第一章:壊れたPCと危険なデータ
翌日の昼下がり。サイバー・プロダクツのオフィスは、エアコンの微かな空調音と、社員たちのキーボードを叩く音で満たされていた。
「桐生さん、聞いてください!」
自席でログの点検を行っていた蓮の隣に、渚が椅子をキャスターごとスライドさせて滑り込んできた。明るいブラウンのショートボブを揺らし、その瞳は期待に満ちている。
「例のジャンクPC、昨日の夜に基板のバイパス処理をしたら無事に起動したんです! モニターも綺麗に映りました!」
「……そう。よかったね」
蓮は画面から目を離さず、短く応じた。
「ただ、ちょっと気になることがあって。ストレージの奥にアクセス制限のかかった領域が残ってたんです。気になったので、テスト用の復元ソフトをかけて放置してきたんですよね。今日の夜には解析が終わってるはずです」
蓮は打鍵していた手を止め、伊達メガネの位置を少しだけ直して渚を見た。
「佐倉さん。他人のプライベートなデータは、深追いしない方がいい。何が入っているか分からないし、思わぬトラブルの元になる」
「あはは、分かってますよ! 単なる動作テストの一環ですって。フォーマットする前にエラーが出ないか確かめるだけですから」
無邪気に笑う渚は、持っていたスマートフォンの画面をひょいと蓮に向けた。画面にはカメラが起動しており、文字が刻々と表示される不思議なインターフェースが開いている。
「それに、わたし本業はUI/UXデザイナーですからね。動作テストついでに、個人で検証してる『アクセシビリティUI』の実験も進めてるんです。ほら、これ」
「……何だい、これは?」
「画面を見ないで情報を受け取る『ノンビジュアルUI』の検証アプリです! スマホのカメラを点滅する光に向けると、その長短をリアルタイムでモールス信号として解析してテキスト化してくれるんですよ。逆に、タップ入力でスマホのフラッシュを光らせてモールス信号を発信することもできます」
「モールス信号か……」
蓮はレンズの奥の目を少しだけ細め、興味深そうに画面を覗き込んだ。
「画面を見なくても光や音の周期で直感的に情報を伝えるプロトコルですね。データ量も最小限で済む。シンプルですが、視覚に頼らないインターフェースとしては確かに究極的です」
「でしょう? どんなにデジタル化が進んでも、こういうアナログな光の明滅って、電波障害や回線トラブルにも強い『一番堅牢な通信』だと思うんです」
「……同感です。どんなに高度なファイアウォールでも、物理的な光の点滅までは遮断できませんからね。いつか、その着眼点に救われる時が来るかもしれません」
「ふふ、桐生さんに褒められると嬉しいな!」
満足そうに微笑む渚の姿に、蓮はそれ以上追求するのをやめ、静かに息を吐いた。
その日の夜。都内にある渚のアパート。
お風呂上がりの渚は、ドライヤーで髪を乾かしたあと、デスクの上に置いた再生済みのノートPCに向かい合った。画面には「復元完了」のダイアログが表示されている。傍らのスマホには、先ほどオフィスで見せたモールス解読アプリが検証用のテストモードのまま残されていた。
「どれどれ……」
復元されたフォルダを開くと、そこには一般的なアプリでは読めない特殊な拡張子のファイル群が並んでいた。何かの専用ソフトで生成されたデータのようだ。
「うーん、拡張子が変だな……」
テストエンジニアとしての職業病だろうか。渚はファイルの構造を確認するため、一番サイズが小さかったテキスト形式のログファイルを、標準のメモ帳アプリで開いてみた。 画面に表示されたのは、英語とランダムな文字列の羅列。しかし、その先頭に分かりやすく書かれた『README.txt』の文字と、丁寧な復元手順のメモがあった。
『DarkAuction Access Gateway v4.2』
『Wallet Backup Key』
「ダークオークション……? ウォレット……?」
不審に思った渚は、メモに記されていた専用ブラウザのキャッシュファイルを読み込ませ、オフライン用のウォレット画面を立ち上げた。自動補完されたパスワードが通り、画面の中央に管理画面が表示される。 そこに刻まれていた残高の数字を見て、渚は息をのんだ。
『4,250.00 BTC』
「え……? よん千……?」
桁の多さに混乱し、頭の中で急いで日本円に換算する。今の相場で言えば、数百億円、あるいはそれ以上の巨額な金額だ。
「これ……ただの中古PCじゃない……?」
背筋に冷たいものが走った。自分が開けてしまったのは、ジャンク品という名の「絶対に触れてはいけない箱」だったのだと、渚は血の気が引いていくのを感じていた。
同じ刻。東南アジアの某所に拠点を置く、とあるサイバー犯罪組織の監視ルーム。
暗い部屋に並ぶ赤と黒のモニター群の中で、アラート音が静かに鳴り響いた。
「ボス、例の逃亡した内通者が持ち出したストレージのビーコンが反応しました」 オペレーターの男が、感情のない声で報告する。
「……裏切り者の遺品か。身包み剥がされる直前にフリマアプリで発送したあのジャンクPC——やはりデータは生きていたか」 影の中に佇む男が冷たく呟くと、オペレーターはカタカタと端末を叩いた。
「ええ。追手が迫るなか、端末の物理破壊もできず所持もできない極限状態で、即日発送のフリマアプリへ『パーツ取り用のジャンク品』として匿名のまま退避させたようです。ほとぼりが冷めてから何らかの手段で買い戻す算段だったのでしょうが……スピード落札され、そのまま一般市場へ流れていました」
「浅知恵だが、時間を稼がれたのは事実だ。……で、データを開いたのは誰だ?」
「東京です。家庭用のプロバイダ経由で復元シーケンスが実行され、ダミーウォレットのネットワーク照会が行われました。IPアドレスから現在地を特定。契約者は『佐倉 渚』という二十代の日本人女性です」
男は吐き捨てるように言った。
「組織のアクセスキーと暗号資産の存在を知られた以上、生かしておく理由はない。現地のアラシ(回収屋)を向かわせろ。データを回収し、痕跡を残さず処理しろ」
「了解しました。これより現地部隊を派遣します」
同刻、都内の自宅マンション。
薄暗い部屋の中で、蓮はキーボードを叩く手を凍りつかせていた。 モニターの隅で常駐させていた自作の自動監視ボットが、前夜とは比較にならない甲高い警報音を鳴らしたからだ。
「な……んだ、これは……?」
ダークウェブ上の特定ノードを経由して、凄まじい速度で暗号化パケットが交信されている。そのパケットの先頭に埋め込まれた独自プロトコル(通信手順)の署名を見た瞬間、蓮の全身から汗が噴き出した。
『LVN-NET-PROTOCOL』
忘れもしない。五年前に自分が立ち上げたベンチャー企業を破滅させ、かつての恋人を死に追いやった悪名高きサイバー犯罪組織——『レヴァイアサン』の通信コードだ。
「なぜ……今になってレヴァイアサンが……!?」
指を震わせながら、パケットの送信先——彼らが狙いを定めている「標的のIPアドレス」を逆引きする。暗号を解除し、契約者情報が画面に展開された瞬間、蓮は息を詰まらせた。
『契約者:佐倉 渚』
『住所:東京都……』
「な……っ!?」
蓮は叩きつけるように伊達メガネを外し、モニターに食らいついた。
「なんで……なんで佐倉さんがレヴァイアサンに狙われている!?」
画面には、すでに「回収屋」と呼ばれる実行部隊へ暗殺とデータ回収の指令が下されたログが流れ続けていた。到着までの猶予は、一時間もない。
「クソッ……!」
静寂を保っていた蓮の日常が、音を立てて崩れ去った。冷徹だった彼の瞳に、かつて大切な人を失ったあの夜と同じ、激しい恐怖と焦燥が走り抜けていた。




