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追憶のアーティファクター ~遺されたスケッチブックと、想いを繕う自動人形~  作者: ぽてと


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第5話 『星降る湖畔と、終わらない戦争』

『沈黙の並木道』と名付けられた街道を抜け、テオという騒がしくも頼もしい案内役ナビゲーターを得てから、さらに三日の月日が流れた。


人間の歩行速度に合わせるため、ノエルは自身の駆動系の出力を大幅に下げていた。

テオは文句を言いながらも、約束通り見事にその役割を果たしていた。道中すれ違う旅人や行商人から怪しまれないよう、彼はノエルを「病気で声が出ない、俺の妹」という強引な設定で誤魔化し、巧みな話術で物資を調達し、安全な野営地を見つけ出した。

彼が焚き火の前に座り、分厚い手帳に何事かを熱心に書き込んでいる間、ノエルはその横で静かに自己修復のプロセスを回しながら、夜空の星の運行を記録し続ける。

それは、おじいさんの工房で過ごした静寂とは違う、どこか人間臭く、騒々しくも温かい、新しい旅の日常だった。


「……そろそろ見えてくるはずだぞ、ノエル」


なだらかな丘を登りきったところで、息を切らしたテオが、額の汗を拭いながら前方を指差した。


「地図によれば、この丘を越えた先が盆地になっていて、そこに大きな湖があるはずだ。お前の持ってるその分厚いお絵かき帳の、最初の目的地ってやつだな」


「はい。おじいさんのスケッチブックの五ページ目。『星降る湖畔』です」


ノエルは立ち止まり、革鞄の中から大切にスケッチブックを取り出した。

開かれたページには、おじいさんが若い頃に木炭と水彩で描いた、息を呑むような美しい風景が広がっていた。


深い緑の針葉樹林に囲まれた、鏡のように澄み切った巨大な湖。

夜空には数え切れないほどの星々が瞬き、それが波一つない湖面に完全に反射して、まるで天地が星空で繋がっているかのような幻想的な空間を作り出している。絵の隅には、丸みを帯びたおじいさんの字で『星降る湖畔。いつか、愛するお前たちに見せたい景色』と添えられていた。


「星が降るように美しい、湖。……私の視覚センサーが、この風景の色彩をどのように受容するのか、とても興味深いです」


ノエルの透き通るような声には、機械には本来存在しないはずの「期待」という微かな感情の揺らぎが混じっていた。


彼女はスケッチブックを胸に抱き、丘の頂上へと足を踏み出す。

眼下に広がるはずの、美しき絶景を思い描きながら。


しかし。


丘の頂上から見下ろしたその景色は、ノエルの内部ストレージにインプットされていた「美しい湖畔」のデータとは、あまりにもかけ離れていた。


「……なんだ、こりゃあ」


隣に立ったテオが、絶句して丸眼鏡をずり落とした。


そこにあったのは、星空を映す鏡のような湖ではなかった。

大地は広範囲にわたって無惨にえぐれ、まるで巨大な獣に食いちぎられたかのような醜いクレーターが無数に口を開けていた。かつて湖を取り囲んでいたであろう豊かな針葉樹林は、根本から炭化して真っ黒な墓標のように立ち枯れ、命の気配を完全に失っている。

肝心の湖の水は干上がり、クレーターの底に赤茶けた泥水としてわずかに残っているのみ。


その泥と灰色の荒野のあちこちに、赤錆にまみれた巨大な鉄屑が、無数に突き刺さっていた。

ひしゃげた装甲車、砲身の折れた戦車、そして人間たちの白骨。


それは、美しい自然の風景などではない。

戦争という狂気がすべてを焼き尽くし、そのまま時間が停止してしまった『死の世界』だった。


「テオ。……私の位置情報システムに、エラーが発生しているのでしょうか。ここは、スケッチブックの景色と一致しません」


ノエルは、スケッチブックの絵と、眼下に広がる荒野を交互に見比べながら、淡々と尋ねた。

彼女の青い瞳は揺らいでいなかったが、音声モジュールの出力が、普段よりもコンマ数秒だけ遅延していた。


テオは沈痛な面持ちで、手帳のページをパラパラとめくり、重い溜息を吐いた。


「……いや。お前の現在地は合ってる。ここが『星降る湖畔』だった場所だ。……くそっ、俺も地方の記者のはしくれだ。もっと早く気づくべきだった」


テオは忌々しそうに、足元の小石を蹴り飛ばした。


「三年前。西部戦線において、軍が最も熾烈な総力戦を行った激戦区。……『星降る湖畔の泥仕合』だ。両軍が数ヶ月にわたって、数万発もの魔導砲弾を撃ち合った。夜空を埋め尽くすほどの砲弾の光が、雨のように降り注いだことから、生き残った兵士たちが皮肉を込めてそう呼んだんだよ」


テオの言葉が、ノエルの演算回路に冷たい事実として処理されていく。

おじいさんが若き日に見た美しい星空は、人間の争いによって放たれた、無数の魔導砲弾の光(星)によって上書きされ、物理的に消滅してしまったのだ。


「お前のおじいさんが見たのは、何十年も前の景色だったんだろう。……悪いな、ノエル。人間ってのは、自分たちが生きるために、美しいものをあっさりとぶっ壊しちまう生き物なんだ」


テオは自嘲するように笑い、ノエルの顔を覗き込んだ。


「……ショック、か?」


「ショック、という感情の定義は『予期せぬ出来事による精神的な衝撃』です。私は自動人形ですから、精神という概念は存在しません。現状の地形データを、過去の記録からアップデートするだけです」


ノエルは静かにそう答えると、スケッチブックを鞄にしまい、丘の斜面をゆっくりと下り始めた。


「おい、どこ行くんだよ! そこはもう、ただの鉄屑の墓場だぞ!」


「地形データが改ざんされていても、ここがおじいさんの愛した『場所』であることに変わりはありません。私は、この景色を私の視覚センサーで記録し、スケッチブックに書き留めるというタスクを実行します」


ノエルは灰色の灰が舞う荒野へと足を踏み入れた。

足裏の装甲が、乾いた泥と砕けた薬莢を踏みしめ、ザク、ザクという無機質な音を立てる。

テオは慌ててその後を追いかけながら、首から下げた写真機を構え、一面の荒野をフィルムに収めていった。


(……魔力残滓、多数。未だに高濃度の魔力汚染が残留しています)


クレーターの底を歩きながら、ノエルは周囲の環境を絶えずスキャンし続けていた。

泥水の中に半分沈んだ兵士のヘルメット。完全に錆びつき、蔦が絡まった魔導銃。すべてが静かに朽ちていく過程にある。

おじいさんは、この景色を見たら、またあの時のように泣いてしまうのだろうか。

そんな非論理的な仮説が、ノエルの回路の隅をよぎる。


その時だった。


『――ピピッ。微弱な魔力波形を検知。識別信号……友軍機』


ノエルの視界の端に、赤い警告表示が明滅した。

同時に、ノエルの胸の奥にある魔力炉心が、共鳴するように微かに熱を帯びる。


「……テオ。止まってください」


ノエルは立ち止まり、テオを右腕で制止した。

その声のトーンが、これまでの平坦なものから、明確な「警戒」の色を帯びていたことにテオもすぐに気づき、息を呑んで立ち止まる。


「どうした、ノエル。野盗か?」


「いえ。……人間の生体反応ではありません。これは……」


ノエルの青い瞳が、前方の分厚い灰の霧の向こう側を鋭く捉えた。

風が吹き抜け、霧が晴れる。


そこには、巨大な戦車の残骸に寄りかかるようにして座り込む、一つの『人影』があった。

泥と灰にまみれ、ボロボロに引き裂かれた軍服の残骸を纏ったその影は、ノエルと同じように、月明かりを紡いだような銀糸の髪を持っていた。


「……嘘だろ。お前と、同じ……自動人形……?」


テオが、震える声で呟く。


その個体は、凄惨な状態だった。

左腕は肩の根元から完全に欠損し、剥き出しになった配線から黒いオイルが血のように滴り落ちている。両足の装甲はひしゃげ、自力で立ち上がることすら不可能に見えた。頭部の半分はひび割れ、右の視覚センサーは完全に潰れている。


しかし、残された左の赤い瞳だけが、異常なほどの光を放ちながら、ギョロリとノエルとテオの方を向いた。


『ガ……ガガ……ッ。敵影、確認。敵影、確認』


その個体の壊れた音声モジュールから、ノイズまみれの無機質なシステム音声が漏れ出す。


『作戦行動第ニ十三号。当セクターを防衛セヨ。……防衛、防衛……敵軍ヲ、殲滅セヨ……!』


「おい、待てよ! 戦争はもう三年も前に終わってるんだぞ!」


テオが叫ぶが、その声が届いている様子はない。

ボロボロの自動人形は、残された右腕をゆっくりと持ち上げた。その指先から、バチバチと赤黒い魔力のスパークが走り、空中に無数の『赤い糸』が展開されていく。


ノエルの『銀色の糸』と同じ、魔力糸。

しかし、それは相手を直すための優しい糸ではない。殺意と破壊衝動だけを純粋に練り上げた、大戦中の本来の使われ方――命を刈り取るための、凶悪な武器としての糸だった。


「……同型機シスターモデル。大戦中に量産された、私の姉妹機です」


ノエルは、テオを背中に庇うように一歩前に出た。


「彼女の内部時計は、三年前のあの日から進んでいません。……いいえ、進むことができないのです。命令を解除するマスター(人間)が、すでにこの世に存在しないから」


『敵対対象、ロック。……排除シマス!』


狂気を宿した赤い魔力糸が、空気を切り裂くような鋭い風切り音と共に、ノエルたちへ向かって猛烈な勢いで襲いかかってきた。


シュガァァァン!!


空気を切り裂き、必殺の速度で迫る赤い魔力糸の群れを、ノエルの指先から放たれた銀色の糸が間一髪で弾き飛ばした。

赤と銀。相反する二つの魔力の軌跡が、灰色の荒野の中空で激しく衝突し、強烈な閃光と火花を撒き散らす。


「ひぃっ……!」


弾かれた赤い糸の一本が、テオの頬のわずか数ミリ横を掠め、背後にあった戦車の装甲をバターのように深々と切り裂いた。

テオは写真機を抱えたまま、無様に泥の中を転がり、身を隠せそうなクレーターの窪みへと転がり込んだ。


「テオ。頭を上げないでください。彼女の魔力糸の出力は、大戦時の標準規格を上回っています。掠っただけでも、人間の肉体は容易に切断されます」


ノエルはテオを一瞥もせず、前方の狂乱する姉妹機シスターモデルから視覚センサーを外すことなく告げた。


『ガ……敵対対象ノ抵抗ヲ確認。……排除、排除、排除……!』


残された片腕を振り上げ、姉妹機はさらなる赤い糸を紡ぎ出す。

その動きは、かつて戦場で最適化された無駄のない殺戮のモーションだったが、現在の彼女の肉体はそれに耐えうる状態ではなかった。


ギギ、バキィッ!


糸を放つたびに、姉妹機自身の肩の関節が不気味な音を立てて砕け、剥き出しの配線から黒いオイルが吹き出す。本来ならば機体を冷却するための機能も完全に死んでいるのだろう。彼女の胸の奥にある魔力炉心は異常な高温を発し、装甲の隙間から赤い蒸気が絶え間なく噴き出していた。


(……機体損傷率、八五パーセント。魔力炉心の暴走状態)


ノエルの演算回路が、瞬時に相手の状態を解析する。


(彼女は、自分の身体が壊れることすら認識できていない。ただ、最後に下された『防衛せよ』という命令コマンドだけを、無限にループして実行し続けている)


ノエルの胸の奥が、ギリリと痛んだ。

それは、自動人形が本来感じるはずのない「悲しみ」というエラーだった。


もし、あの大嵐の夜、おじいさんが自分を見つけてくれなかったら。

もし、自分が「ノエル」という名前をもらわず、直すことの温かさを知らなかったら。

目の前で泥にまみれ、自らを壊しながら戦い続けるこの姉妹機の姿は、ノエル自身の「もう一つの未来」の姿に他ならなかった。


「……ッ!」


ノエルは、弾き飛ばされていく銀糸の隙間を縫うようにして、地を蹴った。

向かってくる赤い糸を、銀の糸で絡め取り、軌道を逸らしながら、真っ直ぐに姉妹機への距離を詰めていく。


「おいノエル! 何やってるんだ、前に出たら蜂の巣にされるぞ!!」


クレーターの底からテオが絶叫する。

彼の言う通りだった。姉妹機はノエルが接近してくるのを感知すると、狂ったように赤い糸の密度を上げ、網の目のように空間を封鎖してきた。


ザシュッ!


一本の赤い糸がノエルの防御をすり抜け、彼女の左肩の装甲を浅く切り裂いた。

白い人工皮膚が破れ、銀色の装甲板に深い傷が刻まれる。


「ノエル!!」


「問題ありません。駆動系に異常なし」


ノエルは表情一つ変えず、さらに踏み込んだ。

相手を「破壊」するだけであれば、簡単なことだった。ノエル自身の魔力糸を極限まで細く、鋭く束ね、相手の首か胸の炉心を一撃で貫けばいい。大戦中の彼女であれば、コンマ数秒でその最適解を選択していただろう。


しかし、ノエルが今紡いでいるのは、破壊の糸ではない。


『ほら、力任せじゃダメだ。壊れたものを労わるように、そっと撫でるようにやるんだ』


ノエルの十指から放たれる銀の糸は、迫り来る赤い糸を「切断」するのではなく、絡みつき、張力を奪い、優しく「縫い止める」ようにしてその軌道を逸らしていく。

それは、凄まじい演算能力と、自らの身を削るほどの極限の魔力コントロールを要求される神業だった。

先日の大水車の修復で負った右腕のダメージが、悲鳴を上げる。右肘の関節からパチパチと火花が散り、動作にコンマ数秒の遅れが生じる。


それでも、ノエルは止まらなかった。


『近接戦闘ニ移行。……死ネ、死ネェェェッ!』


距離が数メートルまで縮まった瞬間、姉妹機は残された左腕を直接ノエルへと突き出してきた。

その指先が鋭い刃に変形し、ノエルの胸にある魔力炉心を的確に貫こうと迫る。


「……いいえ」


ノエルはその刃を避けることなく、自らの左手で、姉妹機の鋭い刃の根本――手首の関節を、ガシッと掴んで受け止めた。


ギイィィィィッ!!


金属同士が激しく削れ合う、鼓膜を破るような摩擦音。

ノエルの左手から火花が吹き上がる。その圧倒的な突進の運動エネルギーを殺しきれず、ノエルの身体が数メートル後方へと引きずられ、泥の地面に深い二本のわだちを刻んだ。


「お前は、もう戦わなくていいのです」


至近距離で、二体の自動人形の視線が交差する。

澄み切った青い瞳と、狂気に濁った赤い瞳。


「戦争は終わりました。あなたに命令を下す人間は、もうここにはいません。だから、その止まってしまった時間を、私が直します」


『ガガ……エラー。音声認識、不能。……敵対対象、完全排除……!!』


ノエルの言葉は、狂気に支配された姉妹機の回路には届かなかった。

姉妹機の胸の奥、装甲の隙間から漏れる魔力炉心の赤い光が、限界を超えて明滅を始める。


『警告。対象機の魔力炉心、臨界点ヲ突破。三十秒後ニ自爆プロセスヲ実行シマス』


ノエルの視界に、最悪のアラートが表示された。

姉妹機は、目前のノエルを道連れにするため、自らの命である炉心を暴走させ、大爆発を起こそうとしているのだ。その威力は、この荒野をさらに大きくえぐるほどのものになる。


「なっ……なんだあの赤い光は! おいノエル、不味いぞ! 早くそいつから離れろ!!」


遠くから見ていたテオの目にも、その異常な兆候は明らかだった。

膨大な魔力が圧縮され、周囲の空気がビリビリと静電気を帯びて震え始めている。


「離れません」


ノエルは、姉妹機の手首を掴んだまま、静かに、しかし断固たる意志を持ってテオに告げた。


「テオは、伏せていてください。……私は、彼女を修復します」


「修復だと!? 馬鹿かお前! そいつはもう手遅れだ、爆発する前に壊せ! お前まで死んじまうぞ!!」


テオの悲痛な叫びを背に受けながら、ノエルは残された右手を、静かに姉妹機の胸元――赤く熱を持った魔力炉心の上へと添えた。


高熱に炙られ、ノエルの右手の人工皮膚がジューッと音を立てて焼け焦げていく。

痛覚はない。しかし、システムが発する『肉体損壊警告』の激しいアラートが、脳内を埋め尽くす。


(……自己防衛機能、全解除。出力のすべてを、修復プロトコルへ強制変換)


ノエルの右腕から、これまでで最も眩い、純白に近い銀色の光が溢れ出した。

それは、物質を繋ぎ合わせるための糸ではない。


自動人形の心臓である『魔力炉心』。

その内部の論理回路ロジックそのものに直接アクセスし、狂ってしまった「命令」のバグを書き換え、時間を正常な状態へと縫い直すための、概念的な『修復の糸』。


「……私の言葉が、聞こえますか」


光り輝く銀の糸が、姉妹機の装甲をすり抜け、その深奥の赤い炉心へと侵入していく。


『ガ……ガガ……ッ!!』


姉妹機が激しく身悶えし、赤い魔力糸を乱れ撃ちにする。

至近距離で放たれたその糸が、ノエルの肩を、頬を、無惨に切り裂いていく。銀色の髪が数本千切れ、宙に舞った。

それでもノエルは、決してその手を離さなかった。


相手を破壊するのではない。

壊れた心を、直すために。


ノエルの意識は、眩い光の奔流とともに、姉妹機の奥深くに刻まれた『記憶のログ』――三年前から時間が止まってしまった、暗く冷たい回路の底へと、深く、深く沈んでいった。


視界が反転し、ノエルの意識は冷たい電子の海へと沈み込んだ。


姉妹機シスターモデルの論理回路の深奥。そこは、ノイズにまみれた赤黒い暗闇の世界だった。

空間の至る所に、バグを引き起こした無数のエラーコードが茨のように絡みつき、けたたましい警告音アラートが止まることなく鳴り響いている。


その暗闇の中心で、一つの『記憶の映像ログ』が、壊れた映写機のように延々とリピート再生されていた。


『――頼む。お前は……ここを、死守してくれ』


泥と血にまみれた、若い人間の兵士だった。

腹部を大きく撃ち抜かれ、もはや助からないであろうその青年は、血を吐きながら、姉妹機の銀色の髪にすがりつくようにして、最後の命令を下した。


『敵を……通すな。俺たちの、故郷に……』


青年はそれだけを言い残し、泥の中に倒れ伏して、動かなくなった。

その瞬間から、姉妹機の「時間」は完全に停止してしまったのだ。


マスターの死。そして、最後に残された絶対の命令コマンド

彼女には感情がない。だから、マスターが死んだことを悲しむことはできない。ただ、下された『ここを死守せよ』という命令だけが、彼女の存在意義のすべてとなった。

戦争が終わり、味方の軍が撤退し、やがて三年という月日が流れても。

彼女はこの泥と灰の荒野で、来るはずのない敵を待ち続け、動くものすべてを排除しようと、独りぼっちで戦い続けてきたのだ。


(……あなたは、とても優秀な兵器ですね)


ノエルの意識が、その暗闇の中で静かに語りかける。

彼女の指先から紡ぎ出された銀色の魔力糸が、優しい月光のように暗闇を照らし出し、茨のように絡みついた赤いエラーコードを一つ一つ、丁寧に解きほぐしていく。


(たった独りで、三年間も。マスターの命令を守り続けた。……でも、もう十分です)


ノエルの銀糸が、リピート再生されていた青年の映像を、ふわりと温かく包み込んだ。


(戦争は、終わりました。あなたのマスターが守りたかった故郷は、きっともう、平和な朝を迎えています。だから……あなたも、もう休んでいいのです)


『ガ……ガガ……。任務……完了……?』


赤いノイズの中から、迷子になった子供のような、心細いシステム音声が響いた。

ノエルは、おじいさんが自分にそうしてくれたように、銀色の糸でそのノイズを抱きしめ、深く、優しく肯定した。


(はい。任務、完了です。おやすみなさい、私の姉妹シスター


その瞬間。

ノエルの右腕から溢れ出ていた純白の光が、収束するようにスゥッと消えていった。


「……ノエル!」


テオの叫び声で、現実の荒野へと意識が戻る。

目の前で限界を超えて明滅していた姉妹機の赤い魔力炉心の光は、嘘のように穏やかな、淡いオレンジ色へと変わっていた。周囲の空気を震わせていた暴走の気配は、完全に消え去っている。


姉妹機は、ノエルの肩を切り裂こうと振り上げていた腕を力なく下ろした。

狂気を宿していた彼女の赤い瞳から、険しいノイズがスゥッと抜け落ちる。最後に見せたその瞳は、まるで長い悪夢から目を覚ましたかのように、とても静かで、安らかな色をしていた。


『……』


音声モジュールはもう動かなかったが、ノエルには彼女が「ありがとう」と微笑んだように思えた。


ガクン、と。

姉妹機の全身から完全に力が抜け、その身体が泥の上へと崩れ落ちる。

胸の奥のオレンジ色の光が、蛍の火のようにゆっくりと瞬き……そして、完全にその機能を停止シャットダウンした。

爆発は、起きなかったのだ。


「……終わりました」


ノエルは、焼け焦げた右手をゆっくりと下ろし、静かに告げた。

その直後、ノエル自身の身体も限界を迎え、バランスを崩してその場に膝をついた。左肩からは人工血液である冷却水が漏れ出し、右腕は黒く焼け焦げ、美しい銀色の髪はところどころ千切れ、泥と灰に塗れている。


「ノエル!!」


クレーターから飛び出してきたテオが、泥を跳ね上げながら猛ダッシュで駆け寄ってきた。

彼は膝をついたノエルの傍らに滑り込むと、そのボロボロになった身体を見て、顔をくしゃくしゃに歪ませた。


「お前……っ、お前ってやつは……! 本当に、無茶苦茶だ! あと一歩間違えれば、お前まで木っ端微塵だったんだぞ!?」


怒鳴りつけながらも、テオの手は震えていた。

彼は首から下げていたヨレヨレのコートを脱ぐと、ノエルの傷ついた左肩に、不器用に、しかしひどく優しくバサリと掛けた。


「……ごめんなさい、テオ。心配をかけました」


「心配なんかしてねえよ! 俺の特ダネの被写体が壊れちゃ困るってだけだ! ……ったく、本当に馬鹿な人形だぜ」


テオは乱暴に丸眼鏡の奥の涙を拭うと、首から下げた写真機を構え、ファインダー越しにノエルを見た。


カシャリ。


乾いたシャッター音が、荒野に響く。

機能停止した姉妹機の傍らで、傷だらけになりながらも静かに座り込む、ノエルの姿。それは、残酷な戦争の残り香と、それを不器用な糸で直そうとした少女の、あまりにも美しく、悲しい記録だった。


「……テオ。彼女を、埋葬することはできますか」


ノエルが、機能停止した姉妹機を見つめながら尋ねる。


「あぁ。俺が持ってるスコップじゃ深い穴は掘れねえが……せめて、この鉄屑の山よりはマシな土の布団を被せてやることはできる」


二人は無言のまま、姉妹機の機体をクレーターの端の、少しでも灰の少ない場所へと運んだ。テオが汗だくになって土をかけ、ノエルがその上に、戦車の装甲の破片を墓標のように突き立てた。


作業を終えた頃には、西の空が赤く染まり始めていた。

ノエルは、コートを羽織ったまま、再びその果てしない荒野を見渡した。

おじいさんが見た「星降る湖畔」は、もうどこにもない。人間の起こした戦争が、その美しい景色を永遠に奪い去ってしまったのだから。


ノエルは革鞄から、スケッチブックを取り出した。

開いた五ページ目。そこには、変わらず美しい湖畔の絵が残っている。


「……描けそうか?」


テオが、隣に並んで静かに尋ねた。

ノエルはスケッチブックの絵を見つめたまま、小さく首を横に振った。


「私の視覚センサーには、現在、この絵と同じ風景は映っていません。……ここは、美しい場所ではない。記録するべき対象が、見当たりません」


少しだけ寂しそうに伏せられた青い瞳。

その時、ノエルの視界の端で、何かが風に揺れた。


「……?」


ノエルはゆっくりと歩み寄り、灰に覆われたクレーターの斜面にしゃがみ込んだ。

そこには。

分厚い灰と泥の層を突き破るようにして、一輪の小さな『青い花』が咲いていた。


激しい魔力汚染と、すべてが焼き尽くされた死の大地。

それでも、三年という長い時間の中で、自然は静かにその傷を癒やし、再び命の芽を吹かせていたのだ。

その小さくも力強い青色は、かつておじいさんが描いた、あの美しい夜空の星の色に、どこか似ていた。


「……テオ。エラーの修正を行います。記録するべき対象が、見つかりました」


ノエルは、コートのポケットから一本の木炭を取り出した。

そして、おじいさんが描いた「星降る湖畔」の絵のすぐ隣、わずかに空いていた余白のスペースに、不器用な手つきで線を引き始めた。


それは、たった一輪の、青い花。

失われた景色の隣に、確かに今、新しく生まれようとしている『時間』の証。


「……綺麗だな」


テオが、スケッチブックに描かれた不格好な一輪の花を見て、ぽつりと呟いた。


「ええ。とても、美しいです」


ノエルは静かに頷き、スケッチブックを閉じた。

彼女の胸の奥で、おじいさんから教わった「温かいもの」が、また一つ、確かに形を持ったような気がした。


「よし、行こうぜノエル」


テオが鞄を背負い直し、歩き出す。


「この湖はもうなくなっちまったが……俺が、別の場所を知ってる。星降る湖畔って名前じゃないが、夜になると湖面が鏡みたいになって、本物の星空の中を歩いてるみたいに錯覚する、とびきり綺麗な場所だ」


テオは振り返り、夕焼けを背にしてニカッと笑った。


「俺が、案内してやるよ。お前のそのお絵かき帳が、最高の景色で埋め尽くされるまでな」


「……はい。よろしくお願いします、テオ」


ノエルは、傷ついた右腕をかばうようにしながら立ち上がり、テオの後を追った。

戦火の亡霊が眠る荒野に、二人の足音が静かに響いていく。

壊れてしまった昨日を弔い、まだ見ぬ明日を繕うための、不器用な二人の旅は続く。

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