第二章:画面越しの護衛と縮まる距離
「……クソッ!」
冷めきった自室の中、蓮はキーボードに激しく拳を叩きつけた。
モニターに映し出された『LVN-NET-PROTOCOL』の文字列。それは、かつて自死に追い込まれた恋人の悲鳴であり、彼の人生を永遠に変えてしまった悪夢の烙印だった。
五年まえ。恋人を奪われた蓮は、すべてを捨てて闇のネットワークへ潜った。姿なき復讐者——コードネーム『Ghost』。
それが当時の蓮だった。彼はレヴァイアサンの主要通信ノードを片端から打ち砕き、数十億円規模の闇資金ルートを完全に沈黙させた。組織にとって『Ghost』とは、正体不明にして最も危険な最優先抹殺対象。彼らのデータベースにおいて、Ghostの名は今も赤く点滅し続けているはずだ。
「今すぐ、彼女のアパートへ行けば……」
蓮は立ち上がりかけ、だが、踏み出した足を力なく止めた。伊達メガネを固く握りしめた指が、白く震える。
行けるわけがない。正体を明かせるはずがなかった。
もし、いま自分が『Ghost』として渚の前に現れればどうなるか。レヴァイアサンは即座に「ただジャンクPCを買っただけの一般人」という見方を捨てる。渚は『Ghostの手先であり、組織の裏資産(4,250 BTC)を盗み出すために動いた重要共犯者』と断定されるのだ。そうなれば、派遣されるのは単なる回収屋ではない。組織の全戦力が投じられ、拷問と徹底的な抹殺が待っている。
(それに……「何も知らない」ことこそが、万が一の時に彼女を守る最後の盾になる……)
組織の人間は冷酷だ。4,250 BTCという膨大な資産と、裏の暗号鍵を見られた以上、データを返そうが全額返金しようが関係ない。「秘密を知った部外者」を生かしておくような甘い組織ではないのだ。
だからこそ、渚に真実を話すわけにはいかない。知ってしまうこと自体が、彼女の命を縮める毒になる。
「誰も深く関わらせない……そう決めたはずだろ、俺は……!」
自責の念が胸を鋭く穿つ。自分の過去の因果が、またしても目の前で一生懸命に生きている人間を飲み込もうとしている。
蓮は伊達メガネをゆっくりとかけ直すと、冷徹なハッカーの顔に戻り、再びキーボードへと指を走らせた。
渚のスマホやプライベートな端末には一切侵入しない。それは彼女の領域であり、守るべき尊厳だからだ。その代わり、蓮は彼女を取り巻く「都市のインフラ」を外側から完全にジャックし、透明な隔離壁を構築することを決意した。
翌朝、午前八時。都内の住宅街。
昨夜の危険など露知らず、渚はいつものように明るいブラウンのショートボブを揺らし、軽やかな足取りでアパートの階段を下りて駅へと向かっていた。
同じ頃、二ブロック先の大通り。スモークガラスが張られた黒のワンボックスカーが低速で巡行していた。レヴァイアサンの「回収屋」だ。IPアドレスからアパートの大まかな位置は割れているため、渚が駅へ向かう徒歩ルートをカーナビの最短予測で先回りし、人目の少ない角で車内に連れ込もうと画策していた。
同刻。自室のモニター前に座る蓮の瞳が、鋭く光った。
渚の端末には触れず、街頭に設置された防犯カメラの公開トラフィックと、交通監視システムのパケットだけをリアルタイムで追跡する。画面上で、渚の歩行予測ラインと、並行する大通りで先回りを試みる不審車両のデータが合致した。
「車種はハイエース、足立ナンバー……特定完了」
蓮の指先が高速でキーを叩く。ターゲットは先回りしようとする不審車両が搭載している車載通信モジュール(DCM)だ。
外部ネットワークの脆弱性を突き、CANバス通信へ割り込む。直接ブレーキを踏み込ませるような急激な操作はしない。それでは乗員に異常を察知され、徒歩での捜索へ切り替えられてしまう。
蓮が仕掛けたのは、わずかな「錯覚」だった。
カーナビのGPS受信データをリアルタイムで改ざんし、自車位置を実際の位置から西へ百メートルほど意図的にズラす。同時に、進行方向の信号機制御システム(高度交通信号制御)のアルゴリズムへ裏から介入した。
「右折の誘導を出して……信号は赤で固定」
ワンボックスカーのナビ画面が『この先、右折です』と偽の案内を発する。先回りのために曲がろうとドライバーが誘導に従って右折した瞬間、目の前の信号が連続で赤に変わった。車線は通勤ラッシュの渋滞にはまり、完全に立ち往生する。
車が遠くへ誘導され立ち往生している間に、渚は何事もなく駅の改札へと吸い込まれていった。画面上で距離が十分に離れたことを確認し、蓮は深く息を吐いた。
「……桐生さん、なんだか今日、変なんです」
午後のオフィス。給湯室でコーヒーを淹れていた蓮の隣に、渚がどこか不安げな表情でやってきた。いつもの弾けるような笑顔はなく、落ち着かない様子で周囲を気にしている。
「どうしたの、佐倉さん」
「あの……うまく言えないんですけど。今朝、駅から会社に来るまでの道で、ずっと誰かに見られているような気がして。近くの路地に、怪しい車が停まっていたような気もするんです」
勘の鋭い彼女は、言葉にできない違和感を確かに察知していた。
周囲の同僚なら「考えすぎだよ」と笑い飛ばすかもしれない。しかし、蓮は伊達メガネの奥の瞳を真剣にし、まっすぐに渚を見つめた。
「気のせいじゃないかもしれない。念のため、今日からは絶対に寄り道をしないで、人が多くて明るい大きな道を選んで帰った方がいいよ。」
「え……」
「それから……もし少しでも怪しいと感じたり、危険を感じたら、時間なんて気にせず僕に電話して。いいかな?」
普段は無口で、誰とも一定の距離を保っている蓮が、切迫した声で自分を案じている。その言葉の重みに、渚は目を見開いた。
「……桐生さん」
渚の表情からすっと緊張が抜け、彼女はどこか愛おしそうに、小さな笑みをこぼした。
「ありがとうございます。……ふふ、変ですね。桐生さんと話していると、なぜかすごく守られているような……不思議な安心感があるんです」
その言葉が、胸に突き刺さる。
(……守っているんじゃない。俺は……君に罪を犯し続けているんだ)
正体を隠し、彼女の知らないところで街中のカメラを監視し、彼女の居場所を二十四時間追跡し続けている。守るためという大義名分のもとで行っている自分の行為は、形を変えたストーカーと何が違うというのか。
罪悪感で押しつぶされそうになりながらも、蓮は平静を装って「……大げさだよ」とだけ呟き、自席へと戻った。
しかし、安らぎの時間は長くは続かなかった。
その日の夕方。蓮のモニターに、これまでとは質の異なる高負荷な暗号化パケットが流れてきた。
「……プロバイダのノードに直接割り込んできている……!?」
レヴァイアサン側も気づいたのだ。単なる先回りの失敗ではなく、通信インフラ上で何者かによる「意図的な邪魔」が入っていることに。
組織が投入した新たな刺客——幹部ハッカー、コードネーム『Viper』。
Viperの狙いは、渚のアパートが接続するプロバイダの通信ノードに対するディープ・パケット・インスペクション(DPI)だった。渚が端末から暗号資産のデータを外部へ送信・退避させないよう通信を常時監視し、万が一データ通信が発生した瞬間にその暗号鍵を盗聴・復元しようと網を張ったのだ。
「くっ……!」
蓮は即座にダミーの通信トラフィックを大量発生させ、Viperのパケット解析エンジン(DPI)にノイズを流し込んで盗聴を無効化する。画面上では、肉眼では追えないレベルのサイバー戦が繰り広げられていた。
だが、蓮の手には冷や汗が滲んでいた。
(外側からの妨害だけじゃ、限界がある……!)
Viperがネットワークを監視・封鎖している間に、回収屋の男たちが直接アパートの部屋へ踏み込んでくるのは時間の問題だった。どれほど高度なサイバー防壁を築いても、物理的にドアを破ってくる暴力までは防ぎきれない。
画面の向こうで渦巻く悪意と、迫り来るタイムリミット。 大切な人を二度と失わないための戦いは、逃げ場のない局面へと追い詰められようとしていた。




