夢章二 3 『医者の責務』
真夢を診察室まで送り届けた後、栞は入口に立ち、中の医者に向かって念入りに言い含めていた。その声は扉越しに聞こえてきて、妥協を許さない調子がはっきりとしていた。
「右手首、必ずちゃんと診てくださいよ。いい加減に流されないでくださいね、お願いしますから!」
「分かった分かった、安心しろよ。」
診察机の後ろに座っていた医者が答えた。二十代半ばくらいの男性で、黒い短髪と整った顔立ちが引き締まった印象を与えている。顔を上げて栞を一瞥し、口元に苦笑いのようなものを浮かべた。
彼の胸元には名札がついていて、そこには「杉木健」と書かれている。
健の視線が扉から真夢へと移り、彼に腰掛けるよう促した。そして真夢の手をざっと確認し、指で何箇所かの関節を軽く押しながら、その反応を観察した。
「……傷自体はそこまで重くはないけど、それでも処置が必要だし、しばらくは安静にしてもらうからな。」
「そうでしょう? 今あなたに一番必要なのは休養ですよ。」
健の言葉に、栞が扉の外から同意するように付け加えた。
「正直なところ、これ以上休んだら、マジで職を失いそうなんだが……」
「はは、さすがにそこまでは行かないさ。お前の業績はみんな認めてるところだ。それに、同僚の多くがお前に休む時間が必要だと思ってる。お前の事情は、俺たちも重々承知してるからな。」
真夢の自嘲気味な言葉に、健は手を振った。
「でも、お前が俺のところに診察に来るのは珍しいな。どちらかと言えば、栞さんのところに行くことの方が多いんじゃないか?」
「そりゃお前は整形外科だろ……栞はせめて心理の専門家だ。俺の場合はそっちに相談するのが当然だ。」
「そうか。なら、さっきの言葉は謝るよ。」
健はそう言いながら、指先を擦り合わせ、微笑みを浮かべて真夢を見つめた。
「よし、用事がなければ、そろそろ行くよ。俺の方にもまだ仕事が——」
「いや、診断はまだ終わってない。」
「……?」
言葉の途中で健に遮られた。
「ちょっと待てよ、健。俺の方にはまだ仕事が——」
「ああ、分かってるよ。」
健の口調は相変わらず穏やかで、微笑みも崩れていない。だが、彼の指はすでに真夢の手首に触れていた。突然のその行動に、真夢の身体がわずかに震えた。
「分かってるなら、なんで行かせないんだ?」
「いやあ、先輩……いや、真夢患者さん。今はまだ診断段階だって、分かってますよね?」
「わ、分かってるが、それがどうした?」
「どうもしませんよ。ただ、診断の後に、もっと深刻な損傷がないか確認するために、レントゲンを撮ってもらう必要があるんです。もし靭帯や軟骨に異常があれば、MRIもやってもらいます。軽い捻挫なら、アイシングと圧迫包帯、それからリストバンドの着用と副子固定を勧めます。その上で、外用の消炎鎮痛剤を処方しますね。重度の捻挫なら、ギプス固定か、もしかしたら手術になるかもしれません。必要なら、リハビリのトレーニングも教えられますよ~」
健は人差し指を振りながら、その口調にはちょっとした挑発的なニュアンスが混じっていた。
「……何なんだよ、これは。」
「もちろん『診』事ですよ~」
目の前の健を見て、真夢は何とも言えない気分になった。
自分の手首を見下ろす。健の指はまだそこに触れたままで、力は強くないが、明らかに離す気はないようだった。
「……ここまでやる必要があるのか?」
「当然だよ。だって、お前の怪我は、俺の管轄に関わることだからな。」
「……分かった。」
真夢が折れたのを確認して、健はようやく手を離し、引き出しから一枚の用紙を取り出して、何か書き込んだ。
「二階で撮ってきてくれ。」
「……分かった。」
真夢は用紙を受け取り、立ち上がって扉に向かった。
入り口まで来たところで、真夢は横目で健を一瞥した。健は背もたれに寄りかかり、両手を頭の後ろで組んで、笑みを浮かべてこちらを見ている。
「何見てるんだ? 早く行って早く戻ってこいよ。誰かが待ってるぞ。」
「……正直に言うと、お前の正体が本当に疑わしくなってきた。お前は整形外科医なのか、情報屋なのか?」
「うーん…………Both(両方とも)だな。」
その言葉に、真夢は何も言い返さず、扉を押し開けて外に出た。
診察室内、扉が閉まる音を聞いて、健は低く笑った。
…………
……
栞は真夢が気づかないうちに、静かに診察室を離れていた。
廊下を歩くその足取りは、ゆったりとしていた。ヒールが床を叩く音が、規則正しくはっきりと響く。彼女はよく分かっていた。真夢は夢映に関するある程度の話を、絶対に口にしないだろうと。彼はいつもそうだ。
だから、いくつかのことは、自分で夢映に直接尋ねるつもりだった。
「夢映————」
真夢の診察室の扉を押し開けた栞は、手を扉枠に添えたまま、その場で固まってしまった。
診察室内には誰もいなかった。壁の時計だけが静かに針を進め、窓の外からは微風がカーテンの端を揺らし、かすかな擦れる音を立てている。机の上の物は整理されていて、前に床に散らばっていた三角プレートやペン立ては、今では机の角にきちんと置かれていた。ペン立ての中のペンは整然と並び、三角プレートも向きが直されている。
「……どこに行ったの?」
栞は診察室の中へ足を踏み入れ、隅々まで視線を巡らせた。机の下、ロッカーの横、カーテンの裏——どこにも姿はない。
窓際に歩み寄り、外を見下ろす。通りの車の流れが一望でき、風に揺れる木々の葉がさらさらと音を立てている。かすかに階下の通行人の話し声や、多くの患者たちが病院の正面玄関へと続々と入っていくのが聞こえた。
栞は十数秒ほど窓の外を見つめてから、視線を戻した。
振り返り、外へ向かって歩き出した。歩幅は先ほどより少し速くなっている。彼女は探すのをやめたわけではなかった。もう答えを知っていたのだ。
廊下の角を曲がったところで、彼女の視線は階段口の方へと向かう。
あの白い影が、階段の隅にしゃがみ込んでいた。
「……夢映。」
栞はゆっくりと近づき、試しに声をかけた。
声が聞こえると、あの白い影は全身を震わせ、さらに壁と手すりの隙間に身を寄せようとした。
栞は歩みを止めず、そのまま夢映のそばまで来て、そっと彼女の肩に手を置いた。触れた肩が微かに震えているのが、指先に伝わってくる。そして、顔を覗き込むと、夢映の表情は苦しそうに歪み、目尻が赤くなっていて、涙の跡が頬を伝っているのが見えた。
「栞さん……私……また、やらかしちゃったんですかね……」
「……」
「真夢さんが、あんなに良くしてくれてるのに……ずっと私のことを気にかけてくれて……それに、私の気持ちも考えてくれてるのに……なのに……また、私のせいで怪我をさせてしまって……」
栞の唇が微かに動いたが、言葉は喉の奥で止まった。
「現実でも夢の中でも……真夢さんはずっと私を助けてくれて……短い間だけど……でも……でも————」
そこまで言うと、夢映の自責の念は一層強まり、涙が頬を伝って零れ落ちた。
「私……どうすればいいんだろう…………」
夢映はその場にしゃがみ込み、腕に顔を埋めて、時折小さな嗚咽をもらした。声は大きくないが、静かな階段口ではひときわはっきりと響いていた。
それを見て、栞はゆっくりとしゃがみ込み、手を夢映の頭の上に置いた。指が髪の間を通り、優しく撫でる。力を込めず、ただ手のひらをそこに留めて。
「…………」
栞は何も言わず、ただ静かに夢映の隣にしゃがみ込み、手のひらで何度も何度も彼女の頭のてっぺんを優しく撫で続けた。
「さっき、現実でも夢の中でも真夢さんが助けてくれてるって言ってたよね?」
栞は顔を横に向けて、優しい口調で夢映に話しかけた。
「それで、どうして彼がそんなに助けてくれると思う?」
夢映は答えず、肩がまだ微かに上下しているが、嗚咽は少し治まっていた。
「彼は、自分がそうする価値があると思っているからだよ。誰かの怪我を自分のせいだと思える人間が、何かを台無しにするわけがない。」
「でも——」
「反論は、落ち着いてからにしな。今は、まず深呼吸。さあ、息を吸って————」
夢映の肩が持ち上がり、ゆっくりと下がった。呼吸が少し落ち着いてきたが、まだわずかに震えている。
「……よし。もう一度吸って、ゆっくり吐いて。」
栞の手はまだ夢映の頭の上にあり、呼吸のリズムを数えていた。三度数え終わり、肩が完全に下がったのを確認して、手を離した。
「ここでちょっと待ってて。真夢の様子を見てくるから。どこにも行かないで、ここで待ってて。」
「……はい。」
栞は立ち上がり、廊下を戻っていった。数歩進んで、振り返る。夢映はまだ同じ場所にしゃがんでいたが、顔は上げて、こちらの方を向いていた。栞は微かにうなずき、そのまま歩き続けた。
階段口は再び静まり、換気口からの微かな風の音と、遠くで時折聞こえる足音だけが響く。足音は近づいたり遠ざかったりしながらも、決して立ち止まることはなかった。
十数分後、栞が戻ってきた。片手に湯気の立つ紙コップを二つ持ち、もう片方の手には小さな包みを抱えている。階段口に近づくにつれ、足音がゆっくりになる。
夢映はまだ同じ場所にしゃがんでいた。姿勢はさっきと変わらないが、肩の張りは解けている。足音に気づいて顔を上げる。目元はまだ少し赤い。涙は乾き、頬に二筋のうっすらとした跡が残っていた。
「……栞さん。」
「うん、はい、これ飲んで。」
栞は紙コップを一つ、夢映に差し出した。
夢映はそれを受け取り、両手で包み込む。掌に温かさが広がる。中を見ると、淡い黄色の液体が入っていて、ほのかな甘い香りが漂っている。
「これは……」
「はちみつ水。甘いものは気持ちを落ち着けるのにいいんだよ。そういえば、朝ごはんは食べた?」
「はい……」
「それなら、これは気分を落ち着けるためのドリンクだと思って、ゆっくり飲んで。」
夢映は紙コップを口元に運び、慎重に一口含んだ。温かい液体が喉を滑り落ち、優しい甘みが舌の上に広がっていく。もう一度一口含んでから、両手でコップを包み、液面を見つめた。
栞はその隣の段に腰を下ろした。白い白衣の裾が床に垂れ、少し埃がついたが、気にした様子はない。自分の分の紙コップをそばに置き、顔を夢映の方へ向けた。
「そういえば、どこまで話したっけ?」
「……真夢さんがどうして私を助けてくれるのかってところまでです。」
「ああそうそう。それで、答えは出た?」
夢映は紙コップを抱えたまま、しばらく黙った。
はちみつ水の温かさが、コップの壁を通して指先に染み込んでいく。指先から指の腹、そして手のひら全体が温かくなっていく。
「……私が役に立てるって思ってくれてるから?」
「それは表面的な理由の一つに過ぎない。もっと深いところは?」
「もっと深いところ……?」
「あの人は、理由もなく人をそばに置いたりしない。可哀そうだからって、簡単に家に入れたりしない。行く場所がないからって、病院に連れて行ったりもしない。もし同情だけなら、他にもいくらでもやりようがあるはずだ。」
栞の声は穏やかで、まるで長く観察してきた事柄について話すかのようだった。
「……いや、もしかしたら彼の内側にある同情心のせいかもしれないな。とにかく、彼があなたをそばに置きたいと思ったのは、あなたを信頼しているからだ。それ以上に大事な理由はない。」
「信頼……私を?」
「そうだ。彼は他人を簡単に信じない。そのことは、誰よりも私がよく知っている。」
栞の言葉を聞きながら、夢映の指がコップの縁をそっと撫でる。中のはちみつ水がわずかに揺れ、液面が廊下の照明を反射している。
「でも、それでも私が怪我をさせてしまった……」
「それはただのアクシデントだ。それに、ああいう医者は、感情が不安定な患者にぶつかることも少なくない。彼自身も逃げようとしなかったんだろう? たぶん、自ら前に出たんだと思う。彼が鈍いわけがない。」
「……」
「彼はヒーロー気取りの人間じゃない。どちらかといえば、非常に慎重な人間だ。決断を下す前に、自分が傷つくかもしれないことくらい分かっていたはずだ。それでも彼はそうした。それはあなたが失敗したからじゃない。彼自身が自らの選択をしたからだ。」
夢映はしばらく沈黙した。階段口が再び静寂に包まれる。時折、階下からドアの開く音とかすかな話し声が聞こえ、また静かになる。
「……栞さん。」
「何?」
「栞さんと真夢さんは、いつから知り合いなんですか?」
「大学の時からだよ。あの頃から今とあんまり変わらない。静かで、口数が少なくて、いつも誰にも分からないような本を夜遅くまで読んでいた。不規則な生活のせいで、本を読みながら鼻血を出したこともあった。まるでウイルスに感染したみたいな奴だったよ。それでも全く動じなかった。あの時、私が早く気づかなければ、あいつは本当に床に血が滴るまで放っておいたかもしれない。」
栞はそう言って、苦笑した。
「でも、あの頃はまだ時間通りに飯を食ってたな。今じゃ、食事さえ誰かに監視されないとだめだ。」
その口調には、長年の付き合いからくる諦めにも似た響きがあった。彼女の視線は前方の何もない空間に向けられ、何かを懐かしむように、すでに何度も確認し尽くした変えられない事実を語るように続けられた。
夢映は静かに耳を傾け、しばらく黙ってから、小さな声で言った。
「……確かに、真夢さんは自分のことをあまり大事にしなさそうですね。」
「だろう? 数日しか経ってないのに、もう気づいてるんだから。」
栞は振り返り、彼女を見た。口元がわずかに緩む。
「だから、あんまり心配しなくていい。あいつは思っているよりずっとタフだから。それよりも、あなたが——」
「私?」
「いつまでそこにしゃがみ込むつもり?」
「……え?」
「真夢の方はまだ少し時間がかかるだろう。待つなら、診察室で座って待った方がいいよ。階段口でうずくまるよりはマシだ。長くしゃがんでると、膝がしびれるからね。」
夢映は一瞬固まり、自分の脚を見下ろした。膝のあたりがじんわりと痺れてきていることに気づく。
「……はい。」
そう言って、夢映は膝に手をついて立ち上がった。立ち上がる瞬間、足が少しよろめき、壁に手をついて体を支えた。壁の冷たさが手のひらに伝わり、その温度差で少しだけ意識が冴えた。
栞も立ち上がり、白衣の裾についた埃をはたいた。
「行こう。」
「栞さん……ご自分の診察室には戻らなくていいんですか?」
「急がない。道は歩くものだし、廊下も通るものだ。ついでに送っていく。」
そう言って、栞は廊下に向かって歩き出した。足取りはゆったりとしており、白衣の裾が歩くたびに軽く揺れ、髪の数本が風に揺れた。
夢映はその後ろ姿を見つめ、小走りに追いかけた。はちみつ水の入ったコップはまだ両手に包まれていて、熱は徐々に失われつつあるが、その温もりはまだ掌に残っている。彼女はコップの中の液体を見下ろし、そして再び前方の栞の背中を見上げた。
「栞さん……」
「うん?」
「……ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
二人は廊下の突き当たりの日差しを抜けて、診察室へと向かった。廊下に二つの足音が響く。一つは落ち着いた音、もう一つは少し軽い音だった。




