お前が悪いんじゃない。俺が、何もできてない気がする」
「何もできていない人は、評議室で自分の言葉をあんなに保てません」
すぐに返ってくる。
やっぱり会長だ。
「それに、これは私の担当です。聖夜くんが感情で全部を殴りに行くと、こちらが困ります」
「殴ってないだろ」
「今のところは」
ここななら笑ったかもしれない。
美羽は笑わなかった。
冗談に見える言い方でも、実際には半分以上本気だった。
「見つけた矛盾は三つあります」
美羽は資料を並べ直した。
「一つ目。人間を明示的に欠格とする条文はありません」
彼女は黒い革表紙の法典を開く。
「王家契約への接続者について、魔族血統、王家血統、長寿種適性の記述はあります。でも、人間を排除する直接条文はない。前提から外れているだけです」
「書いてないから通せ、とは言えないんだろ」
「言えません。だから専門家に確認させます」
美羽は次の記録板を取った。
「二つ目。過去に異種族の王家契約補助者が存在します。伴侶ではありませんが、補助者として王家契約へ一時接続した例がある」
「それは俺と同じなのか」
「同じではありません。ですが、異種族であること自体を即時欠格とした前例でもありません」
なるほど。
白ではない。
でも、黒と決めつける根拠にもならない。
美羽は三つ目の資料を示した。
「三つ目。王配承認前の危険性立証は、候補側だけにあるわけではありません。拒否側にも、具体的な危険または損害の立証義務があります」
「俺が安全だって証明しろ、だけじゃないってことか」
「はい。未知であることを理由に審査するのは認めます。でも、未知だから排除するなら、排除側も責任を負うべきです」
美羽の声は静かだった。
その静かさが、強かった。
公開評議室へ戻ると、アンテリアはすでに席に着いていた。
ゼルヴァンもいる。こちらを見て、穏やかな顔でうなずいた。
本当に、よくできた旗だ。
俺はその横に立つアンテリアを見た。
彼女の方が、ずっと本体に近い。
美羽が前へ出る。
「質問します」
アンテリアは記録具を構えた。
「許可します」
「前例がないことは、禁止の根拠ですか」
評議室の空気が少し動いた。
いきなり核心へ行った。
アンテリアはすぐに答えない。
「前例がないことは、危険評価の理由になります」
「禁止の根拠ではありませんね」
美羽は逃がさない。
「直接の禁止条文がない場合、危険評価によって排除するには、具体的な不安定化、損害、または予見可能な断裂リスクの記録が必要ですか」
アンテリアの側近が記録板を確認する。
契約鑑定官も、別の法典を開いた。
アンテリアは美羽を見た。
「王家契約は一度壊れれば、国全体へ影響します。未知へ慎重であること自体が、儀礼長の責務です」
「否定しません」
美羽は即答した。
その反応に、評議員の何人かが目を上げる。
美羽はアンテリアを論破しに来たのではない。
「慎重であるべきだからこそ、審査項目、判定者、証拠、異議申立ての手順を固定してください」
美羽は記録板を掲げる。
「今のままでは、儀礼長個人の裁量で、審査範囲が広がり続けます。未知を理由にするなら、どこまでを未知と扱うのか。何を証拠とするのか。誰が判定し、誰が異議を申し立てられるのか。そこを固定しなければ、これは審査ではなく排除の儀式になります」
評議室が静まり返った。
アンテリアの表情は変わらない。
でも、記録具を持つ指が少しだけ強くなった。
「あなたは、私の裁量を疑うのですか」
「はい」
美羽は迷わなかった。
「同時に、聖夜くんたちの側の発言も疑われるべきだと思っています。だから公開記録が必要です。どちらか一方を信じるためではなく、あとから検証できる形にするためです」
ユリアが立ち上がった。
「王家側から、その提案を支持します」
アンテリアがユリアを見る。
ユリアは、昨日よりも王族の顔をしていた。
「聖夜を特例で通せと言っているのではありません。誰が見ても残る手続きにしてください。三年前のように、記録が欠けたまま誰かの都合で語られることを、私は許しません」
クローナが一歩進み出た。
「王家記録庫を開きます」
その言葉に、貴族席がざわめいた。
「審査記録の原本を王家記録庫へ。複製を神官団、評議会、市民立会記録所へ保管します。三年前の欠落を繰り返さないため、複数箇所で照合可能にします」
「記録形式の監査は、私が申し出ます」
ヴェルナの声が続いた。
アンテリアの目が鋭くなる。
「あなたの存在そのものが、外部接続の疑いを持たれています」
「承知しています」
ヴェルナは動じない。
「だからこそ、監査ログも公開記録へ残してください。私は改変痕跡を検出できますが、私自身の操作も記録対象にすればいい」
美羽がうなずく。
「監査者も監査対象に含める。それなら条件として成立します」
アンテリアは黙った。
評議室は、彼女の答えを待った。
ここで拒めば、公開審査の条件を自分で破ることになる。
受け入れれば、彼女個人の裁量は狭まる。
長い沈黙の後、アンテリアは記録具を下ろした。
「受理します」
美羽は息を吐かなかった。
まだ終わっていないことを知っている顔だった。
「制度を曲げたのではありません」
アンテリアは評議室全体へ向けて言った。
「曖昧だった部分を固定しただけです。審査の結論が変わるとは限りません」
「それで構いません」
美羽は答えた。
「結論を先に決めないための手続きですから」
審査が一時休止になったあと、俺は美羽の横へ行った。
彼女はようやく椅子へ座り、指先でこめかみを押さえていた。
「美羽」
「はい」
「ありがとう」
言うと、美羽は少しだけ困ったように笑った。
「ご主人様を守ったのではありません」
「その言い方、まだ続けるのか」
「必要なときだけです」
疲れているのに、返事は早い。
美羽は資料の山を見た。
「私は、選べる状態を守りました。聖夜くんも、ユリアさんも、私たちも。誰かの裁量だけで選択肢を消されないようにしただけです」
守られる居心地の悪さは、まだある。
でも、それは俺を下に置くための守りではなかった。
美羽自身が選んだ役割だ。
俺がそれを勝手に取り上げるのも、違う。
「じゃあ、対等に礼を言う」
「はい」
「助かった」
今度は、美羽が少しだけ目を伏せた。
「どういたしまして」
評議室の外へ出ると、旧宮前の群衆の声が聞こえた。
ここなが窓辺に立っている。
彼女は外を見ていたが、視線は人の顔ではなく、その周りに漂う見えないものを追っているようだった。
「ここな」
俺が呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。
「変」
「何が」
「敵意の色より、怯えの色が強い」
窓の外では、まだ反対の声が上がっている。
人間を王家へ入れるな。
黒月を汚すな。
その声だけ聞けば、憎まれていると思う。
でも、ここなは首を横に振った。
「あの人たち、聖夜くんが嫌いなんじゃない。もう一度、誰かが消えるのが怖いんだよ」
胸の中で、さっきとは違う重さが落ちた。
憎まれている方が、まだ簡単だった。
怖がられているなら、殴って終わりにはできない。
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