第10話 『幻影の森と、過去のスクープ』(2/3)
紫色の霧に呑み込まれたテオの意識は、深く、冷たい記憶の底へと真っ逆さまに墜落していった。
気がつけば、彼は灰色の雨が降る王都の裏路地に立っていた。
鼻をつくのは、腐葉土の匂いではない。濡れた石畳の匂いと、安物のインク、そして……むせ返るような血の匂い。
『なぜ、あんな記事を書いた……!』
路地の奥、ひしゃげた輪転機が転がる新聞社の裏口で、男が血まみれになって倒れていた。
中折れ帽を被り、いつも煙草臭かった、テオの恩師である編集長。
「違う……! 俺はただ、軍の上層部が兵器開発の予算を横領して、貴族と癒着してる証拠を見つけたから……! これを世の中に公表すれば、腐った国が変わるって、あんたも言ってくれたじゃないか!」
テオは、土砂降りの雨の中で必死に弁明していた。
数年前。若く、野心に燃え、真実の力というものを無邪気に信じていた頃の自分。
彼は世紀の大スクープの証拠を掴み、意気揚々と編集長に提出した。しかし、軍の諜報網はそれを事前に察知していた。
新聞社は「国家反逆」の濡れ衣を着せられて軍に急襲され、輪転機は叩き壊され、全責任を負った編集長は治安維持部隊に連行され、二度と帰ってこなかった。
『お前は変わると思ったのか? 言葉で、ペンで、この巨大な権力がひっくり返ると、本気で信じていたのか?』
血まみれの編集長が、泥だらけの顔を上げ、空虚な目でテオを睨みつける。
『お前は甘かった。そして、誰よりも弱かった。俺が軍に連行される時……お前は路地の影に隠れて、震えながらそれを見ていただけだったじゃないか』
「やめてくれ……」
テオは両手で顔を覆い、濡れた石畳に膝をついた。
そうだ。俺は、逃げたのだ。
恩師がすべてを背負って地獄へ落ちていくのを、保身のために見捨てた。スクープの原稿を燃やし、名前を変え、王都から逃げ出して、地方の三流新聞社に転がり込んだ。
『社会に諦めがある』なんて、かっこつけたシニカルな態度。それはただの自己防衛だ。
自分自身の弱さと向き合うのが怖くて、社会のせいにして斜に構えていただけの、臆病者の仮面。
『お前の言葉は、空っぽだ。誰の心も動かせないし、誰も救えない。ただの臆病者のペテンだ』
幻影の編集長が、泥の中を這いずりながらテオの足首を掴んだ。
その手は氷のように冷たく、テオの体温と生きる気力を急速に奪っていく。
『さあ、一緒に来い、テオ。お前がお似合いの、光の当たらない泥の底へ……』
「あぁ……」
テオの視界が、急速に暗転していく。
森の瘴気が彼の脳の防衛本能を完全に破壊し、このまま幻影の中に精神を永遠に閉じ込めようとしていた。俺なんかが、ノエルの隣を歩いて、歴史に残る本を書くなんて、最初から身の程知らずだったんだ。
テオが完全に抵抗を諦め、目を閉じようとした、その瞬間。
――シュガァァンッ!!
灰色の雨空を、そして紫色の濃密な霧を真っ二つに切り裂くようにして、一本の『銀色の光』が飛び込んできた。
『……な、なんだ!?』
幻影の編集長が、眩い光に顔を覆う。
テオの足首に絡みついていた氷のような手が、パキンと音を立てて弾け飛んだ。
「テオ!!」
透き通るような、けれど確かな焦燥を帯びた声。
顔を上げたテオの目に映ったのは、雨と泥にまみれた幻影の世界には絶対に存在し得ない、どこまでも純白で、美しい少女の姿だった。
夜空色の外套を翻し、真新しい右腕の装甲から銀色の『魔力糸』を煌めかせながら、ノエルが霧の壁を強引に突破してきたのだ。
「ノエ……ル……? どうして、お前がここに……」
「テオが落とした銀糸の端から、あなたの生体磁場の残滓を逆探知しました。……ひどいエラー状態です。心拍数一五〇、体温は三四度まで低下しています」
ノエルはテオの傍らに膝をつき、その冷え切った両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
機械のはずの彼女の手から、魔力炉心の熱を利用した、ひどく温かい熱量がテオの手に流れ込んでくる。
『……なんだ、貴様は。自動人形だと?』
幻影の編集長が、忌々しそうに立ち上がり、ノエルを指差した。
『笑わせるな。俺の人生を狂わせた軍の連中が造り出した、殺戮兵器の最高傑作が……どの面下げて、この男を救おうとしている! こいつの言葉はお前たちみたいなバケモノを美化するだけの、ただの嘘八百だ!』
森の瘴気が作り出した幻影は、テオの深層心理にある罪悪感を増幅させ、ノエルに向かって容赦ない言葉の刃を突きつける。
しかし、ノエルは幻影に一瞥もくれず、ただテオの目だけを真っ直ぐに見つめていた。
「テオ」
ノエルの声は、どんな魔法の霧よりも鮮明に、テオの鼓膜を、そして心を震わせた。
「あの男が言っていることは、事実ですか」
「……あぁ、そうさ」
テオは、力なく笑った。
その目からは、ポロポロと絶望の涙がこぼれ落ちていた。
「俺は、恩師を見捨てて逃げた臆病者だ。……立派な真実なんて、何も書けなかった。俺の言葉には何の価値もない。お前のことを立派な本にするなんて……ただのペテンだったんだよ。俺は……」
「テオ」
ノエルは、テオの手を握る力を、さらに強くした。
「論理の飛躍が大きすぎます。……過去に逃げたという事実と、あなたの現在の言葉に価値がないということは、イコールではありません」
『……は?』
テオが、涙に濡れた目を瞬かせる。
「私は機械ですから、人間の複雑な過去の事情や、社会の構造については計算できません」
ノエルは、かつてないほどに強い光を青い瞳に宿し、断言した。
「ですが、私は知っています。……ポルタの街で、絶望して泥水をすすっていた行商人の心を直したのは、あなたのペテンのような言葉でした。そして……セントラルの洋館で、エレナさんの何十年もこじれていた憎しみを解きほぐしたのも、あなたの言葉でした」
ノエルの胸の奥で、魔力炉心が温かく脈打つ。
エレナの手を握った時に知った、あの温かさ。テオが言葉で繋いでくれたからこそ、自分はあの時、初めて涙を流すことができたのだ。
「あなたの言葉には、間違いなく、他人の壊れた心を修復する力があります。過去に誰かを救えなかったとしても……あなたは今、確かに私を、そして出会った人々を救っています」
『戯言を!! ペテン師の言葉が、世界を直せるわけがないだろう!!』
幻影の編集長が激昂し、泥の塊を無数に浮かび上がらせて、ノエルとテオに向かって放った。
しかし、ノエルは振り返りもせず、空中に展開した銀色の糸のシールドで、それらをすべて完璧に弾き返した。
「……私の相棒を、ペテン師と呼ぶことは許可しません」
ノエルの声が、絶対零度の冷たさを帯びて幻影を射抜く。
そして再びテオに向き直ると、今度は春の陽だまりのように柔らかく、不器用な微笑みを浮かべた。
「テオ。あなたは言いましたね。私の物理的な糸と、あなたの言葉の魔法。二つ合わされば、この腐った世界でも、結構な数のガラクタを直していけるかもしれない、と」
「ノエル……」
「私は、その契約(言葉)を信じています。……だから、こんな過去のエラーに囚われて、私を置いていかないでください」
その言葉は、テオの心の中に分厚く張っていた『過去の呪縛』の氷を、一瞬にして叩き割った。
軍に怯え、恩師を見捨てた過去の罪は消えない。
だが、その罪から逃げ続けた臆病な自分が、今、目の前で必死に手を握ってくれているこの不器用な少女の『明日』を、言葉で紡ぎ出してやることはできるのだ。
テオは、震える手でノエルの手を握り返した。
「……あぁ、そうだったな」
テオはゆっくりと立ち上がった。
彼を絡め取ろうとしていた幻影の泥は、ノエルの放つ銀色の光に浄化され、もう彼の足元には届かない。
テオは、丸眼鏡を指で押し上げ、幻影の編集長を真っ直ぐに見据えた。
「編集長……あんたを見捨てたことは、一生背負っていくよ。俺はやっぱり臆病者だ。……でもな、俺はもう、逃げない」
テオの目に、かつて王都で真実を追い求めていた頃の、いや、それ以上に強靭な『記者』としての光が宿る。
「権力をひっくり返すような大層な記事は書けないかもしれない。だけど……この世界で一番不器用で、一番優しい『悪魔』の本当の姿を、世界中に知らしめることくらいはやってみせる。……俺の、このペテンみたいな言葉でな!」
テオが吼えた瞬間。
幻影の編集長の顔が、ふっと驚きに歪み……やがて、憑き物が落ちたように、わずかに口角を上げたように見えた。
『……いい顔になったじゃないか、テオ』
その言葉を最後に、幻影の編集長の姿は、灰色の雨空ごと、ガラスが砕けるような音を立ててパリンと割れ、四散した。
周囲の景色が、急速に現実の『鬱蒼とした森』へと引き戻されていく。
視界を覆っていた紫色の霧が、テオの意志の力と、ノエルの放つ魔力の浄化によって、サーッと薄れていくのが分かった。
「……戻った、のか」
テオは、深い森の木漏れ日を見上げながら、大きく息を吐き出した。
膝の震えは止まり、心臓の鼓動も正常なリズムを取り戻している。
「はい。対象の幻惑魔力波形、完全に消失しました」
ノエルが、スッと立ち上がり、安堵したように青い瞳を細めた。
しかし、二人が危機を乗り越え、互いの絆の強さを確かめ合ったその時。
森の奥深くから、幻影ではない、圧倒的な『現実の殺気』が、二人を包み込んだ。
「……幻影の森の罠を力技で突破するとはな。流石は、我が軍が誇る最高傑作だ」
ズン、と。
落ち葉を踏みしめる重い足音が響く。
霧の奥から現れたのは、黒い軍服を身に纏い、旧式の魔導銃を構えた十数人の男たちだった。その先頭に立つ、顔に大きな傷を持つ片目の男が、獲物を見つけた狩人のような凄惨な笑みを浮かべていた。
「迎えに来たぞ、『銀髪の悪魔』。……お前にはもう一度、我々のもとで、正しき殺戮兵器として働いてもらう」




