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追憶のアーティファクター ~遺されたスケッチブックと、想いを繕う自動人形~  作者: ぽてと


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第9話 『幻影の森と、過去のスクープ』(1/3) 

大都市セントラルを出立し、西へと続く街道を歩く二人の姿は、一ヶ月前とは少しだけ趣を変えていた。


「……やっぱり、このコートは肩が凝るな。前のヨレヨレのやつの方が、俺の貧相な体には馴染んでた気がするぜ」


テオが、真新しい上質なダークブラウンのロングコートの襟を引っ張りながら、不満げにぼやいた。

セントラルを発つ際、エレナが「恩人であり、妹の保護者であるあなたに、そんなみすぼらしい格好をさせておくわけにはいきません」と、半ば強引に最高級の仕立て屋で作らせたものだ。


「テオの以前のコートは、摩耗率が八十パーセントを超え、防寒機能および防水機能を著しく喪失していました。生存確率を高めるという意味で、エレナさんの提供してくれた衣服に着替えるのは極めて合理的な判断です」


テオの数歩後ろを歩くノエルが、淡々とした声で反論する。

彼女自身もまた、エレナから贈られた夜空のように深い群青色の外套を身に纏っていた。その上品な色合いは、彼女の透き通るような白い肌と、月光のような銀色の髪の美しさを、以前にも増して際立たせている。

王都の技師たちによって完璧に修復された右腕と全身の装甲は、一切の駆動音を立てることなく、滑らかに彼女の身体を前へと運んでいた。


「お前はすっかり『深窓の令嬢』みたいに綺麗になりやがって……。これじゃあ、俺が金持ちの家出娘を誘拐してる悪党に見えちまうだろうが」


「誘拐。……刑法第百二十条に抵触する重罪ですね。もし街の警備隊に職務質問された場合、私はテオの無実を論理的に証明する準備があります」


「そういう冗談が通じないところが、本当に機械ポンコツなんだよな!」


テオが呆れたように振り返ると、ノエルは不思議そうに小首を傾げた。

その瞳の奥には、以前のような冷たい無機質さだけではない、確かな『温かさ』が宿っていることを、テオは誰よりもよく知っていた。


セントラルの火事の後、彼女は確かに涙を流した。

それがシステムのエラーなのか、おじいさんの遺した「心」が完全に起動した証なのかは分からない。だが、あの日からノエルは、ただ壊れたものを機械的に直すだけでなく、人間の言葉の裏側にある「感情の揺らぎ」を、以前よりもずっと注意深く観察するようになっていた。


「……で、次はどこに行くんだ? お嬢様」


「はい。スケッチブックの八ページ目です」


ノエルは真新しい革鞄からスケッチブックを取り出し、ページを開いた。

そこに描かれていたのは、太陽の光が一切差し込まないほどに鬱蒼と生い茂った、深い深い『森』の絵だった。木々の間には、不気味な紫色の霧がうっすらと漂っている。


「……『迷わずの森』。大戦中の激戦地であり、現在は魔力汚染による特異な環境が形成されている地域です」


ノエルの言葉を聞いた瞬間、テオの顔から余裕の笑みが消えた。


「おいおい……嘘だろ。そこを通るのか?」


テオは丸眼鏡を押し上げ、嫌な汗を拭った。


「その森はな、別名『幻影の森』って呼ばれてるんだ。大戦中、軍が敵の進軍を阻むために、大規模な幻惑の魔法陣を森全体に敷いた。戦争が終わった後もその魔法陣は暴走し続けてて、森に溜まった瘴気と混ざり合って、とんでもないバグを引き起こしてる」


テオは手帳を取り出し、過去の記事のスクラップが貼られたページを開いた。


「『森に入った者は、自らの過去の幻を見る』。……後悔、絶望、失った大切な人。森の霧が人間の脳に直接干渉して、一番見たくない過去の記憶を現実の幻影として見せつけるんだ。それに囚われた旅人は、二度と森から出てこられないって噂だぞ」


テオの声には、明らかな警戒の色が滲んでいた。


「迂回、しますか?」


ノエルが静かに尋ねる。

「私の現在地解析によれば、この森を迂回して次の街へ向かうルートを通った場合、到着までに約三週間の遅延が発生します」


「三週間……。食料と路銀の消費を考えたら、迂回は現実的じゃねえな」


テオは忌々しそうに舌打ちをした。


「分かった、強行突破するぞ。……いいかノエル、お前は機械だから過去のトラウマなんてもんはないだろうが、俺たち人間にとっては致命的な罠になるかもしれない。絶対に、俺から離れるなよ」


「承知しました。……ですが、テオ。あなたには、幻影として現れるような『重い過去』が存在するのですか?」


ノエルの純粋な問いかけに、テオは一瞬だけ口ごもり、そしてすぐに鼻で笑い飛ばした。


「馬鹿言え。俺はただの三流記者だ。世の中の理不尽なんてとっくに諦めてるし、後悔するほど熱い生き方なんかしてきてねえよ。俺に見える幻影なんて、せいぜい『昨日の夜に食い損ねた肉料理』くらいなもんだ」


テオは軽口を叩きながら、コートのポケットに手を突っ込み、森の入り口へとズンズン歩き出した。

ノエルはその後ろ姿をじっと見つめ、自身の情報回路を静かに回した。

(テオの心拍数が、平常時よりも一五パーセント上昇しています。……彼は、嘘をついています)


街道の果て。

昼間だというのに、その森の入り口だけが、まるで巨大な口を開けたように暗く沈み込んでいた。


足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。

ひんやりとした湿気と、何百年も積み重なった腐葉土の匂い。そして、足元から湧き上がるような、薄紫色の奇妙な『霧』が、二人の足首に絡みついてきた。


(……警告。大気中の魔力濃度、規定値の四〇パーセント超過。幻覚作用を引き起こす特殊な魔力波形を検知)


ノエルの視界の端で、黄色いアラートが明滅する。

彼女は自身の視覚・聴覚センサーのフィルターを調整し、魔力による干渉信号をシステム上で「ミュート」した。これにより、ノエル自身が幻覚を見ることはない。


しかし、生身の人間であるテオの脳は、この魔力から逃れる術を持っていなかった。


「……おい、ノエル。なんだか、急に寒くなってこないか?」


歩き始めて数十分。

テオの声が、微かに震え始めていた。


周囲の紫色の霧は、次第にその濃度を増し、今や数メートル先を歩くノエルの背中すらもぼやけて見え始めていた。

音響効果も異常だった。踏みしめる落ち葉の音はひどく遠く聞こえるのに、自分の心臓の鼓動だけが、耳元でハンマーを叩くように大きく響いている。


「テオ。視界が極端に悪化しています。はぐれる確率を下げるため、これを使ってください」


ノエルは立ち止まり、右手の指先から一本の太い『銀色の魔力糸』を紡ぎ出し、テオへと差し出した。


「命綱、ってやつか。……ありがてえ」


テオは安堵したように、その銀糸の端をしっかりと握りしめた。

ノエルの指先から繋がる、一本の銀色の糸。それだけが、この狂った森の中で、テオを現実に繋ぎ止める唯一のアンカーだった。


「俺の手を、絶対に離すなよ。……俺は、大丈夫だ。こんなガラクタみたいな幻術に、俺の精神がやられるわけが――」


テオが強がりの言葉を紡ごうとした、その時だった。


ガシャンッ、ガシャンッ、ガシャンッ……!!


不意に、静まり返っていた森の奥から、けたたましい機械音が響いてきた。


「……なんだ!? この音……」


テオが足を止め、周囲を見回す。

それは、鳥のさえずりでも、魔物の唸り声でもない。

何十台もの巨大な機械が、油を撒き散らしながら一斉に稼働する音。紙の匂い。インクの匂い。


「……輪転機りんてんきの、音?」


テオの瞳孔が、大きく見開かれた。

新聞を大量に刷り上げるための、印刷工場の音。

なぜ、こんな深い森の中で、そんな音が聞こえるのか。


(……魔力波形の急激な乱れを確認。テオの脳波が、外部魔力と完全に同調し始めました)

ノエルが異常を検知し、振り返る。


「テオ。それは聴覚に対する干渉ハッキングです。耳を塞ぎ、私の声だけにフォーカスしてください!」


しかし、ノエルの声は、今のテオには水の中にいるようにくぐもって聞こえていた。

彼の視界の中で、紫色の霧がグルグルと渦を巻き、森の木々が、見慣れた灰色の『巨大な石造りの建造物』へと姿を変えていく。


王都・中央新聞社。

かつて、テオが所属し、人生のすべてを懸けて真実を追い求めていた場所。


『――だから言っただろう、テオ。お前は、深入りしすぎたんだ』


霧の奥から、低く、しゃがれた男の声が響いた。


「……編集長?」


テオの手から、力が抜け落ちる。

握りしめていたはずのノエルの銀糸が、ハラリと落ち葉の上に滑り落ちた。


「テオ! 糸を離さないでください!」


ノエルが駆け寄ろうとするが、彼女とテオの間に、まるで意思を持った壁のように分厚い紫の霧が立ち込めた。


テオの目の前で、霧が晴れていく。

そこに立っていたのは、くたびれたトレンチコートを着て、中折れ帽を深く被った初老の男だった。彼の手には、赤黒い血に染まった原稿用紙の束が握られている。


『真実なんてものはな、権力者の足元で泥を舐めるためにあるんだ。……お前が書こうとしたあの記事のせいで、俺はすべてを失った』


「違う……! 俺はただ、軍と貴族の癒着を……本当の事を、世間に知らせようと……っ!」


テオの足が、無意識のうちに幻影に向かって一歩、踏み出していた。

彼の顔には、普段のシニカルな笑みも、記者としての強気な態度もなかった。そこにあったのは、過去の強烈なトラウマに囚われ、泣き出しそうな顔をした『一人の無力な青年』の姿だった。


『お前は逃げたんだよ、テオ。俺を見捨てて、自分だけ田舎の三流新聞に逃げ込んだ。……お前の書く言葉には、もう何の価値もない。誰を救うこともできない、ただのペテンだ』


「やめてくれ……! 俺は……!」


テオは両手で頭を抱え、幻影が作り出した過去の悪夢の中へと、フラフラと歩み去っていく。


「テオ!!」


ノエルは銀糸を限界まで伸ばし、霧の壁を切り裂こうとした。

しかし、物理的な攻撃を持たない「幻影の霧」に対して、金属を繋ぎ合わせる彼女の糸は空しく空を切るばかりだった。


テオの姿が、濃密な紫の霧の奥へと、完全に呑み込まれていく。


言葉で他人の心を救ってきた相棒が、今度は彼自身を縛る『言葉の呪い』によって、見えない闇の底へと引き摺り下ろされようとしていた。

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