第4話 『特ダネと、不器用な護衛』
水車が回る轟音と、人々の戸惑いが入り混じった街、リヴィエールを背にしてから、三日が過ぎた。
街道は緩やかな上り坂へと差し掛かり、振り返れば、網の目のように巡らされた水路が、午後の陽光を反射して銀色の糸のように輝いているのが見えた。
ノエルは、街道の脇にある平らな岩に腰を下ろし、自身の右腕をじっと見つめていた。
昨夜、野営の火の傍らで自己修復を試みたものの、大水車を支えた際にかかった過負荷の爪痕は、想像以上に深かった。
(……右腕駆動系、同調率八二パーセント。肘関節の魔力導線に、微細なノイズを検知)
白く滑らかな人工皮膚の隙間から、銀色の火花が散る。
おじいさんであれば、その不器用ながらも魔法のような手つきで、一晩のうちにノイズを消し去ってくれただろう。しかし、今のノエルには、自身の魔力を少しずつ患部へと流し込み、歪んだ回路を時間をかけて「再構築」していくことしかできない。
「……時間が、かかりますね」
ぽつりと漏れた独白は、風に乗って草原の向こうへと消えていった。
ノエルは鞄から、おじいさんの遺したスケッチブックを取り出す。次の目的地は、この街道の先にある深い森を抜けた場所、スケッチブックの五ページ目に描かれた『沈黙の並木道』だ。
ノエルが立ち上がり、再び歩き出そうとした、その時だった。
カサッ。
背後の茂みから、明らかに不自然な音が響いた。
ノエルの優れた聴覚センサーは、それが風による葉の揺れではなく、質量を持った何かが草を踏みしめた振動であることを瞬時に捉えた。
(……未確認の移動物体を検知。距離、十二メートル。背後の茂みの中。心拍数、上昇中)
リヴィエールの街を出てから、この「反応」には心当たりがあった。
街道を進むノエルの背後を、一定の距離を保ちながら、執拗についてくる気配。時折、物陰に隠れるのが間に合わず、ヨレた外套の裾や、バタバタと慌てる足音が漏れ聞こえてくる。
ノエルは足を止め、無表情のまま、その茂みに向かって静かに声をかけた。
「……そこの茂みに隠れている方。あなたは、三日前から私の後を追っていますね。隠密行動としては、足音と呼吸音が不明瞭すぎます。何か、私に用件があるのでしょうか」
沈黙が流れた。
やがて、観念したような溜息と共に、ガサガサと激しい音を立てて、一人の青年が茂みから這い出してきた。
「……ったく。バレてないと思ってたんだけどな。やっぱり最新鋭の自動人形様は、耳まで高性能ってわけか」
這い出してきた青年は、ひどく煤けた、けれど上質な生地のコートを羽織っていた。
身長はノエルよりもわずかに高い程度で、人間の男性としては小柄な部類だろう。ボサボソに跳ねた茶髪の下には、理屈っぽそうな丸眼鏡が乗っている。
首からは、使い込まれた革製の鞄と、銀色に光る『写真機』がぶら下がっていた。
青年は立ち上がり、コートについた泥や葉っぱを乱暴に払うと、これ見よがしに懐から一冊の手帳とペンを取り出した。
「初めまして、でいいのかな。それとも、大水車の救世主様、と呼ぶべきか」
「私はノエルです。救世主という定義には当てはまりません」
ノエルが淡々と答えると、青年は「へぇ、ノエルって言うのか」と皮肉げに口角を上げた。
「俺はテオ。……見ての通り、真実を追いかけ、この腐った社会の裏側を暴くための新聞記者だ。まぁ、今はしがない地方紙の寄稿屋に甘んじてるが、いつか自分の本を書いて、歴史に名を残す大ヒットを飛ばす男だよ」
テオと名乗った青年は、不敵に笑ってみせた。しかし、その瞳の奥には、長年の努力が報われないことへの苛立ちと、社会という巨大な壁を前にした諦念のような冷めた色が、澱のように沈んでいるのをノエルは見逃さなかった。
「新聞記者。……私の『記録』によれば、記者は社会の事象を公平に伝える職業のはずです。なぜ私を追っているのですか」
「公平、か。おめでたい回路だな」
テオは吐き捨てるように言い、手帳にペンを走らせ始めた。
「この世界に公平な真実なんてものは存在しない。あるのは、力を持った奴らに都合の良い『お話』だけだ。大戦中、お前ら自動人形が『正義の味方』として宣伝され、戦後は一転して『銀髪の悪魔』として迫害されているのが、その証拠だよ。……俺が知りたいのは、そのギャップの正体だ」
テオは一歩、ノエルへと歩み寄った。
「リヴィエールの街で、お前が自分の身を削って大水車を直したって噂を聞いた。……笑えるよな。かつては何万という人間を殺した兵器が、今度は聖者様みたいに街を救う? そんな美談、俺は信じない。お前の中に、何か恐ろしい『裏』があるはずだ。それを見つけ出して、記事にして、この冷めた世界に叩きつけてやるんだよ。それが俺の『仕事』だ」
テオの言葉は攻撃的だったが、ノエルはその言葉の端々に、隠しきれない期待を感じ取っていた。
彼は社会を諦めていると言いながらも、ノエルの中に「自分の知らない真実」があることを、誰よりも強く信じているように見えた。
「裏、ですか。私を解析しても、そこにあるのはおじいさんから教わった修復の技術と、このスケッチブックの景色を巡るという命令だけです」
「おじいさん? スケッチブック? ……ますます怪しいな。自動人形が自発的に旅をするなんて、プログラムにないはずだ。よし、決めたぞ」
テオはペンをポケットに差し込むと、鞄を背負い直した。
「お前の旅に同行させてもらう。……嫌だと言っても無駄だぞ。街道を歩くのは自由だし、俺はお前の不気味なほどの『善人面』が剥がれる瞬間を、この写真機で切り取るまで離れるつもりはないからな」
「同行……。それは、私と一緒に歩く、ということでしょうか」
「理解が早くて助かるよ。心配するな、荷物持ちは期待してないが、道中の世間話の相手くらいにはなってやる。どうせ一人旅なんて、退屈で死にそうだろう?」
ノエルは、テオの提案を論理的に分析した。
自分は外の世界の慣習や、人間との交渉に疎い。記者のように言葉を操り、情報の扱いに長けた人間が側にいることは、おじいさんの遺した「形見」を届けるという目的において、一定の合理性がある。
「……承知いたしました。テオ。あなたの同行を許可します」
「……あ、あっさり許可するんだな。もう少し、こう、『私の秘密を見ないで!』的な抵抗があるかと思ったんだが……」
拍子抜けしたように肩を落とすテオを無視して、ノエルは再び街道の先へと歩き出した。
「目的地は、この先の並木道です。……テオ。あなたの心拍数が依然として高いままです。興奮状態にあるのか、それとも、どこか身体に不調があるのですか?」
「あぁ、もう! そういうのを余計なお世話って言うんだよ。記者がネタを前にして興奮しないでいられるかよ! ……ほら、さっさと歩け、人形様。日はすぐに暮れるんだからな!」
テオはぶつぶつと文句を言いながら、短い足で一生懸命にノエルの後を追った。
銀糸の髪をなびかせる美しい人形の少女と、ヨレたコートを着てカメラを提げた、背の低い青年。
噛み合うはずのない二人の影が、西日に長く伸びて、一つの道の上に重なり合った。
それが、言葉で世界を紡ごうとする者と、糸で世界を繕おうとする者の、長く果てしない旅の本格的な始まりだった。
しかし、この時のテオはまだ知らなかった。
彼が追い求めていた「大スクープ」の正体が、血なまぐさい陰謀などではなく、胸を締め付けるほどに切ない「愛」の物語であることを。
そして、彼自身が、その物語を世界に届けるための最も重要な役割を担うことになることを。
「……おい、ノエル! いきなり歩くのを止めるなよ! 鼻をぶつけただろ!」
「テオ。……前方三〇〇メートル地点に、複数の生命反応を感知しました。……唸り声、および金属の擦れる音。これは、野生の獣ではありません」
「……はぁ? なに、急に不吉なこと言って……」
街道が森の入り口へと差し掛かった時、ノエルの青い瞳が、警告の光を宿して細められた。
平和なはずの街道に漂う、濃密な「暴力」の気配。
テオの顔から余裕が消え、彼の手が震え始めたのを、ノエルのセンサーは静かに記録していた。
街道が緩やかに湾曲し、目の前に広がる古生代の巨木が連なる深い森――『迷い子の緑』の入り口に差し掛かった時、周囲の空気は目に見えて重さを増していった。
さっきまで二人を温かく包んでいた黄金色の陽光は、生い茂る分厚い葉の天井に遮られ、地面には斑点のような薄暗い影が落とされている。ひんやりとした湿気と、腐葉土の匂い、そして野生の獣が持つ特有の生臭さが、静かに鼻腔を突いた。
「おい……ノエル。さっきの『生命反応』って、冗談だよな……?」
テオが、小声をさらに潜めるようにして尋ねてきた。
その声は微かに震えており、首に下げた写真機を壊れ物を守るように両手で強く抱きしめている。彼の短い足は、先ほどまでの威勢の良さを完全に失い、一歩を踏み出すたびに足元の濡れた落ち葉が不気味な音を立てて潰れた。
ノエルは歩みを緩めることなく、ただ視覚センサーの倍率を上げ、前方の暗がりに潜む「影」を凝視していた。
「冗談、という概念を私は搭載していません。テオ。あなたの心拍数は一分間に百二十回まで上昇しています。アドレナリンの分泌量も過剰です。引き返すことを推奨しますか?」
「バ、バカ言え! 記者が特ダネを前にして引き返せるかよ……! それに、こんな不気味な森の中で一人で引き返せるわけないだろ!」
テオは丸眼鏡を指で押し上げながら、虚勢を張るように胸を張った。しかし、その視線はキョロキョロと周囲の木陰を泳いでいる。彼のような力を持たない人間の知識人が、戦後の荒れた街道を一人で歩くこと自体が、本来であれば自殺行為に等しいのだ。
その時、森の奥から、低く、地を這うような唸り声が響いた。
グルルル……。
「ひっ……!」
テオの短い悲鳴と同時に、前方の茂みが激しく左右に割れた。
現れたのは、三人の男たちだった。
しかし、それは真っ当な旅人でも、ただの野盗でもなかった。身に纏っているのは、泥と返り血で汚れ、階級章を引きちぎられた古い軍服。手には、戦時中に使われていた旧式の魔導銃や、赤黒く錆びついた大剣が握られている。
「……大戦の、敗残兵の崩れ。あるいは、復員を拒否した脱走兵です」
ノエルが淡々とその正体を口にする。
大戦が終わって二年が経つが、戦争という狂気から抜け出せず、あるいは帰るべき故郷を失って野盗と化した軍人の残党は、大陸各地で治安を脅かす深刻な社会問題となっていた。
彼らの目は、飢えた狼のように濁り、狂気に満ちていた。
「おいおい、見ろよ。こんな寂れた街道に、上等なカモが迷い込んできたぜ」
大剣を肩に担いだ、片目の潰れた男が、下卑た笑い声を上げた。その視線は、テオが首から下げている高価な写真機と、ノエルの異常なまでの美貌へと向けられる。
「あのガキが持ってる機械は高く売れそうだ。……それに、後ろの女。おい、よく見ろ、ありゃ人間じゃねえ。自動人形だぞ。しかも、あの銀髪……軍が破棄したはずの、高級品じゃねえか」
男たちの目が、一瞬で貪欲な色に染まった。
戦後、自動人形の所持は厳しく制限されたが、裏社会ではその希少な魔力炉心や高純度の特殊合金が、天文学的な高値で取引されている。ましてや、ノエルのような最高峰の個体であれば、一生遊んで暮らせるほどの金になる。
「右腕を見てみろ、ボロボロじゃねえか。水車の街で暴れたってのは、こいつのことか。なんだ、ただの壊れかけの鉄屑じゃねえか!」
魔導銃を構えた男が、銃口を真っ直ぐにノエルへと向けた。
「おい、そこの不細工なガキ。命が惜しけりゃ、そのカメラと、後ろの人形を置いてさっさと失せな。大人しく従うなら、お前の細い首をへし折らずに済ませてやる」
「……っ」
テオの顔から、完全に血の気が引いた。
彼はペンを握る手は器用だったが、暴力に対しては無力な、ただの背の低い青年だ。男たちの圧倒的な体格と、放たれる濃厚な殺気に気圧され、膝がガタガタと目に見えて震えている。
社会の底辺で、理不尽な現実を何度も見てきたテオには分かっていた。ここで彼らの要求通りにノエルを渡したとしても、自分のような目撃者が生きて帰してもらえるはずがないということを。
「あ、あらすじを言わせてもらえば……俺はただの貧乏記者だ。金目のものなんて、この使い古した写真機くらいしかない……。だから、その……」
テオは必死に言葉を紡ぎ、時間を稼ごうとした。しかし、その視界に、一歩前に踏み出す銀色の影が映った。
ノエルだった。
彼女はテオを背中に庇うようにして、男たちの前に静かに立ち塞がった。
その表情は、どこまでも平坦で、鏡のように静かだった。
「テオ。下がっていてください」
「ノ、ノエル!? お前、何言ってるんだ! 相手は銃を持ってるんだぞ! それに、お前の右腕はまだ……!」
テオの制止を聞くことなく、ノエルは濁った目を向ける男たちを見つめた。
「あなた方に警告します」
ノエルの透き通るような声が、薄暗い森の空気を震わせる。
「これ以上の脅迫および略奪行為は、現在の治安維持法に抵触します。武器を捨て、速やかに立ち去ることを要求します」
一瞬の沈黙の後、男たちは腹を抱えて大爆笑した。
「ハハハハ! 聞いたかよ! 壊れかけの人形が、法律だってよ!」
「命令権者もいないくせに、偉そうに指図すんじゃねえ! おい、その生意気な頭をぶち抜いて、炉心だけ回収してやる!」
魔導銃を持った男が、引き金に指をかけた。
刹那、パァンという鋭い発砲音が森に響き渡る。赤い魔力の弾丸が、まっすぐにノエルの胸へと放たれた。
「ノエル!!」
テオが絶叫し、思わず目を瞑った。
しかし、肉体が引き裂かれる音も、金属が砕ける音も響かなかった。
テオが恐る恐る目を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。
ノエルの前に、淡い月光のような銀色の『壁』が展開されていたのだ。
いや、それは壁ではない。
肉眼では捉えきれないほどに微細な、何万本もの銀色の『糸』が、空中で緻密な網を形成し、放たれた魔力の弾丸をその強力な張力によって完全に受け止め、霧散させていた。
「な……なんだと!?」
男たちの笑い声が、驚愕へと凍りつく。
ノエルの青い瞳が、静かに、そして冷徹に光を宿した。
彼女の指先が、流れるような美しさで虚空を舞う。
「……これより、脅威の排除を実行します」
その言葉とともに、彼女の指先から、空間そのものを切り裂くような鋭い風切り音が鳴り響いた。
無数に展開された『魔力糸』が、生き物のようにうねり、男たちへと襲いかかる。
大戦時、この糸は分厚い装甲を細切れにし、人間の肉体を一瞬で肉塊へと変える悪魔の凶器だった。テオの脳裏に、世間で噂されている「銀髪の悪魔」の凄惨な逸話がよぎる。目の前の男たちが、次の瞬間には血の海に沈むのだと、彼は恐怖に身を硬くした。
しかし。
シュガァァァン!!
激しい金属音とともに、大剣を構えていた男の手から、武器が弾き飛ばされた。
魔力糸は、男の肉体を切り裂くのではなく、大剣の柄のわずかな隙間に滑り込み、その圧倒的な速度と正確さで、武器だけを綺麗に絡め取ったのだ。
「がはっ!? 俺の剣が……!」
それだけでは終わらない。
魔力糸は電光石火の速さで銃を持つ男の腕に巻き付いた。男が悲鳴を上げる暇もなく、糸は彼の衣服の袖を正確に捉え、背後の巨木へと猛烈な勢いで引っ張っていった。
ドンッ!!
「ぐふっ……!」
男の身体は、巨木の幹へと乱暴に叩きつけられた。そして、衣服の十数箇所を、魔力糸によって寸分違わず木に『縫い付けられた』。肉体には傷一つ付いていない。しかし、強靭な魔力の糸で固定された男は、指一本動かすことができなくなった。
「な、なんだこの糸は……! 切れねえ、ビクともしねえぞ!」
残された一人が、恐怖に狂ったようにナイフを振り回してノエルに突進してくる。
ノエルは無表情のまま、壊れかけているはずの右腕を静かに突き出した。
彼女の指先から放たれた数本の糸が、男の足首に絡みつく。
クイ、とノエルが指先を引くと、男は派手にバランスを崩して泥の中に顔面から突っ込んだ。そして、のたうち回る男の全身を、魔力糸が瞬時にミノムシのように幾重にもぐるぐると巻き付け、完全に拘束してしまった。
わずか数秒の出来事だった。
さっきまで凶悪な殺気を放っていた三人の脱走兵は、一人は武器を失って呆然と立ち尽くし、一人は木に縫い付けられ、一人は泥の上で芋虫のように転がっている。
全員が生きている。
衣服は破れ、プライドはズタズタに引き裂かれていたが、彼らの肉体からは、一滴の血すら流れていなかった。
ノエルはふっと指先を緩め、魔力糸の輝きを消した。
彼女の右腕の関節から、チチチ……と小さな火花が散り、彼女はそれを左手で静かに抑えた。
「……脅威の排除、完了しました。怪我はありませんか、テオ」
ノエルは振り返り、何事もなかったかのように淡々と尋ねた。
後ろで立ち尽くしていたテオは、口を大きく開けたまま、完全に硬直していた。
彼の丸眼鏡が、驚きのあまり鼻の頭までずり落ちている。
「お前……お前、今……何をしたんだ……?」
テオの声は、恐怖ではなく、底知れない「困惑」に震えていた。
「防衛行動です。彼らの攻撃能力を無力化しました」
「そうじゃない! そうじゃなくて……!」
テオは一歩、ノエルへと詰め寄った。
彼の小さな身体から、激しい感情の激流が溢れ出る。
「お前、自動人形だろう!? 大戦最悪の兵器だろ! なんで……なんであいつらを一人も殺さなかったんだ!? あの糸があれば、あいつらの首を撥ねるなんて一瞬だったはずだろ!」
テオの新聞記者としての知識、そしてこの戦後の社会で培ってきた常識が、目の前の現実を拒絶していた。
人間たちは、自動人形を「血に飢えた怪物」として恐れている。一度起動すれば、周囲の生命を冷徹に抹殺するだけの機械だと。
それなのに、目の前の少女は、自分たちを殺そうとした悪党に対して、その圧倒的な力を使いながらも、ただの一傷すら負わせなかった。
「おじいさんが、言っていました」
ノエルは、焼け焦げた自分の指先を見つめながら、静かに、けれど美しい声で言った。
「私のこの糸は、もう誰も傷つけてはいけないと。……私は、人を殺す道具ではありません。私は、ノエルですから」
その言葉を聞いた瞬間、テオの胸の奥で、何かが激しく音を立てて崩れ去っていった。
社会への諦め、人間への不信、そして自動人形に対する偏見。それらすべてを無力化してしまうほどの純粋な『善性』が、目の前の不器用な人形の少女の中に、確かに存在していた。
「……ノエル、お前……」
テオは手帳を握りしめたまま、言葉を失った。
彼が探そうとしていた「特ダネ」の裏側。そこにあったのは、冷酷な陰謀などではなく、人間の理解を超えた、あまりにも優しく、そして切ない自動人形の『誓い』だった。
薄暗い森の空気に、パチパチとノエルの右腕から散る微弱な火花の音だけが響いていた。
巨木に縫い付けられた脱走兵は、もはや声を出す恐怖すら忘れたように歯をガタガタと鳴らし、泥の中に転がされた男は、芋虫のように身悶えしながら「化け物……化け物め……」と呪詛のようにつぶやき続けている。彼らにとって、目の前の少女はかつて戦場で見た『死神』そのものであり、同時に、自分たちを生かしたという理解不能な『異形』だった。
ノエルは彼らにそれ以上の視線を向けることなく、ゆっくりと身をかがめて、地面に落ちていたテオの手帳を拾い上げた。ページの一部が泥で汚れていたが、ノエルはそれを自分の袖でそっと拭い、テオへと差し出した。
「テオ。大切な記録媒体です。紛失には注意してください」
「あ……、あぁ。……サンキュ」
テオは、まだ震えの止まらない手で手帳を受け取った。
彼の丸眼鏡は相変わらず鼻の頭までずり落ちたままで、その奥にある茶色の瞳は、ノエルを捉えたまま激しく揺れ動いていた。
新聞記者として、数々の理不尽な現実を見てきた。
戦争を美化するお偉方の言葉、戦後の混乱に乗じて弱者を貪る悪党たち、そして、凄惨な過去をすべて「銀髪の悪魔」という身代わりの怪物に押し付けて思考を放棄した大衆。
この世界は冷え切っていて、綺麗事など通用しない。そう自分に言い聞かせ、心を麻痺させて生きてきた。
だからこそ、リヴィエールの街で大水車を直したノエルの噂を聞いた時も、「どうせ裏があるに違いない」「人殺しの道具が、いまさら善人ぶるな」と、歪んだ視線で彼女を解釈しようとしたのだ。
しかし、今、目の前にある真実はどうだ。
ノエルの右腕の関節は、過負荷によって人工皮膚が裂け、痛々しく剥き出しになった金属の骨格が、今も細かく震えている。彼女を襲った男たちには、一滴の血も流れていない。彼らを傷つけないために、彼女はあえて自分の身体にそれだけの負担を強いたのだ。
「お前……、本当に、ただの機械なのかよ……」
テオの口から、掠れた声が漏れた。それは問いかけというよりも、彼自身の常識を根底から覆された者の、祈りにも似た呟きだった。
「はい。私は、魔力によって自律稼働する、自動人形です」
ノエルは淡々と、いつもの正確な音調で答える。
「ですが、おじいさんは私に『ノエル』という名前をくれました。そして、壊れたものを直すための『手』をくれました。私はもう、あの廃棄場の鉄屑ではありません」
彼女の青い瞳は、やはり人間のような複雑な色の揺らぎは見せない。けれど、その奥には、北極星のように決してブレることのない、静かで強固な『意志』が宿っていた。
テオは、じっと自分の手のひらを見つめた。手帳を握るその手は、冷や汗で濡れている。
物書きの卵として、いつか歴史に残る本を書きたいと願っていた。世間をあっと言わせるような、衝撃的なスクープを。
これ以上のスクープが、果たしてこの世界のどこにあるだろうか。
かつて世界を恐怖に陥れた最強の兵器が、亡き主との約束を守るために、誰も傷つけず、ただ壊れた世界を直すために旅をしている。世間にどれだけ石を投げられ、悪魔と罵られようとも、彼女はその不器用な糸で、人々の大切な昨日を繕い続けているのだ。
(これを……俺の言葉で、書き残さなきゃいけない)
テオの胸の奥で、長い間くすぶっていた文字書きとしての魂が、猛烈な勢いで発火した。
社会への諦めの中に隠されていた、彼の一生懸命で、純粋な情熱。それが、目の前の少女の善性によって、完全に呼び覚まされたのだ。
テオは丸眼鏡をぐいと指で押し上げ、深く一つ息を吸うと、不敵な笑みを浮かべてみせた。その笑みには、先ほどまでの虚勢ではなく、腹をくくった男の確かな強さが宿っていた。
「よし、決めたぞ、ノエル」
「? 何を決定したのですか、テオ」
テオは一歩前へ出ると、小柄な身体を目一杯に伸ばし、腰に手を当てて胸を張った。
「俺がお前の『案内役』になってやる。……いや、なってやるじゃないな。これは取引だ、ビジネスだよ」
「取引、ですか」
「あぁ。お前、さっきの街でもそうだったが、人間に迫害されても一切抵抗しないだろ。宿は断られる、石は投げられる、挙句の果てにこんな森のゴロツキにまで目を付けられる。お前のその『人を傷つけない』ってルールは立派だが、このままだと目的地に着く前に、お前の身体がバラバラのスクープになっちまう」
テオはノエルの焼け焦げた指先を指差した。
「だから、人間との交渉や、街での宿の手配、ルートの選定は全部この俺、テオ様が引き受けてやる。人間同士の汚い騙し合いや、偏見の目を逸らすのは、俺みたいなひねくれた記者の方が得意だからな。その代わり……」
テオは首に下げた写真機をトントンと叩いた。
「お前の旅のすべてを、俺に一番近くで記録させろ。お前が何を直し、何を見て、どんな景色に辿り着くのか。その一部始終を俺の手帳に書き留めさせてくれ。いつか、世界中の奴らがひっくり返るような、最高の『本』を書いてやる。どうだ、悪くない提案だろ?」
ノエルは、テオの言葉を静かに解析した。
確かに、リヴィエールの街での滞在、そして先ほどの戦闘において、自らの知識不足と自動人形という属性が、旅の進行に多大な遅延を生じさせているのは事実だった。
人間であるテオが前に立ち、交渉を代行してくれるのであれば、旅の効率は格段に向上する。何より、おじいさん以外の人間が、自分をどのように見つめ、どのように言葉を紡ぐのかを間近で観察することは、彼女の「心」という機能にとっても、極めて有益な学習ログになると思われた。
「……合理的な提案です。テオ、あなたの提示した条件を受け入れます。私はあなたの記録対象となり、あなたは私の案内役となる。これで、取引は成立ですね」
ノエルが右手を差し出すと、テオは少しだけ気恥ずかしそうに苦笑し、その小さな、けれど温かい手で、ノエルの冷たい金属の指をしっかりと握り返した。
「あぁ、成立だ。よろしくな、不器用なアーティファクター(魔導具師)様」
二人が手を離すと、ノエルは足元に落ちていた自分の外套を拾い上げ、汚れを払って再び身に纏った。背負った鞄をしっかりと締め直す。
「では、テオ。最初の目的地へ向かいましょう。おじいさんのスケッチブックの五ページ目、この森の先にある『沈黙の並木道』です」
「並木道か、いい野生のネタになりそうだ。……おい、ちょっと待て、お前のその右腕、本当に大丈夫なのか? 歩くたびにチチチって音がしてるぞ」
「自己修復プロトコルが稼働中ですので、歩行には問題ありません。ただし、時折右側に大きく傾く可能性があります」
「おいおい、勘弁してくれよ! 頼りない護衛だな。ほら、危なくなったら俺の肩を貸してやるから、無理すんなよ」
「テオ。あなたの身長と骨格では、私の重量を支えきれず、共倒れになる確率が八七パーセントです」
「うるさいな! そこは気遣いっていう人間の文化をラーニングしろよ!」
噛み合わない会話を森の木霊に響かせながら、二人の影は薄暗い巨木の合間を縫うようにして、奥へと進んでいった。
背の低い青年のヨレたコートの裾が揺れ、少女の銀色の髪が、葉の隙間から差し込むわずかな光を浴びて、キラキラと美しく瞬いている。
おじいさんが愛し、そして遺してくれた、この広大で不完全な世界。
世間から「悪魔」と恐れられる少女と、社会を諦めていた「言葉」の青年。
出会うはずのなかった二人の歯車が、今、確かな音を立てて噛み合い、回り始めた。
これは、心を持たなかった兵器の少女が、不器用な優しさの糸で誰かの昨日を繋ぎ直し、やがて世界で一番美しい景色の中に、自分だけの明日を繕うまでの物語。
森を抜けた先、二人の目の前には、どこまでも続く真っ直ぐな並木道と、夕焼けに染まる茜色の世界が広がっていた。
「……綺麗ですね、テオ」
「あぁ。……お前の本の、最高の第一章になりそうだ」
ノエルはスケッチブックの白紙のページをそっと撫で、テオは手帳の新しいページへとペン先を走らせる。
二人の、本当の旅が、今ここから始まった。




