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最終章:解き放たれたプロトコル

あの悪夢のような夜から、一週間が過ぎた。

渚を襲った男たちは「住居侵入および強盗未遂」の容疑で逮捕され、事件の背後にあった犯罪組織『レヴァイアサン』の国内拠点は、警察のサイバー犯罪対策課によって一斉摘発された。ニュースでは「匿名の情報提供(バグ報奨金プログラム経由)による快挙」と淡々と報じられていたが、それが誰の手によるものか、世間は知る由もない。

アパートの修繕も終わり、すっかり平穏を取り戻したサイバー・プロダクツのオフィス。

「ふぅ……」

午後の斜陽が差し込む給湯室で、渚は一人、マグカップにコーヒーを注ぎながら深呼吸をしていた。 スマートフォンを取り出し、あの夜からずっと保存してある「モールス信号解読アプリ」の受信ログを開く。


[ GHOST : NEED HW-ID ON BOARD / SEND VIA FLASH ]

[ UX APPROVED. THANK YOU, NAGISA. ]


画面に刻まれた無機質な英文字列を、渚は愛おしむように指先でなぞった。

『Ghost』——それがハッカーの世界でどんな意味を持つ名前なのか、渚は詳しく知らない。 けれど、電波が断絶された恐怖と漆黒の暗闇の中で、自分を信じて光を投げてくれた人物。暗闇の向こうの電柱の陰で、静かに自分を見守っていたあの背中。

それが誰なのか、渚の中で疑う余地はなかった。

「お疲れ様、佐倉さん。コーヒー?」

足音もなく給湯室に入ってきたのは、伊達メガネをかけた同僚——桐生蓮だった。 いつものように静かで、どこか浮世離れした雰囲気を纏っている。

「あ、桐生さん。お疲れ様です」

渚はスマホをそっとポケットに収めると、マグカップを手に持って蓮に向き直った。 警察に余計なことを話さなかったかとか、どうしてあんな芸当ができたのかとか、野暮な質問をぶつけるつもりは最初からなかった。彼が自分を護るために全力を尽くしてくれたこと、そして口にできない重い過去や秘密を抱えていることを、渚は直感的に理解していたからだ。

「……ねえ、桐生さん」

「ん?」

蓮は自分のマグカップにドリップバッグをセットしながら、軽く首を傾げた。

「……ううん、この前話した『モールス信号解読アプリ』のことなんですけど」

「ああ、あのアクセシビリティUIの実験アプリかい?」

「はい。実はあのあと、ちょっとした“実戦”で使う機会がありまして」

渚は少しだけ悪戯っぽく唇の端を上げた。

「電波が完全に遮断された暗闇の中でも、光のリズムさえ信じて送れば、一番伝えたい相手と完璧に通じ合えるんだって分かりました。究極まで削ぎ落とされた、最高のUIでしたよ」

蓮の手が、ピタリと止まった。

ゆっくりと振り向いた蓮は、伊達メガネの奥にある瞳をほんの少しだけ見開き、驚いたように渚を見つめた。 やがて、彼の唇が穏やかに綻び、伊達メガネの奥で柔らかく目を細めた。

「……そうか。それはよかった」

蓮はいつもの落ち着いた声で、静かに言った。

「システムがどんなに優れていても、受け取る人間の『観察眼』と『度胸』がなければ成立しないプロトコルだ。……君がパートナーでよかったよ、佐倉さん」

「ふふ、桐生さんにそう言ってもらえると、デザイナー冥利に尽きます!」

渚は満足そうに微笑むと、「じゃあ、仕事に戻りますね」と言って給湯室をあとにした。 廊下に響く彼女の軽い足音を聞送りながら、蓮はマグカップから立ち上る湯気を静かに見つめた。

(……守れたんだ)

5年前、自分の無力さゆえに大切な存在を奪われ、心を過去の闇に置き去りにしていた。 『Ghost(亡霊)』と名乗り、復讐のためだけにキーボードを叩き続けていた長い夜が、ようやく明けていくのを感じていた。渚が示してくれた光とまっすぐな信頼が、彼の止まっていた時間を動かしたのだ。


デスクに戻った蓮は、ノートPCの画面を開いた。 モニターの隅で5年間ずっとバックグラウンド稼働し続けていた「Ghost」としての監視ボット、そして復讐のためのプログラム群。

蓮は迷いのない手つきでコマンドを入力し、それらのプログラムをすべて『永久削除(パーマネント・ディリート)』した。

画面から禍々しい黒いログが消え去り、澄んだデスクトップ画面だけが残る。

「桐生さーん! ここのボタン配置、ちょっと意見もらえますか?」

隣のデスクから、渚が椅子をスライドさせて顔を覗かせてきた。

「いいよ。どうしたの?」

蓮は伊達メガネを少しだけ直すと、一人の人間として、そして信頼できるパートナーとして、初夏の光が満ちるオフィスで渚の画面へと優しく目を向けた。

(物語・完)

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