第二十五話 想い出はいつも雨
「今日は一日雨かな……」
朝――――綾がカーテンを開けると灰色の空が広がっていた。窓ガラス越しに見る世界は涙で滲んだかのようにその輪郭がぼやけてゆく。
夏の雨――――そういえば……あの日もこんな風に雨が降っていたっけ。
「もう十年も経つのね……」
物心ついた時から――――雨音の世界はいつも雨だった。
「雨音、傘も差さずにそんなところにいたら濡れてしまいますよ」
当時、高校生だった私は、雨で部活が中止になり、いつもより早く帰ることになったのだ。公園のベンチでひとり雨に濡れている雨音を見つけたのはその帰り道だった。
私は慌てて駆け寄ると傘を差しだした。
「どうして? 雨なんだから濡れるのは当たり前でしょ」
そういえば雨音が傘を差しているところを見たことがない。雨と共に生まれ、雨の中で生きる彼女にとって、雨は生そのものであり世界の在り方そのものなのかもしれないとふと思った。
「それはそうかもしれないけれど、風邪を引いたら困ります」
「困る? 誰が困るの?」
私は少し考えて――――
「困る人はたくさんいるけど――――とりあえず私が悲しいかな」
「綾姉が悲しいのは私も悲しい……ごめんなさい」
「雨音が謝ることなんてないのよ。ほら、拭いてあげる」
取り出したタオルで濡れた髪と顔を拭いてあげる。雨音の白い髪はとっても綺麗。まるで降り注ぐ雨を束ねたみたいに透き通っている。
――――羨ましい。
私の髪は――――薄汚れた心のように真っ黒だ。
雨音を見るたびに思ってしまう。なんで後二年遅く生まれてくれなかったのか……どうして私より早く生まれてくれなかったのか。
そうすれば私が青画くんの許嫁に決まっていた。最初から希望が無ければこんなに苦しむこともなかったのに……。
「……カエルさんのタオル、もこもこで良い香りがする。好き」
「ふふ、雨音とお揃いのケロちゃんタオル、私も好き」
わかっている。雨音のせいじゃない。彼女は何も悪くはないのだ。雨音は本当に可愛い、この雨が……私の真っ黒な想いを洗い流してくれたらいいのに――――
「ねえ綾姉……」
「なあに」
「私って居ちゃだめなのかな」
「何言ってるの、居て良いに決まってるじゃない」
「でも……私がいると皆困っているみたいだから……」
「っ!?」
咄嗟に返事が出来なかった。
「ど、どうしてそう思うの……?」
震える声でそう口にするのが精一杯だった。
「……雨の日は学校に行かせてくれないし、学校で雨が降りそうになると、いつも保健室に連れて行かれるし……皆、優しいけど必死に私を隠そうとしてるでしょ? 最初はね、私も日和みたいに、雨が降っていない世界で……たくさんの友だちと広い校庭で走ったり遊んだり、遠足に行ったり、お外でお弁当食べたりしたかったの。私の順番が来るんだと思って待っていたの。でもね、わかったの……私は駄目なんだって」
違う、そんなことはない、雨音は皆に愛されているし、大事に思っている。少なくとも私は――――声に出しかけて……何も言えなかった。
日和を守るためだということは理解している。これまでもそうしてきたし、そうするしかないのだと思ってきた。勉強だって専属の家庭教師を付けて教えてきたし、私も可能な限りサポートしてきたつもりだった。
私は――――何もわかっていなかった。
日和の影として存在そのものを隠されてきた雨音の気持ちを。いや……違う、私は――――見ないようにしてきたんだ。
「も、もしかして……日和のこと憶えてるの……?」
これまで主人格である日和以外の人格に記憶の共有はほとんど無いと考えられていた。だからこそ、このような手段をとってきた。日和だけでなく、彼女たち全員を守るためにそうしてきたはずだった。
「……うん。最初はね、夢だと思っていたの。でもそうじゃないんだってわかって……。それでね、私も一生懸命話しかけようとするんだけど……声がね……出ないの」
互いに存在を知っていながら、言葉を交わすことすら出来ないというのはどんな気持ちなのだろう。
「だからね……綾姉にお願いがあるの。日和にごめんねって伝えて。私のせいでお友だちに会えなくて、学校休まなければならなくなってごめんなさいって」
「わかった、ちゃんと伝える。その代わり、私も日和の言葉を伝えなきゃ。あの子もね、いつも言うんだよ、私だけが学校に行ってごめんねって」
「そうなんだ……良かった、嫌われているんじゃないかって思ってたから」
心からほっとしているのが伝わってくる。
「そうだ、お手紙書いたらどうかな? きっと喜ぶと思うんだ」
「お手紙っ!! うんっ、書く、日和にも朧にも、それから――――」
雨音は本当に優しい子だ。自分がこんなに辛い思いをしているのに、日和のことを考えていたのね。そして、日和は自分だけが優遇されていると思っているから、絶対に弱音を吐かないし、いつも明るく、楽しもうと頑張っている。朧が引きこもってばかりいるのは、元々の性格なのだと思っていたけれど、周囲に迷惑をかけないようにしているのだと思う。あの子は――――周囲の視線や感情に人一倍敏感だから。
「雨音……これだけは忘れないで。私は――――雨音のことが心から大切で――――大好きなんだってこと」
「うん、私も綾姉が大好き。それから先輩も大好き」
「先輩?」
「青画お兄ちゃんのこと。小説に書いてあったからそう呼ぶことにしたの」
「そう……素敵な呼び方ね」
駄目だ、絶対に駄目だ。雨音には私と青画くんしかいない。そんな雨音から彼を奪えるわけないじゃない。私は、私だけは雨音の味方でいなければならない。
想いや記憶をどこかに閉じ込めて鍵をかけれたら良いのに……ごめんね雨音……私も青画くんのことが……大好きなの。だからせめて――――心の中で想うことだけは許してね。
「綾姉……どうしたの? 泣いちゃヤダよ……」
「あはは、きっと雨が目に入ったんだよ」
「傘差してるのに?」
「うん、だって心の中にだって雨は降るものでしょう?」
その後、雨音は転校生という形で学校に通えるようになった。もちろん雨の日限定だけれど。朧は――――それでもやっぱり引きこもりだったわね。
なんだか無性に雨音に会いたくなってきた。久しぶりにランチに誘ってみよう。雨の日にとても雰囲気が合うレストランを見つけたから。
と――――その前に
「あ、黒乃? 夏祭りのことなんだけど、ちょっと相談があって――――」
「先輩、どこへ行くんですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
雨音を連れてやってきたのは――――浴衣の着付け。
「どれでも好きなの選んでいいから」
「えっと……私は先輩に選んでもらいたいです」
「うーん……後悔するなよ?」
「はい、楽しみです」
十五分後――――
「あの……先輩? そろそろ……」
「ちょっと待ってくれ……くっ、紫陽花か朝顔か悩む……どっちも絶対雨音に似合うやつだから」
店員さんも呆れるほど真剣に悩んだ末――――
「紫陽花にしますね」
結局、雨音が決めることに。
「先輩の浴衣は私が選びます」
「ああ、頼む」
十五分後――――
「えっと……雨音?」
「くっ……墨黒と藍染……どちらにすれば……駄目です……どちらも似合い過ぎます……」
結局、青画が選んだのは、シックな藤鼠色に差し色として深みのある紺碧の帯の組み合わせ。
「どうかな……? 雨音の浴衣を意識して合わせてみたんだけど」
「……と……とても……素敵です……先輩っ!!」
一見すると上品で涼しげな文系男子だけれど、ふとした瞬間に男らしい体躯が隠しきれずに滲み出る――――くらくらするほどの色気に雨音はぐらり倒れそうになって――――
「大丈夫か?」
「もう……駄目かもしれません……」
雨音は無事抱きとめたものの――――青画の色香にあてられた店員さんたちは――――無事では済まなかった。
「じゃあ行こうか」
「浴衣でどこへ行くんですか?」
しっかり記念撮影も済ませて、向かったのは――――
「あれ? ここってたしかフェニックス・ライブの……」
本社の建設現場だったはず。
「待ちくたびれましたわ」
「こんばんわ」
降りしきる雨の中、出迎えたのは浴衣姿の朱璃と絵里香。
「すまない、浴衣選びに手間取った」
「い、いえ……良いものを見れて……眼福ですわ」
「きゃああ……カッコ良すぎ……直視出来ないです……」
目を逸らしたものの、指の間からチラチラと青画の浴衣姿を覗き見る二人。
「あの……浴衣のファッションショーでもするのでしょうか?」
「それも良いですわね!! ですけれど……今夜は違いますわよ」
意味ありげにウインクする朱璃に首をかしげる雨音。
「雨音さん、こちらへどうぞ、皆さま先に地下でお待ちです」
絵里香の案内で地下行きのエレベーターに乗って、扉が開いた先には――――
「わあああ……!!!」
満天の星空が広がっていた。
蛍が飛び回り、何百もの提灯や祭りの屋台がひしめいている。楽しそうな祭りの喧騒と――――遠くから聞こえてくるお囃子の笛と太鼓の音――――
それは、雨音が思い描いていた夏祭りの情景そのものであったのだ。
「気に入ってくれたか? 雨天や台風だけでなく、年々深刻化する高温化に対する備えとして今回の夏祭りから実用化する予定のバーチャル夏祭り会場だ。フェニックス・ライブの技術と資金協力もあってのことだがな」
そう言って胸を張るのは黒乃。バーチャルといっても、夜空と蛍以外は本物だ。出店は天河家を始め、分家まで総動員して人混みとにぎわいまでしっかり実現、気温と湿度も程よい夏の夜にコントロールされており、時折夜風が風鈴を揺らす風情も演出している。ちなみに、月読の灰原は、顔を見せるわけにはいかないので、お面屋さんをしながら会場の警備も担当している。
「黒乃姉さま! すごいです……朱璃さんも絵里香さんもありがとうございます!!」
雨音は頬をバラ色に染め、黒乃に飛びついてキスすると、朱璃と絵里香にも頭を下げる。
「私たちは大したことしておりませんのよ」
「はい、ほんの少しだけお手伝いしただけですので」
「今回のバーチャル夏祭りはな、すべて綾がお前に夏祭りを楽しんでもらうためにやったことだ。私も綾の計画に乗っただけなんだよ」
「……っ!! 綾姉が……」
雨音は黒乃の影で恥ずかしそうに目を逸らす綾をぎゅうっと抱きしめる。
「ありがとう……ありがとう……綾姉……」
「前に言ってたでしょ? 夏祭り行ってみたいって……」
「憶えててくれたんですか綾姉……」
「忘れるわけないでしょ、他でもない私の大切な妹のことなんだから」
雨音のレインブルーの瞳が揺れて――――窓を伝う幾筋の雨のようにその頬をとめどなく濡らしてゆく。
「ほら、行きましょう雨音、私も雨音と一緒にお祭り回るの楽しみにしていたんですから」
「真白……はい、そうですね……私、金魚すくいがやってみたいです」
「ふふ、奇遇ね、私も今、金魚すくいの気分なのですよ!!」
親友同士、仲良く手を繋いで走り出す二人、そしてその姿を微笑ましく見守る綾。三人の姿が人混みの中へ消えてゆく。
「あれ? そういえば青画の姿が見えませんわね……?」
役目は終えたとばかりに青画を探す朱璃。
「お坊ちゃまでしたら屋台でお好み焼きをやると張り切っておられました」
深町の言葉に皆、ぽかんと口を開ける。
「ええっ!? せっかく浴衣デート出来ると思っていたのだが……」
「この中から探すのはかなり大変ですわね……」
黒乃と朱璃は聞いていないと焦りだすが――――
「問題ありません、女性が騒いでいて、行列が出来ている屋台が青画さまのいらっしゃる場所に違いありませんから」
「さすが絵里香!!」
「たしかにそうですわね!!」
(参ったなあ……)
一方の青画はといえば――――家門の女の子たちに囲まれて屋台に辿り着けないでいた。
「お待たせ、青画くん」
「春夏さん!?」
突然現れた春夏は、圧倒的なスタイルと色気で群がる女性たちを圧倒し、腕を組んで青画をその場から連れ出す。
「助かりました」
「良いのよ、雨音のためだもの。二人で最高のお好み焼きを作りましょうね」
今日の主役はあくまで雨音。
母として何もしてあげられなかったという後悔がある。だからこそ雨音には誰よりも楽しんでもらいたいと、春夏は心からそう願うのであった。




