序章:日常の裏の仮面
午前二時。遮光カーテンが固く閉ざされた八畳間は、四枚のマルチモニターが発する青白い光だけに満たされていた。
キーボードを叩く乾いた音が、規則正しく部屋に響く。桐生蓮は伊達メガネをデスクに放り投げ、乱れた前髪の隙間から、三十五歳の男らしい鋭い眼光を画面に走らせていた。
画面上には、暗号化された無数のログファイルと、見知らぬ海外サーバーのIPアドレス。国内の中小企業を狙った身代金要求型ウイルス(ランサムウェア)攻撃。警察に駆け込む猶予もない被害者からの悲鳴を、闇の仲介業者経由で拾ったのが三時間前だった。
蓮の指先が、鍵盤の上を滑る。
自作の解析ツールで相手のC2サーバーへ逆侵入を仕掛け、セキュリティの裏口を強引にこじ開ける。相手のハッカーが異変に気づき、防御壁を構築しようとするが、遅い。蓮の組んだプログラムはミリ秒単位で相手の権限を奪取し、暗号解除キーを強制抽出すると同時に、相手の感染システムを内部から崩壊させた。
画面中央に『DECRYPTION COMPLETE』の緑色の文字が浮かび上がる。
数秒後、匿名の暗号資産ウォレットに報酬が着金した旨の通知が入った。蓮は数字を一度も確かめることなく、コマンドラインに短く打ち込んだ。
$ disconnect --purge
端末の電源が落ち、部屋は完全な静寂と闇に包まれた。蓮は深く息を吐き、冷めきった缶コーヒーを飲み干す。画面の向こうの脅威を壊し、誰も知らないまま裏で処理する。それが、フィクサー『Ghost』としての彼の日常だった。
翌日の午後二時。大手IT企業『サイバー・プロダクツ』のシステム開発部フロアは、キーボードの打鍵音と電話の呼び出し音で慌ただしかった。
「桐生さん、またまたお邪魔しまーす」
給湯室でコーヒーを淹れていた蓮の背中に、朗らかな声がかけられた。同じシステム開発部でUI/UXデザイナー兼テストエンジニアを務める、佐倉渚だ。二十八歳になる彼女は、明るいブラウンのショートボブを揺らし、くるくると表情を変えながらマイカップを洗いにやってきた。
「……こんにちは、佐倉さん」
蓮は長めの前髪を指で軽く整え、伊達メガネの奥の目を小さく細めた。長身の痩せ型で猫背気味な身体をわずかに斜めに開き、自然な動作で一歩距離を取る。
「桐生さんって、いつも胃に悪そうな濃さのコーヒー飲んでますよね。ほら、これどうぞ。実家から送られてきたクッキーです!」
「……ありがとう。もらうよ」
手渡された小さな袋を受け取ると、渚は行動的な彼女らしく、弾むような笑顔を浮かべた。
「そういえば、先週助けてもらったUIテストの自動化スクリプト、すごく快適です。桐生さんの書くコードって無駄がなくて綺麗だから、触ってて気持ちいいんですよね。さすがです!」
「決められた仕様通りに組んだだけだよ。……それじゃ、業務に戻るね」
「あ、はい! お邪魔しました〜。……うーん、相変わらずガードが堅いなあ」
背後から聞こえた渚の小声の呟きに、蓮は足を止めず、目立たないよう無口な姿勢を崩さずに自席へと戻った。周囲から見れば、彼は「仕事は早いが、会話の乏しい冴えないエンジニア」でしかなかった。それ以上の人間関係を築くつもりも、誰かを中に招き入れるつもりもない。
定時を過ぎ、オフィスの照明が半分ほど落ちた頃。退勤の準備をしていた蓮の耳に、隣のデスクから「カチャ、カチャ」という不審な金属音が届いた。
チラリと目をやると、渚がデスクに小さな作業マットを広げ、ノートPCの筐体を慣れた手つきで分解していた。
「……佐倉さん、会社で何をしてるの?」
「あ、桐生さん! 見てくださいこれ」
渚は精密ドライバーを掲げ、目を輝かせた。
「フリマアプリで落とした『電源不可・ジャンク品』のノートPCなんですけど、開けてみたら単なるヒューズの断線だったんです! 壊れたって捨てられた子でも、こうやってハンダを打ち直してあげれば、また画面が点灯するんですよ。その瞬間がたまらなくて」
「……壊れたものを、わざわざ直すのが好きなんだね」
「好きですね。だって、中身はまだ動くのに、表面のちょっとしたトラブルで『ゴミ』扱いされるの、かわいそうじゃないですか。ちゃんと手を入れてあげれば、また誰かの役に立てるのに」
まっすぐな瞳でそう語る渚の姿に、蓮は一瞬、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
(……人間は、そう簡単には直らないがな)
心の中でそう呟く。壊してしまった過去も、失われた命も、ハンダ付けのように元通りになることはない。
「熱中するのはいいけど、終電には遅れないようにね」
「はーい! 桐生さんもおつかれさまです!」
自室に戻った蓮は、部屋の明かりをつけないままデスクに向かった。
PCを立ち上げ、画面の隅に隠された鍵付きのフォルダを開く。そこには、かつて二人でITベンチャーを立ち上げた、かつての恋人であり親友だった女性の笑顔が写っていた。
自分の書いたプログラムの脆弱性が原因で、凶悪な犯罪組織にシステムを乗っ取られた。会社は倒産し、追い詰められた彼女は自ら命を絶った。「自分の技術が足りなかったから」「大事な恋人を守れずに失ったのだ」。その強烈な罪悪感が、今も蓮の胸を焼き続けている。
「……二度と、誰も深く関わらせない」
自分に言い聞かせるように呟き、写真を閉じた。
その時だった。
画面の端で稼働していた自作の自動監視ボットが、静かに黄色いアラートを弾いた。ダークウェブ上の特定のノードで、一瞬だけ検知されたデータ解析の反応。
蓮は伊達メガネを外し、画面を睨みつけた。まだそれが、先ほど笑顔で別れた年下の同僚を飲み込む暗雲だとは知る由もなく。




