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追憶のアーティファクター ~遺されたスケッチブックと、想いを繕う自動人形~  作者: ぽてと


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第8話 『形見の届け先』

西の工業都市ギアポートでの激闘から、さらに十日の旅路。

テオの巧みな交渉術と、ノエルの人間離れした脚力(ただし、テオの体力に合わせた出力制限付き)によって、二人はついに大陸の中心に位置する大都市『セントラル』へと足を踏み入れた。


「……こりゃあ、たまげたな。まるで別の国に来たみたいだぜ」


セントラルの巨大な正門をくぐった瞬間、テオは首から下げた写真機を握りしめたまま、ポカンと口を開けて空を見上げた。


そこには、大戦の爪痕など微塵も感じさせない、圧倒的な繁栄の景色が広がっていた。

白亜の石造りの豪奢な建造物が立ち並び、大通りには最新式の蒸気自動車が滑るように走っている。着飾った貴婦人たちが日傘を差して優雅に歩き、街角からは真鍮の楽器が奏でる軽快な音楽と、甘い焼き菓子の匂いが漂ってくる。

これまで二人が歩いてきた、泥と灰にまみれた宿場町や、煤と油にまみれたからくり街とは、空も、空気も、人々の顔色も、何もかもが違っていた。


「テオ。私の視覚センサーが捉えている建築物の様式やインフラの整備状況から推測するに、この都市は大戦による直接的な物理的被害をほぼ受けていないようです」


ノエルは、右腕に取り付けられた真新しい真鍮と鋼の装甲をカチャリと鳴らしながら、淡々と分析を口にした。ギアポートの職人たちが「お前に最高の腕をくれてやる」と徹夜で打ち出してくれたそのパーツは、彼女の純白の肌と不思議なほどよく調和し、今や彼女の新たな誇りの一部となっていた。


「あぁ。ここは王都から少し離れた、富裕層と政府高官たちの疎開先として発展した街だからな。……戦争で泥水すすってた連中がいる一方で、ここでは毎日がパーティーってわけだ。世の中、本当に不公平にできてるよ」


テオは皮肉げに鼻を鳴らすと、手帳を取り出してパラパラとめくった。


「さて、ノエル。お前のおじいさんの『形見』の届け先は、この街のどこだ?」


ノエルは革鞄から、大切にスケッチブックを取り出した。

七ページ目。そこには、赤煉瓦の瀟洒な洋館と、色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園が描かれている。絵の隅には、おじいさんの丸い字でこう書かれていた。


『愛する娘、エレナへ。……いつか、この花壇の前で、もう一度君と笑い合えたら』


「対象者は、おじいさんの実の娘である『エレナ』という女性です。スケッチブックに記載された古い住所によれば、この都市の西区、ヒルズ通り三番地です」


「ヒルズ通りか。完全に一等地の高級住宅街だな。よし、お前はここで目立たないように大人しくしてろ。俺がちょっくら、その住所が今でも有効か、役所の連中から情報を引き出してきてやる」


テオはそう言うと、人混みの中へと小走りで消えていった。


ノエルは街角のガス灯の影に立ち、行き交う人々を静かに観察していた。

親に手を引かれて笑う子供。寄り添って歩く老夫婦。

誰もが、温かい『繋がり』を持っている。おじいさんもかつて、この街で家族と共に、あんな風に笑い合っていたのだろうか。


(……不思議です)


ノエルの魔力炉心の奥が、微かな熱を帯びる。

自分はおじいさんに「ノエル」という名前と「直す」ための手をもらった。おじいさんの最期の時間は、自分がずっと傍にいて看取った。

それでも、おじいさんが本当に愛し、スケッチブックの宛名に書いたのは、自分ではなく『エレナ』という人間の娘なのだ。

そこに嫉妬という感情はない。ただ、自分がおじいさんの「代用品」に過ぎなかったのではないかという、機械には本来あるはずのない寄る辺なさが、ノエルの胸を静かに波立たせていた。


一時間後。

「待たせたな、ノエル!」という声と共に、テオが戻ってきた。


「ビンゴだ。あの役人ども、少しおだててやったらペラペラ喋りやがった。エレナって女性は、今でもそのヒルズ通り三番地に住んでるらしい。旦那は貿易商で、かなり裕福な暮らしをしてるってよ」


「……良かったです。これで、おじいさんのタスクを完了することができます」


ノエルは鞄を抱え直し、テオの案内に従って西区の高級住宅街へと足を踏み入れた。


ヒルズ通りは、セントラルの喧騒から切り離されたように静かで、美しい並木道が続いていた。

やがて、二人の目の前に、スケッチブックに描かれていた通りの『赤煉瓦の洋館』が現れた。

絵に描かれていた庭の木々は、数十年という年月を経て大きく成長し、立派な枝葉を広げていたが、花壇には今も美しい季節の花々が丁寧に手入れされて咲き誇っていた。


「ここだな……。よし、ノエル。深呼吸しろよ。家族の再会ってのは、いつだってドラマチックなもんだからな」


テオが自分のコートの襟を正し、立派な鉄格子の門の横にある呼び鈴を鳴らした。


ジリリリリ、と。

澄んだベルの音が、洋館の奥へと響いていく。


しばらくすると、ガチャリと重い玄関の扉が開き、一人の女性が姿を現した。

年齢は四十代半ばだろうか。上質な絹のドレスを身に纏い、髪をきっちりと結い上げた、知的で品のある女性だった。その顔立ちには、ノエルの記憶ストレージに保存されている『おじいさん』の面影が、確かに色濃く受け継がれていた。


「……どちら様でしょうか。主人は今、商談で留守にしておりますが」


女性――エレナは、鉄格子の門越しに、訝しげな目でテオとノエルを見つめた。


「突然の訪問、申し訳ありません、奥様」


テオが、新聞記者として鍛え上げた『余所行きの笑顔』で一歩前に出た。


「俺は通りすがりのしがない物書きでして。実は今日、こちらの女性の案内役として参りました。彼女が、どうしてもあなたに『お渡ししたいもの』があるとのことで」


「私に……?」


エレナの視線が、テオの後ろに立つノエルへと向けられる。

ノエルはフードを深く被っていたため、その銀色の髪は隠されていた。


ノエルは静かに前へ出ると、革鞄の中から、大切に布で包まれた『それ』を取り出した。

それは、精巧な木彫りのオルゴールだった。

蓋には不器用ながらも可愛らしい小鳥の彫刻が施され、経年劣化で色はくすんでいたが、おじいさんが生前、ノエルの傍らで何度も何度も磨き直していた、最も大切にしていた品だった。


「……初めまして、エレナさん。私は、ノエルと申します。……これは、あなたの父親である方から、私が預かってきた『形見』です」


その言葉を聞いた瞬間。

エレナの表情から、一切の感情が抜け落ちた。


彼女は震える手で門の隙間からその木彫りのオルゴールを受け取ると、蓋の裏に彫られた小さな文字――『私の愛する小鳥、エレナへ』という刻印をじっと見つめた。


「……父は、死んだのですね」


エレナの声は、ひどく冷たく、乾いていた。

そこに悲しみの響きはなかった。ただ、何十年も前に心の奥底にしまい込んだ古い傷跡を、無理やりこじ開けられたような、重い拒絶の響きだけがあった。


「はい。おじいさんは三年前に、老衰で息を引き取りました。最期まで、このオルゴールと、あなたたちの幸せを祈りながら」


「祈りながら……?」


エレナの口元が、皮肉に歪んだ。


「ふふ……あははっ! 祈りながら、ですって?」


エレナの笑い声が、美しい庭園に不気味に響く。

彼女はオルゴールを握りしめたまま、ギリッと強い憎悪を込めてノエルを睨みつけた。


「ふざけないで。あの人は……父は、私たち家族を捨てたのよ!!」


「えっ……」

テオが思わず声を漏らした。


「私がまだ十歳の頃だったわ。父は軍の技術将校として、恐ろしい兵器の開発に関わっていた。……そして、あの忌まわしい『自動人形』の基礎設計を完成させた後、自分の生み出した悪魔の力に怯え、責任から逃れるようにして軍から脱走した。残された私と母が、どれだけ軍の監視下で惨めな思いをしたか、あなたに分かる!?」


エレナの目から、大粒の涙が溢れ出した。しかしそれは、父を悼む涙ではなく、長い年月をかけて発酵した、怒りの涙だった。


「母は心労で倒れ、私は親戚の家をたらい回しにされた! 父は、私たち人間の家族を捨てて……自分が造り出した『人形』たちへの罪滅ぼしのためだけに、辺境の地へ逃げ込んだのよ!!」


ノエルの情報処理回路が、激しいノイズを上げる。

おじいさんが自分に教えてくれた温かい世界。それは、彼が実の家族を犠牲にしてまで逃げ込んだ、孤独な『贖罪の果て』の景色だったというのか。


「……エレナさん。それでも、おじいさんはあなたを愛して――」


ノエルが一歩踏み出し、言葉を紡ごうとした。

しかし、その時、風が吹き、ノエルが深く被っていたフードがふわりと外れた。


太陽の光を浴びて、月光のような銀色の髪が、ハラリとこぼれ落ちる。


「……銀髪……」


エレナの目が、恐怖と、そして底知れない嫌悪に大きく見開かれた。

彼女は軍の施設で、父が造り上げていたあの『悪魔』の姿を、その目に焼き付けていたのだ。


「あなた……自動人形ね。父が最後に開発し、そして共に逃げたという、あの忌まわしい最高傑作」


「……はい」


ノエルは嘘を吐かず、静かに肯定した。


「そう……そういうことだったのね」


エレナは、握りしめていたオルゴールを、まるで汚らわしいゴミでも見るかのように見下ろした。


「父は、娘である私よりも、自分が造った『この機械あなた』の傍にいることを選んだ。……そして、死ぬ間際になって、都合よくこんなガラクタを『形見』だなんて言って、私に寄越したというの!?」


「待ってくれ、奥さん!」

テオが慌てて割って入る。

「ノエルは、あんたのお父さんの最期の願いを叶えるために、はるばるここまで――」


「帰って!!」


エレナの絶叫が、テオの言葉を完全に遮った。


「私の目の前から消えて! この悪魔! 父が残した偽物の娘! ……あなたたちが持ってきたこんなもの、私には何の価値もない!!」


エレナはオルゴールを、鉄格子の門越しに、ノエルの足元へと力任せに投げつけた。


ガシャァンッ!!


鈍い音を立てて、おじいさんが何度も磨き、大切にしていたオルゴールが、無惨にも石畳の上でバラバラに砕け散った。

中から飛び出した小さな歯車と、ゼンマイの破片が、ノエルの足元に虚しく転がる。


「……」


バタンッ!!

エレナはそのまま背を向け、洋館の重い扉を激しく閉ざした。

後には、静まり返ったヒルズ通りと、冷たい石畳の上に散らばった『形見』の残骸だけが残された。


ノエルは、足元に砕け散ったオルゴールを、無表情のまま見下ろしていた。


(……壊れて、しまった)


ノエルの視界に、激しいエラー警告アラートが点滅する。

彼女の指先から、反射的に銀色の『魔力糸』がこぼれ落ちそうになる。

直さなければ。おじいさんの大切なものを、直さなければ。


しかし。

ノエルは、ハッと自分の手を止めた。


(オルゴールの物理的な修復は可能です。……ですが、それを直したところで、エレナさんの『心』は、直るのでしょうか)


ギアポートの職人に言われた言葉が蘇る。

『お前は、あいつらが時計に込めようとしていた時間ごと、スキップしちまったんだよ』


エレナが、この数十年間に抱え続けてきた、父親への絶望と、見捨てられたという孤独な時間。

それは、どんなに強力な魔力糸を使っても、絶対に繋ぎ合わせることのできない、深くて暗い亀裂だった。ノエルという存在そのものが、その亀裂をさらに広げる『呪い』なのだ。


「……テオ」


ノエルは、砕け散ったオルゴールの破片を一つ一つ、ゆっくりと拾い集めながら、震える声で呟いた。


「私の糸は……人間の憎しみを、直すことが、できません」


それは、心を知ったばかりの自動人形が初めて直面した、絶望的な『無力感』だった。


テオは何も言えず、ただ黙って、ノエルがオルゴールの破片をかき集める背中を見つめていることしかできなかった。


セントラルの美しい街並みを見下ろす、高台の公園。

夕暮れが迫る中、ノエルはベンチに座り、膝の上で微かな銀色の光を瞬かせていた。


彼女の指先から紡がれる極細の『魔力糸』が、エレナによって叩きつけられ、粉々に砕け散ったオルゴールの破片を一つ一つ拾い上げ、繋ぎ合わせている。

割れた木片が寸分違わず噛み合い、弾け飛んだゼンマイや極小の歯車が定位置へと戻っていく。物理的な修復作業は、わずか数分で完了した。


ノエルがそっとゼンマイを巻くと、オルゴールからチロロ……と、どこか物悲しい、けれど優しい子守唄のメロディが流れ始めた。


「……直りました。音階に異常はありません」


ノエルは淡々と告げたが、その声にはいつものような『タスク完了』の響きはなかった。

隣に座るテオは、黙ってそのメロディに耳を傾けていた。


「直った、か。……形はな」


テオは重い溜息を吐き、夕日に染まるセントラルの街並みを見下ろした。


「なあ、ノエル。あのエレナって人の気持ち、お前にはどう見えた?」


「私には、強烈な『拒絶』と『憎悪』のデータとして処理されました。……彼女の精神的な損傷は、おじいさんが自分を捨てて、自動人形の開発と逃亡を選んだことに起因しています」


ノエルは、オルゴールの小鳥の彫刻をそっと撫でた。


「つまり、彼女の悲しみの根本原因エラーは、私という存在そのものです。……私がこの形見を直して渡そうとすることは、彼女にとって、傷口を無理やりこじ開けるだけの『攻撃』に過ぎなかった」


ノエルの青い瞳が、沈みゆく夕日を受けて寂しげに揺れた。


「テオ。私は、ここにいるべきではありませんでした。私がおじいさんの傍にいた時間は、エレナさんから奪われた時間だった。……私が直せるものは、何もない」


初めて聞く、ノエルの完全な『自己否定』の言葉だった。

これまでどんなに石を投げられようと、化物と罵られようと、自分が壊れたものを直すことに一片の迷いも抱かなかった彼女が、自分の存在そのものを悲しんでいる。


「……馬鹿野郎」


テオは、ノエルの頭にポンと手を乗せた。

金属の冷たい感触ではなく、人間の女の子と同じ、柔らかな銀髪の感触がした。


「お前が自分を責めるのは筋違いだ。お前はおじいさんに造られただけで、戦争を起こしたわけでも、家族を捨てろと命令したわけでもない。……エレナさんが憎んでいるのは、お前じゃない。『戦争』と、それを止められなかった『父親』だ。ただ、その怒りをぶつける先が、お前という一番分かりやすい形をして現れちまっただけなんだよ」


テオは手帳を取り出し、白紙のページをじっと見つめた。


「人間の心ってのはな、何十年も放っておくと、こじれて、固まって、自分でもどうしようもなくなるんだ。あの人は今、自分の本当の気持ちすら見失ってる。……だけどな、おじいさんがお前を連れて逃げたのは、決して娘を忘れたからじゃないはずだ」


テオは、ギアポートの街で親方に言われた言葉を思い出していた。

『魔法の糸には魂がこもっていない』と。

だとしたら、魂を込めるのは、魔法を使えない自分――人間の『言葉』の役目だ。


「……明日の朝、もう一度あの洋館に行くぞ」


「テオ……? しかし、彼女は私を完全に拒絶しています。これ以上の接触は――」


「お前はそこで待ってろ。俺が一人で話をつける」


テオは手帳を閉じ、力強く宣言した。


「俺は案内役ナビゲーターだぞ。おじいさんの最期の時間を、お前がどんな思いで看取ったか。そして、このオルゴールをどんな思いで届り届けようとしたか。……俺の言葉で、あの頑固な扉をこじ開けてやる。だから、お前はそんな悲しい顔をするな」


ノエルは、テオの顔をじっと見つめた。

相変わらず背は低く、頼りない風貌の青年だが、その瞳には、どんな魔法の糸よりも強靭な『意志』が宿っていた。


「……はい。テオの言葉を、信じます」


ノエルは、オルゴールを再び布で丁寧に包み、革鞄の奥深くへと大切にしまった。


***


その日の夜。

二人はヒルズ通りから少し離れた、商業区の安宿に部屋を取った。

テオは明日のエレナとの対話に向けて、手帳にびっしりと『言葉の弾丸』を書き連ねていた。ノエルは部屋の隅で、静かにスリープモードに入り、日中の精神的な負荷による情報回路の熱を冷却している。


深夜。

静寂に包まれていたセントラルの街に、突如としてけたたましい鐘の音が鳴り響いた。


カンカンカンカンッ!!


『火事だ!! 西区で火の手が上がったぞ!!』

『消防隊を出せ! 風が強い、燃え広がるぞ!!』


窓の外から飛び込んできた怒号と喧騒に、テオは弾かれたように飛び起きた。

同時に、ノエルもスリープモードを強制解除し、青い瞳を鋭く見開いた。


「西区……テオ、エレナさんの邸宅がある方角です」


「なんだと!?」


テオが窓を開けると、夜空が不気味な赤色に染め上げられ、黒い煙が月を隠すように立ち昇っているのが見えた。

嫌な予感が、テオの背筋を駆け抜ける。


「行くぞ、ノエル!」


二人は宿を飛び出し、火の手が上がる西区のヒルズ通りへと全力で駆け出した。


高級住宅街の静寂は、完全に破壊されていた。

火元は、昼間に二人が訪れた、あの赤煉瓦の洋館だった。

一階の厨房付近から出火したと思われる炎は、乾燥した風に煽られ、あっという間に二階へと燃え広がり、美しい洋館を巨大な火柱へと変えようとしていた。


周囲には近隣の住人たちが集まり、駆けつけた都市の消防隊が魔導ポンプを使って必死に放水を行っているが、火の勢いは一向に衰える気配がない。


「おい、住人は無事なのか!?」

テオが群衆を掻き分けて最前線へと出ると、洋館の前の庭園で、泣き崩れるエレナの姿があった。隣で、パジャマ姿の夫が彼女を必死に抱きとめている。


「エレナ、落ち着け! 君も私も、使用人たちも全員無事に逃げ出せたんだ! 命があるだけで十分じゃないか!」


「いやあぁぁっ!! 離して、離してよ!!」


エレナは狂乱したように夫の腕の中で暴れ、燃え盛る洋館の『二階の奥の部屋』に向かって絶叫していた。


「お母様の部屋が……! あそこには、お母様の遺品が全部残っているの! 日記も、写真も、お母様が最期まで大切にしていた手紙も……っ!!」


エレナの叫び声は、炎の音をかき消すほどに悲痛だった。


「あれが燃えてしまったら、私たちが軍の監視下で耐え抜いてきた『過去』が、何もかも無くなってしまう! 私とお母様が、二人だけで生きてきた証が、消えてしまうのよ!!」


彼女にとって、あの部屋に残された品々は、ただの物品ではない。

父親に捨てられた後、母と娘が肩を寄せ合い、地獄のような日々を生き抜いてきた『時間の結晶』そのものだったのだ。それが炎に焼かれ、灰になってしまうことは、彼女の人生の証明を完全に消し去られることと同義だった。


「無理だ、エレナ! もう二階は完全に火の海だ! 消防隊も入れないって言ってるんだぞ!」


夫の悲痛な制止の声。燃え落ちる梁の轟音。

エレナは、炎に飲み込まれていく母の部屋を見つめながら、絶望に力なく膝から崩れ落ちた。


「……いや。いやああぁぁっ……!」


その絶望の光景を、群衆の中から見つめていたノエルの視界に、激しい『警告アラート』が明滅した。

『熱源反応、極大。対象建築物の崩壊確率、九十八パーセント』。

機械の論理は、あれはすでに「終わったもの」だと告げている。


しかし。

ノエルの胸の奥――魔力炉心は、機械の論理を完全に無視して、強烈な熱を放ち始めていた。


(……彼女の、大切な過去が、燃えている)


『私が直せるものは、何もない』

昼間、ノエルはそう言って絶望した。人間の憎しみや、こじれた時間は、魔法の糸では直せないと。


だが、あの炎の中にあるのは、エレナが何十年も抱きしめてきた『思い出の形』だ。

それが失われてしまえば、彼女の心は今度こそ、二度と直せないほどに粉々に砕け散ってしまう。


おじいさんは、自分の心臓に『直すための魔法』を組み込んでくれた。

それはきっと、こういう時に、誰かの大切な時間を守り抜くためにあるのだ。


「テオ」


ノエルは、肩から提げていた革鞄――おじいさんのスケッチブックとオルゴールが入った命よりも大切な鞄を、テオの胸へと押し付けた。


「えっ……? おい、ノエル!?」


「これを、持っていてください」


ノエルは、外套を脱ぎ捨てた。

純白の装甲と、ギアポートで職人たちが取り付けてくれた真新しい右腕が、燃え盛る炎の光を受けて赤く輝く。


「な、何をする気だ! いくらお前でも、あの火の海に入ったら無事じゃ済まないぞ!! 冷却機能が焼き切れる!!」


テオが鞄を抱えたまま、必死にノエルの腕を掴んだ。

しかし、ノエルはその手をそっと外し、どこまでも澄み切った青い瞳でテオを見つめた。


「私はアーティファクターです。……壊れゆくものを、見過ごすことはできません」


ノエルはそれだけを言い残し、群衆の制止の声を振り切って、燃え盛る赤煉瓦の洋館へと、一直線に駆け出した。


「おい、誰かあの娘を止めろ!!」

「馬鹿な、自殺行為だぞ!!」


消防隊員たちが叫ぶが、ノエルの速度に人間が追いつけるはずもなかった。

彼女は崩れ落ちた玄関のドアを蹴り飛ばし、炎と黒煙が渦巻く地獄の中へと、一切の躊躇なく飛び込んでいった。


「……ノエルゥゥゥッ!!」


テオの絶叫が、夜空に空しく響き渡った。

エレナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、炎の中に消えていった銀色の髪の少女の背中を、信じられないものを見るような目で見つめていた。


「どうして……」


昼間、自分があれほど罵倒し、悪魔と呼んで石を投げた自動人形。

その彼女が、なぜ自分の命を懸けてまで、自分たち家族の思い出を守ろうとするのか。


炎の轟音に包まれた洋館の内部。

ノエルの視界は、一面の紅蓮に染まっていた。


『警告。外部温度、限界値を突破。人工皮膚の溶解を開始。冷却液の沸騰率、七〇パーセント』


けたたましいシステムアラートが脳内を埋め尽くす。

呼吸を必要としない彼女に一酸化炭素中毒の危険はないが、この圧倒的な熱量は、彼女の精密な回路を確実に焼き切ろうとしていた。

純白だった肌が黒く焦げ、ギアポートの職人がくれた真新しい右腕の装甲すらも、高熱でドロドロに歪み始めている。


(……対象の部屋は、二階の最奥部)


ノエルは、崩れ落ちてくる燃えた梁を、最小限の魔力糸で弾き飛ばしながら、焼け落ちた階段を強引に駆け上がった。


炎の海と化した二階。

一番奥の部屋のドアはすでに焼け落ち、中には、古い木製のチェストや書棚が、今まさに炎に包まれようとしていた。


「……修復プロテクト、開始」


ノエルの十指から、眩い銀色の光が放たれた。

それは、壊れたものを繋ぎ合わせるための糸ではない。


シュガァァァァン!!


数万本に分裂した極細の魔力糸が、部屋の中のチェスト、書棚、そして床に散らばった写真の束を、まるで強靭な銀色の『繭』のように何重にも包み込んでいく。


炎を遮断し、崩落する瓦礫から対象物を守るための、絶対的な防御結界シールド


『警告。魔力消費量、限界値を突破。魔力炉心がオーバーヒート寸前です』


繭を維持するためには、炎の熱量を上回る魔力を放出し続けなければならない。

ノエルの胸の奥で、赤い魔力炉心が悲鳴を上げる。関節部から冷却水が蒸気となって噴き出し、彼女の身体機能は急速に低下していく。


それでも、ノエルは部屋の入り口に立ち塞がり、炎が『思い出』に触れることを断固として許さなかった。


(……私が、彼女から時間を奪ったのなら)


炎に焼かれ、視覚センサーの片方が熱で溶け落ち、視界が半分暗闇に包まれる。

それでも、残されたもう片方の青い瞳は、背後で銀色の光に守られている『家族の証』を、確かに見つめていた。


(せめて、これだけは。彼女の大切な昨日だけは、私が守り抜きます)


ノエルは、崩れ落ちる天井の炎に向かって、ただひたすらに、銀色の糸を紡ぎ続けた。

彼女の不器用な心が、人間の悲しみを直すための、最初で最後の『贖罪』として。


夜空を焦がしていた紅蓮の炎が、ようやく鎮火へと向かった頃には、東の空が白み始めていた。


セントラル西区の高級住宅街に建っていた赤煉瓦の美しい洋館は、完全に焼け落ち、無惨な黒焦げの骨組みと、燻る灰の山へと姿を変えていた。

消防隊による放水が終わり、周囲に重く湿った焦げ臭さが立ち込める中。


「……ノエルッ!!」


制止する消防隊員を振り切り、テオが煙の上がる洋館の残骸の中へと飛び込んでいった。

彼の腕の中には、ノエルから預かった革鞄がしっかりと抱きしめられている。


「おい、勝手に入るな! まだ瓦礫が崩れてくるぞ!」

「離せ! あの中に、俺の相棒がいるんだ!!」


テオは泥と灰で顔を真っ黒にしながら、焼け落ちた二階部分であったはずの場所――洋館の奥へと、素手で熱い瓦礫を退けながら進んでいく。

その後ろから、夫に支えられながらエレナもフラフラとした足取りでついてきた。


やがて、テオの足がピタリと止まった。


「……嘘、だろ」


黒焦げになった巨大な梁の下。

そこには、周囲の焦土とは完全に切り離された、奇跡のような空間が存在していた。


無数の『銀色の糸』が編み込まれて作られた、巨大なまゆ

その繭は、テオたちが近づくと同時に、役目を終えたようにスゥッと光の粒子となって大気中へと溶けて消えていった。


中から現れたのは、一切の火の粉を浴びていない、無傷の古いチェストと書棚。

そして、床に散らばった一枚の写真すらも、焦げ跡一つなく、完全に炎から守り抜かれていた。


「お母様の……」


エレナが、震える両手で口元を覆い、その場にへたり込んだ。

あんな地獄のような炎の中から、母との大切な思い出の品々が、完全な状態で残されたのだ。それがどれほどの奇跡か、人間の頭では理解が追いつかない。


しかし。

その奇跡と引き換えに、チェストの前に倒れ伏していた『代償』の姿を見て、テオは絶望的な叫び声を上げた。


「ノエル!!」


テオは革鞄を投げ出し、倒れている少女のもとへ駆け寄った。

それは、凄惨な姿だった。

純白だった肌は高熱でドロドロに溶け落ち、内部の金属骨格が黒焦げになって露出している。ギアポートの親方たちが徹夜で打ってくれた右腕の装甲も、完全に原形を留めないほどに歪み、千切れる寸前だった。美しい月光のような銀色の髪は、その大半が焼け焦げ、短く散切りになっている。


『……エ、ラ……ー。システム、ダウン……』


ノエルの口から、途切れ途切れの、ひどく掠れたノイズが漏れた。

片方の視覚センサーは熱で完全に潰れ、残された左の青い瞳も、今にも消え入りそうなほどに光を失っている。


「馬鹿野郎……なんで、ここまで……っ!」


テオは、熱を持ったノエルの身体を抱き起し、ボロボロと大粒の涙をこぼした。

自分の命を懸けてまで、自分を罵倒した人間の過去を守り抜く。そんなプログラムが、自動人形へいきに組み込まれているはずがない。これは、ノエル自身の選んだ『心』の代償だった。


「……どうして」


背後で、エレナが震える声で呟いた。

彼女は、黒焦げになったノエルと、無傷の遺品を交互に見つめながら、混乱の極みにいた。


「どうして、こんなことを……! 私はあなたを悪魔と呼んだのよ! 父の造った呪いだと罵ったのに……どうして、私たちの思い出を命懸けで守ったりしたのよ!!」


エレナの絶叫に近い問いかけに、ノエルは答えることができない。

彼女の音声モジュールは、すでに機能を停止しかけていた。


代わりに。

テオが、ノエルの焦げた身体を床にそっと寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。

彼は革鞄の中から、布に包まれた『オルゴール』を取り出し、エレナの目の前へと歩み寄った。


「……あんたが、ノエルを憎む気持ちは分かる」


テオの声は、震えていた。だが、その言葉には、新聞記者としての、いや、一人の人間としての、重く確かな『魂』が込められていた。


「あんたの父親は、大戦で最悪の兵器を生み出した。その罪のせいで、あんたとお母さんが、どれだけ世間から冷たい目で見られ、地獄を見たか……俺には想像もつかない」


テオは、煤にまみれた顔で、エレナを真っ直ぐに見据えた。


「だけどな。あんたの父親が、あんたたちを捨てて『人形』を選んだってのだけは、絶対に違う。間違ってる」


「……何が違うって言うの! 父は、私たちを置いて逃げたじゃない!!」


「逃げたんじゃない! ……罪を、一人で背負って消えたんだよ!」


テオの怒声が、静かな廃墟に響き渡った。


「軍の開発施設に残ってれば、あんたの父親は英雄として守られて、あんたたちも裕福な暮らしができたはずだ。でも、あの人はそれをしなかった。自分が造り出した自動人形の恐ろしさに気づき……その設計図と、心臓部コアを持って、軍から出奔したんだ。兵器がこれ以上量産されないように!」


テオの言葉に、エレナが息を呑む。


「もし、あの人があんたたちを連れて逃げたら、あんたたちまで『国家反逆罪』の逃亡犯として、一生軍に追われることになった。だから……あの人は、すべての罪を自分一人で被って、あんたたちに『見捨てられた被害者』という立場を残したんだ。あんたたちを、守るために」


テオの言葉は、おじいさんの過去の真実をすべて知っているわけではない、彼の推測に過ぎない。

しかし、これまでの旅でノエルから聞いたおじいさんの姿――辺境の廃棄場で、ただ壊れた時計や機械を直し続け、誰にも見つからないようにひっそりと生きていたあの老人の姿から、テオが紡ぎ出した『真実の言葉』だった。


「あの人は……辺境のガラクタ山で、毎日毎日、このオルゴールを磨きながら泣いていたそうだ」


テオは、オルゴールをエレナの手に、無理やり握らせた。


「あの人は、最後の最後に造り上げたこのノエルに、『人を殺す機能』なんて一つも与えなかった! ただ、壊れたものを直すための『手』と、優しい『心』だけを与えたんだよ! 自分が壊してしまった世界への贖罪と……いつか、あんたの傷ついた心を、直してほしいという祈りを込めてな!!」


テオの言葉が、弾丸のようにエレナの心に撃ち込まれる。

エレナは、手の中にあるオルゴールを見つめた。

昨日、自分が石畳に叩きつけて、粉々に砕け散ったはずのそれ。


しかし、ノエルの魔法の糸によって完全に修復されたそのオルゴールには、一切の傷跡が見当たらなかった。

ただ、木彫りの小鳥の彫刻だけが、昔と同じように、優しくそこにあった。


「……お父、様……?」


エレナの手が震え、無意識のうちに、オルゴールのゼンマイを巻いていた。


チロロ……チロロ……。


焦げ臭い廃墟の中に、澄み切った、あの優しい子守唄のメロディが響き渡った。

それは、エレナがまだ十歳の頃。父が夜な夜なベッドの傍で鳴らしてくれた、何よりも温かく、愛に満ちた時間の記憶。


『愛する娘、エレナへ。……いつか、この花壇の前で、もう一度君と笑い合えたら』


スケッチブックに書かれていた、不器用な父親の本当の願い。

その愛の重さが、何十年という時間を超えて、エレナの心の奥底に分厚く張っていた憎悪の氷を、一瞬にして溶かしていった。


「あぁ……あああっ……!!」


エレナはオルゴールを胸に強く抱きしめ、その場に泣き崩れた。

それは、昨日見せたような怒りの涙ではない。

父の本当の愛に気づき、そして、もう二度と会えない父を心から悼む、本物の『喪失の涙』だった。


「お父様……! お父様ぁっ……!!」


子供のように声を上げて泣きじゃくるエレナの頭を、夫が優しく抱きしめる。

テオは、その光景を静かに見届けながら、大きく息を吐き出し、丸眼鏡を外して目元を拭った。


(……俺の仕事は、ここまでだ。おじいさん)


テオが、ノエルの傍らにしゃがみ込んだ、その時。


『……エ、レ、ナ……さん』


掠れた、今にも消え入りそうな電子音声が響いた。

テオがハッとして見ると、黒焦げになったノエルの、残された左の青い瞳が、微かに光を取り戻していた。限界を超えた状態での、予備電源による奇跡的な再起動だった。


「ノエル! 喋るな、システムが完全に焼き切れるぞ!」


しかし、ノエルはテオの制止を聞かず、泣き崩れるエレナの方へと、ボロボロになった左手をゆっくりと伸ばした。


『直り、ましたか』


その言葉に、エレナがハッと顔を上げる。


『あなたの……こじれてしまった、時間は。……おじいさんの、想いは……あなたに、届きました、か?』


ノエルの声は、感情を持たないシステム音声のはずなのに。

その響きには、自分を犠牲にしてまで相手の幸せを願う、どこまでも深く、純粋な『愛』が宿っていた。


エレナは、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ノエルの元へと這い寄り、その伸ばされた黒焦げの左手を、両手でしっかりと握りしめた。


「……届いたわ。届いた……!!」


エレナは、ノエルの手に自分の額を押し当て、むせび泣いた。


「ごめんなさい……! あなたを悪魔だなんて言って……父の形見を壊して……! あなたは、私のお父様が遺してくれた、最後の、大切な家族なのに……っ!!」


人間の家族に、強く、温かく握りしめられた手。


ノエルの魔力炉心が、トクン、と。

これまでに経験したことのない、不思議な脈動を打った。


(……ああ。これが、『心がこもる』ということですか)


ギアポートの職人に言われた時、ノエルには理解できなかった。魔法の糸で物理的に直すことと、何が違うのかと。

しかし今、テオの言葉と、オルゴールの音色によって、エレナの心は確かに修復された。そして、修復されたエレナの心が、ノエルの手を握りしめ、強烈な『温かさ』をフィードバックしている。


機械の回路にはない、人と人との想いが繋がった時にだけ発生する、目に見えないエネルギー。


『……よか、った』


ノエルは、焼け焦げた頬のまま、静かに微笑んだ。


その時だった。

ノエルの残された青い瞳の端から、一滴の『水滴』が、ツーッと頬を伝って流れ落ちたのだ。


「えっ……」

テオが、驚きに目を見張る。


「ノエル、お前……泣いてるのか?」


『……?』


ノエルは、自分の頬を伝うその水滴の正体が理解できず、不思議そうに瞬きをした。


『エラー、です。……私の機体には、涙腺機能は搭載されていません。これは、恐らく、冷却水用のパイプが破損し、頭部から漏れ出している物理的なバグかと――』


ポロ、ポロポロ。


ノエルの言葉を裏切るように、その青い瞳から、次々と透明な雫が溢れ出し、黒焦げの頬を洗い流していく。

それは、おじいさんの想いを無事に届けられた安堵と。エレナの心が直ったことへの喜びと。そして、初めて人間に「家族」として受け入れられたという、温かい感情の奔流だった。


「……馬鹿野郎」


テオが、泣き笑いのような顔で、ノエルの頭を優しく撫でた。


「それはバグなんかじゃない。……お前が、おじいさんからもらった『心』が、ちゃんと動いてるって証拠だよ」


『心、が……』


ノエルは、エレナに手を握られたまま、静かに目を閉じた。

彼女の視界を覆っていた真っ赤なエラー警告はいつの間にか消え去り、代わりに、ぽかぽかとした心地よい温かさが、彼女の全身を包み込んでいた。


「ありがとう……ありがとう、ノエル」


エレナの感謝の言葉と、遠くで朝を告げる教会の鐘の音を聞きながら。

ノエルは、静かで、穏やかなスリープモードへと落ちていった。


***


それから、一ヶ月後。

セントラルの街に、新しい季節の風が吹き始めていた。


ヒルズ通りの焼け跡には、すでに新しい家を建てるための足場が組まれ、大工たちの威勢のいい声が響いている。


その傍らの道を、二つの影が歩いていた。

テオと、そして――。


「……右脚の駆動系、同調率九十八パーセント。歩行に支障はありません。エレナさんの手配してくれた王都の技師たちの技術力は、極めて高水準です」


新しい、純白の人工皮膚と、以前よりもさらに洗練された銀色の装甲を纏ったノエルだった。

エレナは、莫大な私財を投じて王都から最高峰の自動人形専門の技師たちを呼び寄せ、一ヶ月がかりでノエルの身体を完璧に修復させたのだ。「妹の治療代だと思えば安いものよ」と、彼女は笑って言ったという。


「あぁ。見違えるように綺麗になったな、お前」


テオが、新調した(しかしやっぱり少しヨレた)コートのポケットに手を突っ込みながら、嬉しそうに笑った。


「これでお前のおじいさんの『形見を届ける』っていう最初の目標はクリアだ。……次はどうする?」


テオの問いかけに、ノエルは革鞄からスケッチブックを取り出した。


「おじいさんのスケッチブックには、まだたくさんの景色が描かれています。私は、それらすべてを私の目で記録し、この余白に、私自身の景色を描かなければなりません」


ノエルの青い瞳は、一ヶ月前よりもずっと人間らしく、生き生きとした光を宿していた。


「それに……世界には、まだ壊れているものがたくさんありますから」


「言うねえ、不器用なアーティファクター様。……よし、じゃあ次の目的地を教えろ。俺のペテンと、お前のその魔法の糸があれば、どんなバケモノが出ても怖くねえからな!」


テオが胸を張って歩き出すと、ノエルは「はい、相棒テオ」と静かに頷き、その背中を追った。


振り返ると、新しい家の建築現場の前で、エレナが二人に向かって大きく手を振っていた。

ノエルも、足を止め、その美しい銀色の髪を風になびかせながら、力強く振り返した。


心を持たなかった兵器の少女が、初めて人間の心に触れ、自分の意志で涙を流した。

それは、彼女が本当の意味で「ノエル」という一人の存在として生まれ変わった瞬間だった。


世界はまだ残酷で、果てしなく広い。

過去の因縁も、自動人形を狙う者たちも、この先二人の前に立ち塞がるだろう。

それでも。

言葉で世界を紡ぐ青年と、糸で世界を繕う少女の旅は、ここからまた、新たなページへと向かって力強く歩み始めるのだ。

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