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第025話 礼拝堂の観測窓

 その選択でいい。


 黒い月面に浮かんだ白い文字は、礼拝堂の誰の声でもなかった。


 それなのに、神官たちは息を飲んで膝をついた。


 儀礼官の一人が、震える声で言う。


「黒月の託宣だ」


 別の儀礼官も、黒い石床へ額を伏せた。


「重大儀礼の折にのみ現れる、黒月の御言葉……」


 俺は天井の円形開口を見上げたまま、動けなかった。


 空ではない。


 銀色の月光の奥に、黒い月面みたいな闇がある。そこに文字が流れている。古い儀礼文字ではない。魔の国の文字でもない。


 あの画面だ。


 俺たちが閉じ込められ、走らされ、比べられ、死にかけた場所で見た、あの表示形式だ。


「儀礼を続行します」


 アンテリアの声が礼拝堂へ響いた。


 彼女は膝をついていない。だが、黒い月面へ向ける視線には、疑いよりも畏れがあった。


「黒月の託宣は、古来より王家の重大儀礼に現れるものです。選択が認められたと見るべきです」


「違います」


 ヴェルナが即座に言った。


 その声は、今までで一番冷たかった。


「託宣ではありません」


 アンテリアが振り返る。


「ヴェルナ」


「書式が一致しています。識別子の欠損形式、表示遅延、行の送り方、介入のタイミング。デスゲーム中に確認された観測コメントと同じです」


 礼拝堂の空気が、別の意味で凍った。


 儀礼官たちが顔を上げる。クローナが黒月面を見上げたまま、手元の記録を握りしめた。


 アンテリアはすぐには答えなかった。


 信じてきたものが、突然別の名前を与えられる。


 それがどれだけ危険なことか、俺にも少しだけわかった。


 だが、俺は優しく待てなかった。


 黒い月面に、次の文字が流れたからだ。


 王配を選べ。


 短い一行だった。


 胸の奥が、熱くなった。


 続いて、もう一行。


 ここで退けばつまらない。


 さらに、少し遅れて。


 もっと迷え。


 三つの文字列が、黒い月面の上に重なり、白く残った。


 誰かが息を呑む音がした。


 俺は笑いそうになった。


 笑えるはずがないのに、喉の奥がひきつった。


「つまらない、か」


 声が勝手に出た。


「俺たちが退くか進むか、面白いかどうかで見てんのか」


 黒月核の光が揺れる。


 さっきまで成立していた緊急立会条項の文字が、石床の上でにじみ始めた。


 代わりに、別の表示が浮かぶ。


 受諾。


 撤退。


 二つの言葉が、黒月核の内側に並んだ。


 俺は歯を食いしばった。


 まただ。


 二択に戻される。


 俺たちがようやく見つけた第三の道を、最初からなかったみたいに塗りつぶし、観客が見たい対立へ戻そうとしている。


「儀礼記録を固定します」


 美羽が前へ出た。


 声は速い。けれど、焦りで崩れてはいない。


「緊急立会条項は、アンテリアさんが制度上有効と確認しました。ユリアさんの指名、聖夜くんの称号不要求、契約関係者全員の証言、後日の審査権の保持。条件は成立済みです」


「しかし、黒月核が」


 儀礼官の一人が言いかける。


「後から表示された二択は、成立済みの儀礼記録と矛盾しています」


 美羽は黒い石床へ膝をつき、指で浮かんだ文字の縁をなぞった。


 触れたわけではない。ただ、位置を示した。


「ここ。表示層が違う。儀礼本文ではなく、上から被せられた入力です。条項を更新した記録と、二択表示の時刻が合っていません」


 ヴェルナがうなずいた。


「同意します。二択は儀礼外入力です」


 アンテリアの顔が強ばる。


 彼女は黒月核と黒い月面を何度も見比べた。


「外部入力……」


「神様の判断じゃない」


 ここなが言った。


 彼女は天井を見上げていなかった。


 黒い月面から落ちてくる、見えない感情の流れを読んでいるようだった。


「あの文字、こっちを見てるのに、こっちの痛みがない。ユリアちゃんが怖いとか、聖夜くんが苦しいとか、そういうのが全然ない」


 ここなの声が少し震えた。


 怒りで震えていた。


「あるのは、興奮と退屈だけ。もっと動け、もっと迷え、もっと面白くしろっていう靄。神様の判断じゃない。消費してる人の感情だよ」


 礼拝堂の中で、誰も反論しなかった。


 黒い月面の文字が、また揺れる。


 白い線が新しい行を作りかける。


 その前に、歌が入った。


 ラヴィニアの声だった。


 低く、細く、けれど黒い石の奥まで届く声。


 以前、彼女が聞き分けた儀礼歌とは違う。帰還者の名を月へ返す歌ではない。


 今ここにいる者の声を、外から入る文字より強くする歌だった。


 言葉の意味は俺にはわからない。


 でも、黒い月面の白い文字が乱れた。


「外の声ではなく」


 ラヴィニアが歌の合間に言う。


「この礼拝堂に立つ者の声を、先に聞きなさい」


 音の輪が広がる。


 ユリアの足元。美羽の格子。ここなの波。イリヤーナの影。俺の胸の透明な輪。


 それぞれの線が、細く震えて、また形を取り戻す。


「切断はできません」


 イリヤーナが静かに言った。


 彼女の影が、石床の上を伸びていく。


 暗殺者の影ではない。


 誰かを刺す影でもない。


 黒月核の周囲に流れ込む白い文字の影だけを捕まえ、縫いとめるように広がっていく。


「ですが、入力速度は落とせます」


 黒い月面の文字が、かすかに遅くなった。


 線がほどけるまでの時間が伸びる。


 一行が生まれる前に、美羽が記録との差分を見つけられる。ヴェルナが書式を判定できる。ラヴィニアの歌が、本人たちの声を押し返せる。


 イリヤーナは目を伏せた。


「闇は、誰かを隠すためだけにあるのではありません。見られたくない場所へ踏み込む足を、止めることもできます」


 ユリアが、黒月核の中央で顔を上げた。


 さっきまで儀礼の対象だった彼女が、今度は儀礼へ命じる側に立つ。


「黒月核」


 その声が、礼拝堂を打った。


「王家帰還儀礼として命じます。外部入力を、生還証言および契約関係者の証言から除外しなさい」


 黒月核の光が強くなる。


 アンテリアが息を飲んだ。


 ユリアは止まらない。


「これは、私の帰還儀礼です。私が何を失い、何を選び、誰と戻ったのかを確認する儀礼です。観測者の評価を、私の意思として記録することは許しません」


 青黒い光が石床を走った。


 受諾。


 撤退。


 二つの表示が、音もなく割れた。


「ヴェルナ」


 ユリアが呼ぶ。


「観測記録を閉じて」


「全ては止められません」


 ヴェルナは即答した。


「観測窓は、礼拝堂側にも、外側にも、長く利用された痕跡があります。完全切断は危険です」


「なら、儀礼結果に入れないで」


「それなら可能です」


 ヴェルナの手元に、白い光の細い板が浮かんだ。


 彼女はそこへ指を走らせる。黒い月面の文字と、黒月核の儀礼記録の間に、薄い膜のようなものが挟まる。


「観測入力を記録層から隔離。表示は残りますが、儀礼結果へ反映しません」


 黒い月面が軋むように揺れた。


 白い文字がいくつか生まれかけ、崩れて消える。


 その中で、一つだけが残った。


 最高の回だ。


 礼拝堂の誰も、笑わなかった。


 俺は黒い月面を見上げた。


 胸の透明な輪は、まだ空白だ。


 怒りがある。


 気持ち悪さもある。


 でも、さっきほど飲まれてはいなかった。


 見られている。


 それは、たぶん今すぐ消せない。


 俺たちが何をしても、どこかで見ているやつがいる。評価し、面白がり、勝手に意味をつけるやつがいる。


 でも、見られることと、決められることは違う。


「勝手に見てろ」


 俺は言った。


 黒い月面の文字が、わずかに揺れる。


「でも、決めるのはお前らじゃない」


 ラヴィニアの歌が一段強くなる。


 ここなの波が、礼拝堂の中に残る興奮と退屈の靄を外へ押しやる。


 美羽の固定した儀礼記録が、黒月核の下で冷たく光る。


 イリヤーナの影が、観測窓の縁を縫いとめる。


 ユリアの命令が、王家儀礼の中心に立つ。


 ヴェルナの隔離膜が、白い文字を記録層から遠ざける。


 そして、アンテリアが深く息を吸った。


「外部入力を証言から除外」


 彼女は、執行者として告げた。


「黒月帰還儀礼を、本人たちの証言により継続します」


 その瞬間、黒い月面にひびが入った。


 割れた向こうに何があるのかは見えない。


 ただ、白い文字の流れが止まり、礼拝堂に残ったのは、俺たちの呼吸と、ラヴィニアの歌と、黒月核の低い響きだけだった。


 ひび割れた黒月面の下で、帰還儀礼が最後の問いを出す。


 あなたは、この言葉を今も選ぶか。



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