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第024話 黒月の選択

「契約環から退くか。伴侶審査を受ける意思を宣言するか」


 アンテリアの声は、礼拝堂の黒い石へまっすぐ落ちた。


 怒鳴っているわけではない。責めているわけでもない。だから余計に、逃げ場がなかった。


 黒月核の周囲には、まだ五本の契約線が残っている。ユリアから伸びた青黒い線。美羽の整った格子。ここなの温かい波。ラヴィニアの音の輪。イリヤーナの細い影。


 それらは俺の胸にある透明な輪を通り、色と強さを増して戻っていた。


 中心は空白のままだ。


 胸の内側が冷たく抜ける感覚は、さっきより少し薄くなっている。けれど、消えたわけではない。


 アンテリアは黒い板状の記録具を胸の前へ掲げた。


「第一の選択。神酒聖夜殿が契約環から退く」


 俺の足元の外環が、かすかに光った。


「ユリア殿下との契約反応は、私的契約として封鎖します。王家契約への接続は帰還儀礼終了まで遮断。帰還儀礼後、必要があれば改めて審査を行う」


 言葉だけ聞けば、悪くないようにも思える。


 俺が退けば、ユリアの帰還儀礼は進む。俺たちはいったん外へ出られる。わけのわからない称号を押しつけられることも、今すぐにはない。


 でも、それは俺とユリアの間に起きたことを、いったん見なかったことにする処理だった。


「第二の選択」


 アンテリアが続ける。


「神酒聖夜殿が、将来の伴侶審査を受ける意思を宣言する」


 今度は黒月核の内側が淡く光った。


 ユリアの肩が、わずかに揺れる。


「現時点で役割名を認定するものではありません。王配として扱うものでもない。ただし、政治上は候補者として記録されます。以後、発言、滞在、身辺、外部契約者との関係は王家契約に準じて監督対象となる」


「監督対象」


 自分の声が思ったより低く出た。


 アンテリアは俺を見た。


「制度上、必要です」


「必要なんだろうな」


 俺は息を吐いた。


 黒月礼拝堂は静かだった。外の街の音は届かない。天井の円形開口から、銀色の月光だけが落ちている。


 第一の選択は、退けということだ。


 第二の選択は、進めということだ。


 どちらも、俺の言葉を制度の中へ先に預けろと言っている。


 退けば、契約は私的なものとして封じられる。


 進めば、まだ知らない役割へ向かって歩き出したことになる。


「どっちも嫌だ」


 言った瞬間、礼拝堂の光が一段暗くなった。


 アンテリアの眉が動く。


「拒否、ですか」


「ああ」


「では帰還儀礼は継続できません」


「それも嫌だ」


 美羽が横で小さく息を飲んだ。ここなが俺の袖をつかみかけて、途中で止める。ラヴィニアは唇を結び、イリヤーナは影のように目だけを細めた。


 ユリアは何も言わなかった。


 ただ、俺を見ていた。


 俺が何を選ぶかを、待っていた。


「退いて契約を隠す気はない」


 俺はアンテリアへ向き直った。


「あの言葉を言ったのは俺だ。ユリアがそれを受け取ったのも本当だ。美羽たちがそれぞれ選んだのも本当だ。それを儀礼の邪魔だからって、なかったことみたいに横へ置くのは違う」


 透明な輪の縁が、胸の内側でかすかに震えた。


「でも、知らない称号へ進む宣言もしない」


 アンテリアの目が細くなる。


「称号の認定ではありません」


「候補扱いが始まるんだろ」


「政治的には、そうなります」


「だったら同じだ。俺は、王配になるつもりで、あの言葉を言ったんじゃない」


 ユリアの表情が痛そうに歪んだ。


 言い方を間違えたかもしれない。


 でも、ここで曖昧にしたらもっとひどくなる。


「ユリアを助けたかった。生きてほしかった。ずっといろって言った。それは本当だ。でも、それを国の役割へ変えるかどうかは、まだ俺が決められるほど知らない」


 黒い石床に、俺の声が沈む。


「制度に意味を渡す前に、俺が言ったことを俺のまま置いておきたい」


 アンテリアはしばらく黙った。


 沈黙の間、記録具の表面に細かい文字が走る。黒月核の反応を読み、王家契約の規則と照合しているのだろう。


 やがて、彼女は首を横へ振った。


「第三の選択はありません」


 その言葉には迷いがなかった。


「現行儀礼では、外部契約者が王家契約へ接続した場合、危険性を遮断するか、審査対象として登録するかのどちらかです。感情によって例外を作れば、王家契約は契約として機能しなくなる」


「感情じゃありません」


 美羽が言った。


 さっきまで黙っていた彼女は、いつの間にかアンテリアの記録具ではなく、礼拝堂の壁面へ目を向けていた。


 黒い石の壁には、月光が当たったときだけ読める細い文字が刻まれている。俺には模様にしか見えなかったが、美羽はその列を追っていた。


「制度の話です。現行儀礼に二択しかないとしても、旧儀礼記録まで含めるなら、例外条項があるはずです」


 アンテリアの顔色が変わった。


「あなたは、古い儀礼文字を読めるのですか」


「読めるというより、構造が見えます。文章そのものはヴェルナさん、確認してください」


 ヴェルナが壁へ近づいた。


 月光を受けた白い髪が、黒い石に影を落とす。彼女は指先を文字に触れず、少し離した位置で止めた。


「……緊急立会条項」


 礼拝堂の空気が変わった。


 クローナが顔を上げる。


「それは、王族が戦争や災害から帰還した際の古い条項ではありませんか」


「はい」


 ヴェルナは低く答えた。


「正式な伴侶ではない者を、黒月核へ一時的に入れる条項です。生還の経緯、同行者の選択、王族本人の意思を証言させるためのもの」


 アンテリアは即座に反論した。


「通常の帰還儀礼で使う条項ではありません」


「通常ではないから、残っていたんでしょう」


 美羽の声は震えていなかった。


「三年前にユリアさんは王都から切り離されました。帰還そのものが政治的に歪められていて、外部契約者の意思確認も必要です。今回の儀礼は通常ではありません」


 アンテリアは沈黙した。


 美羽は壁の文字を見ながら、条件を読み上げる。


「一つ。王族本人が立会人を指名する」


 ユリアの目が俺へ向く。


「二つ。立会人が称号を要求しない」


 俺は小さくうなずいた。


 要求なんて、する気はない。


「三つ。契約関係者全員が証言する」


 美羽が、ここな、ラヴィニア、イリヤーナを見る。


 三人はそれぞれ、言葉ではなく姿勢で返した。


「四つ。儀礼結果による後日の審査を拒まない」


 その一文で、俺は少しだけ顔をしかめた。


 拒まない。


 逃げ切りではない、ということだ。


 この場で称号を受けない代わりに、あとで問われることからは逃げない。


 美羽は俺を見た。


「聖夜くん。これ、抜け道じゃない」


「だろうな」


「先送りでもない。今は称号を受けない。でも、言ったことの結果から逃げない。そういう条項だと思う」


 胸の透明な輪が、また震えた。


 空白の中心には何もない。けれど、周囲の線は消えていない。


 俺は退きたくない。


 でも、進むと宣言したくもない。


 その間に立つなら、責任だけが残る。


「アンテリア」


 ユリアが口を開いた。


 その声は、もう震えていなかった。


「緊急立会条項は、制度上有効ですか」


 アンテリアはすぐに答えなかった。


 記録具の文字が何度も走り、消え、また走る。彼女は壁の古い文字と、黒月核の反応と、現在の儀礼手順を照合していた。


 感情で押し切られているわけではない。


 抜け穴を突かれて負けているわけでもない。


 彼女は制度の中に、たしかに残っている道を確認している。


 それが少しだけわかった。


「前例は古い」


 アンテリアが言った。


「通常の王家帰還儀礼では使われません。伴侶審査を回避するための条項でもありません」


「はい」


 ユリアが答える。


「ですが、条件を満たすなら、制度上は拒否できません」


 クローナが深く息を吐いた。


 ここなが、俺の袖を今度はちゃんとつかんだ。


「ユリア殿下」


 アンテリアは、執行者としてユリアへ向き直った。


「指名しますか」


 ユリアは一歩、黒月核の中央へ進んだ。


 月光が彼女の銀白の髪を照らす。黒い礼拝堂の中で、その色だけが静かに浮いて見えた。


「私は、神酒聖夜を指名します」


 礼拝堂の黒い石に、青黒い光が走った。


「王配としてではありません。伴侶の役割名を与えるためでもありません」


 ユリアは俺を見た。


「三年間、私が何を失い、何を選び、誰と戻ってきたのかを知る証言者として。私が私の意思でここに立っていることを、隣で証言する者として」


 言葉が胸に入ってきた。


 透明な輪の空白は埋まらない。


 けれど、冷たさだけではなくなった。


「聖夜」


 ユリアが俺の名を呼ぶ。


「あなたは、立会人として残りますか」


 今度は俺が選ぶ番だった。


 退くか。


 進むか。


 その二つではなく。


 残るか。


 逃げずに、でも知らない役割へ先に飛び込まずに、俺が言った言葉のそばへ残るか。


「俺は」


 喉が渇いていた。


 それでも、声は出た。


「王配になるつもりで、あの言葉を言ったんじゃない」


 ユリアはうなずいた。


「でも、言ったことをなかったことにはしない」


 俺は黒月核の外縁へ足を踏み入れた。


 三重の契約環のうち、いちばん外側の線が俺の足元で開く。


「俺は、ユリアの隣で証言する」


 黒月核が鳴った。


 鐘ではない。


 石の奥で、長く閉じていた扉が少しだけ動いたような音だった。


 アンテリアが記録具を掲げる。


「緊急立会条項に基づき、神酒聖夜殿を生還証言者として一時受理します。伴侶、王配、その他の役割名は保留。後日の審査権は王家契約に残る」


「保留でいい」


 俺は答えた。


「今は、それでいい」


 美羽が前へ出た。


「契約関係者として、証言に参加します。私は、聖夜くんが選べる状態を守るために隣にいます」


 ここなが続いた。


「わたしも。誰かの許可だけでここにいるんじゃない。ユリアちゃんも、聖夜くんも、ちゃんと息ができる場所を作りたい」


 ラヴィニアは胸に手を当てた。


「私は、私の歌を誰かの所有物にしないためにここへ立ちます。聖夜様の隣へ立つことも、ユリア殿下の承認を受けることも、私自身が選びました」


 イリヤーナは静かに礼をした。


「影として証言します。愛を理由に誰かを殺すのではなく、境界を守る者として」


 四つの声が、黒月核へ届いた。


 先ほど見えた線が、今度は役割名ではなく証言として並ぶ。


 ユリアが中央に立ち、俺がその隣より半歩外側に立つ。美羽たちは外環に残り、けれど外へ追い出されてはいない。


 アンテリアが手を下ろした。


「黒月帰還儀礼を再開します」


 その一言で、止まっていた月光が動き出した。


 天井の円形開口から落ちる銀色の光が、黒月核へ注がれる。石床の文字が順に浮かび、ユリアの足元から王家血統の線が伸びる。


 青黒い契約線が、俺の胸の輪へ触れた。


 中心の空白は、やはり何も返さない。


 だが、周囲の線は砕けなかった。


 吸い込まれも、消えもしなかった。


 ただ、俺たちの証言を通すための輪郭として、そこにあった。


「生還確認、開始」


 アンテリアの声が礼拝堂へ響く。


「王族本人の意思確認、開始」


 ユリアが目を閉じる。


「外部契約関係者の証言接続、開始」


 美羽たちの線が細く光る。


「緊急立会人の証言座標、固定」


 俺の足元に、黒い月の紋章が一瞬だけ浮かんだ。


 そのときだった。


 天井の円形開口の奥で、空ではない何かが揺れた。


 銀色の月光の向こうに、黒い月面のような平たい闇が見える。


 そこへ、文字が流れ始めた。


 俺は息を止めた。


 礼拝堂の儀礼文字とは違う。


 王家契約の古い文字でもない。


 見慣れた、嫌になるほど見慣れた形式の文字だった。


 黒い月面に、白い文字が一行だけ浮かぶ。


 その選択でいい。



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