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第026話 言葉の責任

 あなたは、この言葉を今も選ぶか。


 黒月核が出した問いは、礼拝堂の中央に静かに浮かんだ。


 王配になるか、とは聞いていない。


 伴侶審査を受けるか、とも聞いていない。


 あのとき言った言葉を、今も続けるか。


 ただ、それだけを聞いている。


 観測窓の白い文字は、もう黒月核の判定層へ入ってこない。天井の黒い月面にはひびが入り、その向こうで何かが見ている気配だけが残っている。


 見られている。


 でも、決めるのはそいつらじゃない。


 俺は、ユリアを見た。


 黒月核の中央に立つユリアは、まっすぐ俺を見返していた。銀白の髪が月光を受け、黒い礼拝堂の中で静かに光っている。


 ずっといろ。


 あのときの言葉が、胸の奥でまた響く。


 きれいな言葉じゃなかった。


 優しい誓いでもなかった。


 俺は怖かった。


 デスゲームの中で、次に誰が落ちるかわからなかった。誰かが死ぬことが数字になり、悲鳴が演出になり、俺たちの必死さが誰かの暇つぶしになる場所で、ユリアまでいなくなるのが怖かった。


 失いたくなかった。


 置いていかれたくなかった。


 誰かに選ばれたい自分も、たぶんいた。


 ユリアを助けたいという気持ちの中に、自分の空っぽを埋めたい飢えが混ざっていなかったとは言えない。


 そこを美化したら、また何かを間違える。


 でも。


 それでも、あの言葉が全部嘘だったとは思わない。


「聖夜」


 ユリアが呼んだ。


 俺は外環から一歩進み、緊急立会人として許された位置に立った。


 黒月核の光が、足元へ輪を作る。


「俺は」


 声が少し掠れた。


 ここで言うことは、称号じゃない。


 国へ提出する申請でもない。


 ゲームの選択肢でも、観測者への返事でもない。


 ユリアへ向ける、俺の今の言葉だ。


「国のために言うんじゃない。称号のためでもない」


 ユリアの目が揺れた。


「あのとき、俺は怖かった。お前を失いたくなかった。自分が一人になるのも怖かった。だから、きれいな言葉だったとは言わない」


 胸の透明な輪が、冷たく震える。


 中心は空白のままだ。


 でも、逃げない。


「それでも」


 俺は息を吸った。


「俺は、今もお前にいてほしい」


 礼拝堂の空気が止まった。


 ずっといろ。


 あれは命令みたいな言葉だった。


 今は違う。


「俺が決めるんじゃない。お前が選べるなら、選んでほしい。俺は、その隣で逃げない」


 ユリアは目を伏せた。


 ほんの一瞬だけ。


 それから顔を上げる。


「いる」


 短い答えだった。


 けれど、黒月核が強く光った。


「私は、いる。あなたに命じられたからではない。国がそう扱うからでもない。私が選ぶ」


 青黒い契約線が、ユリアの足元から俺の胸の透明な輪へ伸びる。


「私は、ユリア・ヴァルシュタインとして帰還する。王女として、正室として、契約者として、逃げずに引き受ける」


 正室。


 その言葉に、美羽たちの線が静かに反応した。


 新しい誓いを重ねる必要はなかった。


 先に証言したような言葉を、ここでもう一度飾る必要もない。


 美羽は、自分が選べる状態を守るために隣にいると証言した。


 ここなは、息ができる日常を作るためにいると言った。


 ラヴィニアは、自分の歌を遠くへ届かせる相手として選んだ。


 イリヤーナは、愛を理由に境界を壊さないと決めた。


 その言葉は、もう黒月核に残っている。


 四本の線は、ユリアの答えを支えるように細く光った。


 ヴェルナが天井を見上げたまま告げる。


「観測入力は継続しています。ただし、儀礼判定層への混入はありません」


「見られてはいるんだな」


 俺が言うと、ヴェルナは小さくうなずいた。


「はい。消せません。少なくとも、今は」


「なら、記録だけしといてくれ」


「しています。こちらの意思決定とは分離して」


 それでいい。


 見られている事実は、消えない。


 でも、見ているやつらの声を俺たちの答えに混ぜなければ、まだ戦える。


 黒月核の光が、礼拝堂全体へ広がった。


 石床の古い文字が順に浮かび上がる。アンテリアが記録具を掲げ、表情を引き締めた。


「黒月帰還儀礼、判定を開始します」


 誰も動かなかった。


「ユリア・ヴァルシュタイン殿下の帰還」


 黒月核が鳴る。


「有効」


 クローナが胸元を押さえた。


「王家継承権」


 青黒い光がユリアの足元から玉座の紋章へ伸びる。


「継続」


 儀礼官たちが互いに顔を見合わせる。三年という空白の上に、ようやく一本の線が引かれた。


「複数魂契約」


 美羽、ここな、ラヴィニア、イリヤーナの線が、黒月核の周囲で網のように組まれる。


「相互承認あり」


 アンテリアの声は揺れなかった。


 揺らさないようにしているのが、少しだけわかった。


「神酒聖夜殿との対契約」


 俺の胸の透明な輪が、強く冷えた。


 青黒い線がそこへ触れる。


 中心の空白は、何も名乗らない。


 それでも、線は消えない。


「有効」


 礼拝堂のどこかで、小さく息を吐く音がした。


 俺自身の息だったかもしれない。


「役割名」


 黒月核の光が一度止まる。


 長い沈黙。


 それから、文字が浮かんだ。


 未定義。


 アンテリアはその文字を読み上げた。


「役割名、未定義」


 俺は目を閉じそうになった。


 終わったわけじゃない。


 でも、勝手に名前をつけられなかった。


「儀礼結果を読み上げます」


 アンテリアは顔を上げた。


「神酒聖夜殿を王配とは認めません。伴侶としての役割認定も、現時点では行いません」


 言葉が礼拝堂に落ちる。


 ユリアは何も言わなかった。


 俺も言わない。


 そこまでは、俺たちが拒んだことでもある。


 アンテリアは続けた。


「しかし、契約反応を無効とも宣言できません。本人たちの言葉、相互承認、契約関係者の証言、緊急立会条項の成立を黒月核が有効と判定しました」


 記録具の表面に、黒い文字が刻まれていく。


「神酒聖夜殿の暫定位置を、生還証言者、王家契約の当事者、後日審査対象として記録します。伴侶および王配認定は保留。神官団、貴族、王家による審査権は維持されます」


 保留。


 審査。


 面倒な言葉が並ぶ。


 けれど、今度は逃げ道ではなかった。


 俺の言葉が先にあって、責任がそこに残った。


 制度は、ようやく後から追いついてきただけだ。


 肩書きが言葉を本物にするんじゃない。


 先に言葉がある。


 その言葉を、今の俺が引き受ける。


 その後で、制度が俺たちを試しに来る。


 黒月礼拝堂の奥で、鐘が鳴った。


 最初は低く。


 次に高く。


 三度目で、礼拝堂の扉の向こうまで響いた。


「帰還の鐘……」


 クローナがつぶやいた。


 その声は、ほとんど泣いているようだった。


「三年ぶりです」


 鐘の音が外へ広がる。


 扉の向こうで、街が反応した。


 歓声。


 叫び。


 ざわめき。


 安堵の声と、不安の声が一緒に混ざって押し寄せる。


 ユリア殿下が帰還した。


 帰還儀礼が成立した。


 だが、人間が黒月核に立った。


 その事実も、同じ速さで広がっていくのがわかった。


 クローナが俺の前へ来た。


 彼女は王家側立会人として、深く頭を下げる。


「聖夜殿」


 王配候補としてではない。


 たぶん、そういう呼び方ではなかった。


 儀礼から逃げなかった一人の人間へ向けた、最低限の敬意。


 俺は少しだけ戸惑ってから、頭を下げ返した。


「まだ何も終わってないんだろ」


「はい」


 クローナは顔を上げた。


「ですが、終わらせないために、ここまで来ました」


 アンテリアが静かに歩み寄る。


 彼女の表情に、負けたという色はなかった。


 当然だ。


 彼女は俺たちに屈したわけではない。


 儀礼の判定を受け入れただけだ。


 そして、戦場を次へ移す目をしていた。


「神酒聖夜殿」


「何だ」


「儀礼で契約は有効とされました。だからこそ、制度と民があなたを試します」


 礼拝堂の外で、声がぶつかり始めている。


 ユリア殿下の帰還を喜ぶ声。


 人間を黒月核へ入れたことへ怒る声。


 王家の新しい力だと期待する声。


 異物だと拒む声。


 たぶん、俺の名前もまだ知らないまま、俺について叫んでいる。


「俺は、肩書きがほしいわけじゃない」


「でしょうね」


 アンテリアは冷静に返した。


「ですが、肩書きを拒めば責任が消えるわけでもありません」


「それは、わかってる」


「ならば結構」


 アンテリアは黒い礼拝堂の出口へ視線を向けた。


「ここからが、順序です。人間殿」


 鐘の音が、まだ街へ広がっている。


 儀礼は、俺たちの言葉を認めた。


 それで終わりじゃない。


 今度は、この国の全員が、その言葉を試しに来る。



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