第三章:対面しない共闘
深夜二時。アパートの四畳半で作業をしていた渚のスマートフォンが、突如として「圏外」を表示した。 アンテナマークが消え、Wi-Fiのアイコンが灰色の沈黙を守り始める。
(あれ……ネットが切れた? ルーターの不具合かな)
最初は単なる通信障害だと思った。しかし直後、静まり返ったアパートの廊下から、足音を忍ばせるような重い足音が近づいてきた。
ガチャリ、とドアノブが静かに回される。
「……? こんな時間に?」
怪しんだ渚は足音を立てずに玄関へ向かい、ドアスコープ(覗き穴)にそっと目を近づけた。 魚眼レンズの向こうに映っていたのは、新聞配達員でも宅配業者でもなかった。夜だというのに深い帽子を被り、顔をマスクで覆った男がふたり。
そのうちの一人が、胸ポケットから金属製の不気味な細い工具セット(ピッキングツールとサムターン回し)を取り出し、鍵穴に差し込もうとしているのが見えた。
『中にいるな?』 ドア越しに、抑えた低い声が漏れ聞こえてくる。 『ああ、Viperからの位置特定は確実だ。部屋ごとガサ入れして基板を回収する。女が騒いだら声を出す前に塞げ』
「……っ!!」
血の気が引いた。単なる来客でも近所の酔っ払いでもない。 110番に通報しようと慌ててスマホの画面を滑らせるが、画面には「発信失敗」の冷たい通知が躍るだけ。通信ジャミングによって、助けを呼ぶ手段は完全に断たれていた。
男たちが鍵を抉る金属音がカチリと響く。 渚は恐怖で足がすくみそうになるのを必死で耐え、部屋の明かりを速やかに消すと、暗闇の中で部屋の隅の狭い隙間へと滑り込んだ。周囲には、昼間に解体していたジャンク基板と、修理作業用に加熱したままの「はんだごて」、そして強力なパーツクリーナーが転がっている。心臓が早鐘のように肋骨を打っていた。
その頃、アパートから百メートル離れた路上の車内。 桐生蓮——『Ghost』は、ラップトップのモニターに映し出されたエラーログを前に、唇を噛み切らんばかりに握りしめていた。
「くそっ、Viperめ……周辺一帯の基地局にローカルジャミングを打ち込んできたか。」
渚の部屋の通信は完全に断絶された。部屋へ飛び込めば、追手を排除できるかもしれない。しかし、自分が姿を現せば『Ghost』の正体が暴露され、渚をただの被害者ではなく「国際サイバー犯罪の共犯者」として巻き込んでしまう。それは決して許されない一線だった。
「届いてくれ……佐倉さん……!」
蓮は車載の通信ギアを操作し、渚の部屋の外郭を通る「電力スマートメーター」のメッシュネットワークへ強引に割り込んだ。電力供給の電圧を極限まで微細に揺らし、彼女の部屋にあるスマート電球の出力を制御する。
押し入れの隙間から見つめる室内で、突如として天井のスマート電球が明滅を始めた。
パッ、パパッ、パッ。
最初はジャミングによる電圧障害かと思った。しかし、その明滅のリズムには明確な規則性があった。 短光と長光の組み合わせ。渚の頭の中に、あの日のカフェでの会話が鮮明に蘇る。
『どんなに強固なファイアウォールも、物理的な「光」の明滅は遮断できない』
『……いつか、その視点に救われることがあるかもしれませんね』
「桐生さん……!」
渚は震える手でスマホを操作し、先日、桐生に見せたあの「モールス信号解読カメラアプリ」を立ち上げた。 押し入れの隙間からスマート電球へカメラのレンズを向ける。暗闇の画面上で、緑色の解析フレームが光の明滅を捉え、リアルタイムでテキストを吐き出し始めた。
[ GHOST : NEED HW-ID ON BOARD / SEND VIA FLASH ]
(「基板に刻まれたハードウェアIDが必要だ。フラッシュの光で返信せよ」)
胸の奥から熱いものがこみ上げる。桐生は覚えている。自分がアクセシビリティUIの検証用にこのアプリを入れていることを信じ、電波の届かない暗闇の部屋へ「光」を投げてくれたのだ。
渚はジャンク基板の裏側に目を行き届かせた。 そこには、前の持ち主が自作増設したチップの横に、殴り書きされた手書きのシリアルナンバー——『HW-8902-VX』が刻まれている。
渚はアプリの「モールス発信機能」を開き、テキスト欄に『HW8902VX』と打ち込んだ。 そして、スマホのLEDフラッシュライトを窓の外へ向け、発信ボタンをタップする。
ピカッ、ピ・ピ・ピカッ、ピカッ——。 漆黒のアパートの窓から、純白の強光が夜空へ向けて規則正しいパターンを刻み始めた。
車内の蓮は、双眼鏡越しに渚の部屋の窓を見つめていた。 暗闇を切り裂くLEDの明滅。光学センサーがそれを感知し、画面上に正確な文字列を展開する。
[ FROM NAGISA : HW8902VX ]
「……受け取ったよ、佐倉さん!」
蓮の指がキーボードの上で神業のような速度で躍動した。 Viperが構築したDPI監視網と暗号化ウォレット。そのソフト側の防壁は完璧だったが、渚が提供した「物理ID(HW-8902-VX)」を入力した瞬間、レヴァイアサンの裏サーバーのルート権限が一気に解凍された。
「Viper、お前のシステムの唯一の脆弱性は、開発者が残したこのハードウェアのデバッグ口だ!」
蓮は過大パケットを一気に流し込み、Viperの監視サーバーとジャミング装置へ逆流を発生させた。
バツンッ!!
廊下にいた回収屋が持ち込んでいた携帯型ジャマーが、過電流によって火花を散らして爆破・沈黙する。 同時に、アパートのドアが蹴破られ、回収屋の男二人が室内に雪崩れ込んできた。
「どこだ、女!!」
次の瞬間、蓮は屋外のメインブレーカーをハックし、アパート全体の電源を強制シャットダウンさせた。 完全な静寂と漆黒が室内を包み込む。同時に、蓮はスマートスピーカーの予備バッテリーを駆動させ、最大音量で「火災警報サイレン」を爆音で鳴らした。
大音量と暗闇に混乱する回収屋。 部屋から飛び出した渚は、視界を奪われた男の顔面に向けて、手にしていたパーツクリーナーを容赦なく噴射した。
「ぐあああっ!? 目が、目がぁ!」
激痛にのたうつ男の腕に、渚はさらに加熱されたはんだごての先端を叩きつける。 ジューという嫌な音と悲鳴が上がり、男はたじろいで床に転がった。もう一人の男が渚を捕らえようと腕を伸ばすが、渚は暗闇のなか配置を完全に把握していた記憶を頼りにローテーブルを蹴り飛ばし、男の脛にしこたま打ち付けた。
「今だ……!」
隙を突いた渚は、パニックに陥る部屋を飛び出し、非常階段に向かって一気に駆け出した。
アパートの敷地外へ逃げ出た渚の目に、赤と青の回転灯が飛び込んできた。 サイレンを鳴らした数台のパトカーが滑り込んでき、逃げ出してきた回収屋の男たちを次々と取り押さえていく。
(蓮がViperのジャミングサーバを潰したのち、彼らの違法通信と位置情報を警察のサイバー犯罪対策課へ通報していたのだった。)
「大丈夫ですか! 被害者はあなたですね!?」
警察官たちに囲まれ、毛布を肩にかけられる渚。 安堵の息を漏らしながら、彼女はふと胸騒ぎがして、通りを隔てた遠くの電柱の陰に目を向けた。
街灯の光が届かない闇の中に、一人の男のシルエットが立っていた。 背が高く、少し猫背の、見慣れたシルエット。男は渚がが無事保護されたのを確認すると、静かに深く一度だけ頷き、そのまま夜の街の闇へと溶けて消えていった。
渚はその背中を追わなかった。追ってはいけないのだと、理解していた。 ポケットの中で、スマートフォンが小さな震えを返す。
回線が復旧した画面を開くと、モールス解読アプリの受信用ログの最後に、一行だけ新しいテキストが残されていた。
[ UX APPROVED. THANK YOU, NAGISA. ]
(「最高のユーザー体験だった。ありがとう、渚」)
渚は毛布を強く引き寄せ、夜空を見上げながら、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「こちらこそ……合格点をいただけて、光栄です。桐生さん」




