第三話 春雨と春雷
甘く優しい香り――――やわらかな感触――――耳元をくすぐる熱い吐息。
「ん……朝……か」
身体が重い、天気のせいだろうか? それとも思った以上に疲れが溜まっていたのかもしれない。
いや――――違うか。
青画は両脇でぐっすりと眠る姉と妹を見て苦笑いする。一人用のベッドに三人で寝ればそれは狭い。必然密着しながら寝ることになるのだが、身動きが取れないのはお互いの安眠のためにもあまりよろしくない。だからといってそれをやめるという選択肢もない。
(大きめのベッドを買うか……)
愛着のあるベッドではあるし、近いうちに引っ越すかもしれない。もう少し悩むことにして青画はゆっくりと上体を起こす。
「二人とも起きて」
「「……」」
――――反応がない。青画は仕方ないなと微笑む。
「おはよう姉さん、黒曜石みたいな瞳が見たいな」
ピクリ、ゆっくりと黒乃の瞼が開く。
「おはよう青画。すまないが身体が重くて起きられないんだ。起き上がらせてもらえると嬉しい」
「了解お姫様」
青画は姉をお姫様抱っこで起き上がらせる。黒乃はたっぷりと弟成分を吸引しつつ、うっとりと厚い胸板を堪能する。
「……真白はまだ寝てるのか、起きないなら悪戯してしまおうか」
真白の白い肌が真っ赤に染まる。
「ま、真白は眠り姫なのです……キスしてくれないと目覚めないのです……これは寝言なのです……」
「なるほど、それじゃ仕方ない」
青画はチュ、とおでこにキスを落とす。ぷるぷる震えながらもぎゅっと目をつぶって耐える真白を見て――――
「ふむ、これじゃ足りないみたいだな」
チュッ――――
「ひゃあっ!?」
瞼にキスされて飛び起きる真白。
「ほら、抱っこするだろ?」
「お、お兄さまはずるいです……しますけど」
真白もお姫様抱っこでベッドから降ろされる。
「あれ? 姉さんは?」
「むにゃむにゃ……私も眠り姫……」
「……お姉さまが面倒くさいのです」
「あはは、二人とも可愛い」
柔らかな春雨が降る朝のひと時。三人は久しぶりの家族水入らずの時間を楽しむのであった。
雨が嫌いだった。
雨の朝はどうしたって思い出してしまうから。
雨が嫌いだった。
とどめなく流れ落ちる涙と重なってしまうから。
「春雨か……」
春の雨は細く優しい。傘を叩く音は控えめで――――しっとりと世界を濡らしてゆく。
『冬の厳しい寒さが抜けて、万物を潤し芽吹きを助けるから慈雨っていうのですよ。花を咲かせるのを促すから催花雨ともいいます』
春の雨は温かい。心の傷にゆっくりと染み込んでゆくようで――――濡れた沈丁花の甘い香りが、まるで彼女の甘えた吐息みたいだなと思う。
雨は嫌いだった。
でも――――雨の日はキミに会えるから。いつしか雨が降るのを待ち望む自分がいた。
「――――春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに」
しとしとと降りしきる春雨を両の手で受け止めながら、その人は桜の木を見つめていた。
「……雨音、濡れてしまうぞ」
「春の雨が止むことなくしとしとと降り続けているように、私の恋心も募るばかりです。それなのに、私はその姿を見ることさえ叶わないのです」
恨みがましく睨みつける日和――――いや、今は雨の人格『雨音』だ。
日和は――――天気の変化によって人格だけでなく姿まで変化する。雨の主人格『雨音』は、透き通るような白い髪色を持ち、暇さえあれば本を読んでいる大人しい女の子、基本的には――――だが。
「一年以上ですよ……なんでこんな酷いことするんですか……?」
涙目で訴える雨音。もちろんわざとではない、が――――結果的に雨音を一年以上放置したのは事実だ。何を言っても言い訳にしかならない。
「本当にごめん……」
「私のこと……嫌いになってしまったのですか?」
「そんなわけないだろ、雨が降るたびに会いたいと思っていた、本当だ」
雨に濡れたその姿は眩暈がするほど幻想的で美しい。レインブルーの瞳がジッと青画を見つめだけで、胸が高鳴るのを感じてしまう。
「……まあ、こうして会いに来てくれたのですから……信じますが、ちゃんと埋め合わせはしてもらいますからね?」
ほんのりと頬を染める雨音が可愛すぎて困る。
「ほら、タオルで拭くからおいで」
滴る水滴は美しいけれど、風邪を引いたら大変だ。冷たさは無くなってもまだまだ空気には冬の残滓が残っている。
「……はい」
ちょこんと青画の両足の間に収まって濡れた髪を拭いてもらう雨音。
「なんで傘も差さずに雨の中立っていたんだ?」
「だって嬉しかったから。先輩に会えると思ったら居てもたってもいられなくなったんです。それに――――なんとなく春の雨に濡れていたかったの」
すんすんと青画の匂いを嗅ぐのは姉妹と同じだが、どこか控えめで遠慮がちなのが雨音らしい。
「雨の中に佇む雨音の姿は本当に綺麗だから……おかげで良いものが見れた」
「っ!? か、傘を持って佇む先輩も……格好良かった……ですよ」
消え入るような声は控えめな雨音にさえ溶けて消えてしまいそうだったけれど――――
「ひゃうっ!? せ、先輩……いきなり……どうしたんですか?」
「お前が嬉しいこと言うから我慢出来なくなった」
後ろから抱きしめられて真っ赤になる雨音だったが、観念したように甘えてもたれかかるように頭を擦りつける。
「先輩……比翼の雨って知ってますか?」
「いや、知らない」
「雌雄一体の伝説の鳥「比翼の鳥」みたいに、雨が二人を離れがたく寄り添わせるんです……ロマンチックでしょ?」
「なるほど、雨音は博識だな」
「えへへ、私が今造りました」
きゅ、雨音の手に力が入る。雨の湿り気が彼女の体温を上げ、理性の境界線を曖昧に溶かしてゆく。
しとしと――――
雨の囁きが聞こえ始めると、彼女の視線がじわりと湿り気を帯びる。
「先輩……この雨、明日まで降り続けますよ。ずっと一緒にいてくださいね」
「ああ、もちろんずっと一緒だ」
ざあざあ――――
屋根を打つ雨音が激しさを増すほど、彼女の鼓動もまた、こちらの胸に伝わるほど速く、強く打ち鳴らされる。
「雨……強くなってきました」
雨音が白く視界を塞ぐ頃、彼女の声から理性が剥落する。しがみつく腕に力がこもり、体温を分け合うだけでは足りないというように密着してくる。
激しい春雷そして土砂降り――――
落雷の衝撃が空気を引き裂いた瞬間、春雷の光が、雨粒を一瞬だけ宝石のように照らした。彼女の熱情が爆発し、まるで嵐のように激しく青画を組み伏せ、激しく、剥き出しの感情で迫ってくる。
「……この世界に私たちの距離を阻むものはないからね」
遠くで轟く雷鳴が彼女の喉を震わせ、吐息は熱を帯びた。音に追われるように、彼女の指先はこちらの肌を求める。
「雨音……じゃないのか?」
透き通るような白髪は青みがかり、紫水晶のような瞳には野性的で獰猛な輝きが宿っている。
「私は……響。直接話すのは初めてかな?」
初めて出会う人格に驚く青画だったが、こういうことはわりと慣れている。すぐに状況を受け入れ響を理解しようと向き合う。
「悪いけど……私にはあまり時間が無いんだ、雷は……長くは続かないからね」
これまで出てこなかったということは、特殊な気象条件でのみ顕現する人格ということになる。もしかしたら――――
もう二度と会えない可能性だってある。
「響――――一秒でも惜しい、何でも望むことをしよう」
「……先輩、キスして」
なぜだろう――――誰よりも力強いのに誰よりも儚い。雷の轟音が彼女の鼓動そのものなのだと本能的に理解する。
「ずっと……このままでいられたらいいのに」
彼女の瞳が震えるように強く訴えていた。
少しずつ轟音が遠ざかってゆく――――青画は彼女を必死に抱きしめるけれど、響は両の手から零れ落ちるようにそのカタチを失ってゆく。
「先輩……私のこと――――忘れないでね」
「忘れない、忘れるわけないだろ、絶対にまた会える、だから――――」
「うん……またね――――先輩、愛してるよ」
雷光の残滓だけが、彼女の輪郭を一瞬だけ照らし――――一筋の涙と笑顔が重なって見えた。
「……先輩? どうして泣いているんですか」
「何でもない、雨音……愛してる」
「ふえっ!? い、いきなりどうしたんですか!?」
「キス……したい」
「え、ええっ!? べ、別に構いませんけど……」
なんで嬉しいのに涙が止まらないんだろう……。
なぜ……先輩の顔を見ていると胸がぎゅっと切なくなるんだろう。
胸のざわめきに戸惑いつつも、いつになく積極的な青画にドキドキが止まらない雨音であった。
「そうだ雨音、今度石川県か栃木県へ旅行しよう」
「え!? 二人きりで旅行ですか!! ぜひっ!! でもなぜ石川か栃木なんでしょう」
「雷が多いから」
(??? 先輩って雷好きだったんだ……あ、そうか雷雨……もしかして私のために? きゃああ)
春の雨は細く長く降り続く。青画と雨音は夜通しで語り合った。会えなかった空白を埋めるように。ゆっくりと優しく――――草木を育て花を咲かせるように二人の心をしっとりと濡らすのだった。




