第3話 『銀色の魔法と、夜明けの水車』
ギガァァン……!!
地鳴りのような、巨大な金属が激しく軋み、そして断裂する不快な轟音が、深夜のリヴィエールの街に響き渡った。
「なんだ!? 何事だ!」
「水車だ! 大水車が止まってるぞ!」
静まり返っていた街は、瞬く間に阿鼻叫喚のパニックへと飲み込まれた。
家々の窓に次々と明かりが灯り、人々が寝巻き姿のまま外へと飛び出してくる。彼らが向ける視線の先、街の中心にそびえ立つ巨大な時計塔と、それに付随する直径三十メートルを超える大水車は、不自然な角度で大きく傾き、完全にその回転を停止していた。
リヴィエールの街は、川の分岐点という特殊な地形に作られている。上流から流れ込む膨大な水量は、この大水車が稼働し、連動する複数の水門を自動制御することで初めて安全な水位を保っているのだ。
水車が止まるということは、水門が閉ざされることを意味する。
「川の水が溢れるぞ!!」
「逃げろ! 高台へ向かえ!!」
誰かの悲鳴のような警告を裏付けるように、ゴォォォという不気味な水音が街中に響き始めた。行き場を失った濁流が水路を越え、すでに低い土地の石畳を舐め始めている。
松明を手にした街の技師たちが、大水車の足元に集まっていた。しかし、彼らは頭上の惨状を見上げ、絶望に顔を青ざめることしかできなかった。
「主軸が……完全にへし折れてる。長年の金属疲労だ」
「馬鹿な、あんな太さの鋼鉄の軸、人間の手でどうやって直すんだ!? 代わりの部品を鋳造して、クレーンで吊り上げるだけで数日はかかるぞ!」
「数日だと? あと一時間もすれば、この街の半分は完全に水底に沈むんだぞ!」
逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子供たち。
濁流は容赦なく水位を増し、荷馬車や露店の屋台を次々と飲み込んでいく。
その混沌とした夜の闇の中。
古い石橋の欄干を蹴り、一筋の銀色の流星が上空へと飛び立った。
「……なんだ、あれは」
技師の一人が、空を指差して呆然と呟いた。
月明かりに照らされ、夜空を舞う銀色の髪。人間離れした跳躍力で、傾いた大水車の巨大な骨組みへと軽々と飛び移ったその姿を、松明の炎が赤く照らし出す。
「お、おい……! 昼間、街に入ってきたあの自動人形だぞ!」
「銀髪の悪魔だ! 水車が壊れたのも、水が溢れたのも、全部あいつの仕業だったんだ!!」
「この街を沈める気だ! 誰か、銃を持て! あいつを撃ち落とせ!!」
地上から向けられるのは、恐怖と憎悪に満ちた叫び声。
ノエルの優れた聴覚センサーは、その言葉の一言一句を正確に拾い上げていた。銃口が向けられ、石が投げられる。
しかし、大水車の骨組みの上に降り立ったノエルの表情には、微塵の揺らぎもなかった。
(駆動系リミッター、全解除。出力、最大に設定)
ノエルは地上の喧騒を完全に遮断し、自身の視覚センサーを折れ曲がった巨大な鋼鉄の主軸へと向けた。
直径一メートル近い、分厚い鋼鉄の塊。それが無惨に断裂し、今にも完全に崩れ落ちようとしている。
「……修復、開始」
ノエルの白魚のような指先から、眩いほどの銀色の光が放たれた。
それは、かつて命を奪うためだけに振るわれた『魔力糸』。しかし今、彼女の指先から紡ぎ出される無数の糸は、強靭な縫い糸となって夜空に幾重にも展開されていった。
シュガァァァン!!
数万本に分裂した銀色の魔力糸が、断裂した鋼鉄の主軸に幾重にも巻き付いていく。
地上から見上げれば、それはまるで巨大な銀色の繭が、水車の中心を包み込んでいくように見えた。
「な、なにをしているんだ、あいつは……?」
銃を構えていた男たちが、そのあまりにも幻想的で、圧倒的な光景に息を呑み、引き金を引く指を止める。
しかし、ノエルの内部では、想像を絶する負荷が荒れ狂っていた。
何十トンという大水車の自重と、激流がぶつかる水圧。そのすべてが、魔力糸を介してノエルの華奢な身体へと直接のしかかってきたのだ。
『警告。物理的負荷が限界値を突破』
『右腕関節部、損傷率四〇パーセント。装甲に亀裂が発生』
『魔力炉心、オーバーヒートの危険あり。直ちに作業を中断してください』
脳裏にけたたましく鳴り響く赤いアラート表示。
メキメキと、ノエルの身体を構成する金属の骨格が悲鳴を上げる。右腕の関節から火花が散り、純白の肌に微細なひび割れが走る。
重い。あまりにも重い。
人間を殺戮するためだけに造られた彼女の出力をもってしても、自然の猛威と巨大建築物の重力に逆らうことは、自壊を意味していた。
(このままでは、糸が千切れます)
ノエルは奥歯を強く噛み締めた。
断裂した鋼鉄を繋ぎ合わせるには、単に糸で縛るだけでなく、魔力による高熱で鋼鉄を溶接し、再結合させる必要がある。しかし、そのための出力を回せば、水車の重みを支えきれなくなる。
『お前はもう、兵器なんかじゃない。ノエルだ』
不意に、あの温かい声が蘇る。
『直すということは、時間を繋ぎ止めるということなんだ』
眼下には、恐怖に怯える人々がいる。
昼間、自分に塩を投げつけた宿屋の主人がいる。石を投げつけた少年がいる。
彼らを助ければ、自分は壊れてしまうかもしれない。機能を停止し、ただの鉄屑に戻るかもしれない。おじいさんが見せたかった景色を、もう見ることはできなくなる。
それでも。
それでも、目の前にある「壊れてしまったもの」を見過ごすことは、おじいさんから教わった「心」が、許さなかった。
(……魔力炉心、臨界突破。全魔力を、修復に回します)
ノエルの青い瞳が、限界を超えた魔力の輝きによって白銀に染まる。
「繋がれ……!」
ノエルの口から、初めて感情を剥き出しにしたような、悲痛な声が漏れた。
パァァァァン!!
ノエルの身体から、夜を昼に変えるほどの強烈な光が弾けた。
限界を超えて供給された魔力が熱源となり、銀色の糸が一斉に黄金色に輝き始める。超高熱を帯びた魔力糸が、断裂した鋼鉄の軸を溶かし、寸分違わず噛み合わせ、そして急速に冷却して再結合していく。
ギリ、ギリ、ギリィィ……!
ノエルの身体の各所から、装甲が弾け飛ぶ音が鳴る。
首筋の人工皮膚が裂け、内部の銀色の配線が剥き出しになる。指先は摩擦と熱で焼け焦げ、かつての美しい姿は見る影もなく損なわれていく。
それでも彼女は、絶対に糸を緩めなかった。
痛い。苦しい。機能が停止していく恐怖。
それらすべてを「心」で感じながらも、彼女は優しく、力強く、街の命脈である巨大な鋼鉄を縫い合わせ続けた。
そして――。
ゴトン、という重々しい音が響き、巨大な大水車が、再びゆっくりと回転を始めた。
「……回ったぞ! 水車が、動いた!!」
「水門が開いていく! 川の水が引いていくぞ!!」
地上の人々から、歓喜の叫びが沸き起こる。
濁流は徐々にその勢いを弱め、本来の水路へと導かれていく。
街は、沈まなかったのだ。
修復を完了したノエルは、ふっと糸の張力を緩めた。
役目を終えた銀色の光の粒子が、夜空に雪のように舞い散っていく。
『魔力残量、三パーセント。強制スリープモードに移行します』
システム音と共に、ノエルの身体から力が抜け、傾いた大水車の骨組みから、真っ逆さまに虚空へと落下していった。
「落ちるぞ!!」
誰かの叫び声。
ノエルは落下しながら、薄れゆく意識の中で、東の空を見た。
分厚い夜の雲が切れ、そこから眩いほどの朝日の光が差し込んできている。
黄金色に輝く太陽の光が、川の水を、街の屋根を、そして落下していく自分を優しく包み込んでいく。
(ああ……綺麗ですね。おじいさん)
そのまま、ノエルの意識は深い暗闇へと落ちていった。
***
「……おい。……おい、起きろ」
ノエルの意識を引き戻したのは、控えめな、しかし必死な呼びかけだった。
『システム再起動。自己診断を実行……。各部損傷あり。生命活動に支障なし』
ノエルがゆっくりと青い瞳を開けると、そこは柔らかいベッドの上だった。
視界の端には、見覚えのある質素な天井。
体を起こそうとすると、全身の関節が軋み、激しい鈍痛が走った。右腕は応急処置として包帯が巻かれているが、感覚がひどく鈍い。
「……ここは」
「俺の宿だ。……川に落ちたお前を、街の連中が引き上げたんだ」
声のする方を向くと、そこには昨日、塩を投げつけてノエルを追い出した宿屋の主人が立っていた。
主人は気まずそうに目を逸らし、手にした洗面器をサイドテーブルに置いた。
「どうして、助けた。お前たち自動人形は、人間を殺すために造られたんだろう。どうして、自分が壊れるまで街を助けたんだ」
主人の声は震えていた。憎悪ではなく、深く、重い戸惑いによる震えだった。
息子を殺した憎き兵器。しかし、その兵器が命を懸けて街を救った。その事実を前に、主人の心の中の憎しみの行き場が失われていたのだ。
ノエルは痛む身体をゆっくりと起こし、窓の外を見た。
すっかり日が高く昇り、街にはいつもの活気が戻りつつある。巨大な大水車は、何事もなかったかのように、轟々と水しぶきを上げて回っていた。
「……私は、直しただけです」
ノエルは、透き通るような声で静かに答えた。
「壊れてしまったものを、元の形に繋ぎ合わせただけ。そこに、特別な理由はありません」
ノエルの言葉に、主人は言葉を失った。
ノエルはベッドから降りると、部屋の隅に置かれていた自分の革鞄と外套を手に取った。外套は破れ、泥で汚れていたが、中のスケッチブックは無事だった。
「ご迷惑をおかけしました。……宿代は、これで足りますでしょうか」
ノエルはカウンターの上に、昨日受け取ってもらえなかった銀貨を数枚、そっと置いた。
「ま、待て。お前の身体はボロボロだ。せめて、街の技師に見せて……」
主人が引き止めようと手を伸ばすが、ノエルは静かに首を振った。
「お気遣い、感謝いたします。ですが、私の構造は人間の技師には直せません。自らの魔力で少しずつ自己修復するしかありませんので、問題ありません」
ノエルは深く一礼し、宿屋の扉を開けた。
外に出ると、眩しい太陽の光が降り注いだ。
通りを歩く人々は、ノエルの姿を見ると、昨日とは違う顔をした。
相変わらず遠巻きにはしているが、その目に宿っていた明確な殺意と憎悪は鳴りを潜め、代わりに「畏怖」と、ほんの少しの「戸惑い」が混じっている。
感謝の言葉を投げかける者はいない。大戦の記憶が、そう簡単に彼らの口を開かせることはないのだ。
それでいいと、ノエルは思う。
街の入り口の石門まで歩いてきた時だった。
「……おい!」
後ろから声がして、ノエルが振り返る。
そこに立っていたのは、昨日路地裏でノエルに石を投げつけた、あの孤児の少年だった。
少年は息を切らし、ノエルを睨みつけるように真っ直ぐに見上げている。
ノエルは立ち止まり、少年が再び石を投げるのを静かに待った。
しかし、少年が差し出した手のひらに乗っていたのは、石ではなかった。
それは、いびつな形をした、小さな木彫りの『水車』の玩具だった。明らかに、不器用な子供がナイフで削って作ったものだ。
「……これ、お前の鞄から落ちてたんだからな! 拾ってやっただけだ!」
少年は顔を真っ赤にして叫ぶと、木彫りの水車をノエルの胸に乱暴に押し付け、そのまま脱兎のごとく街の中へと走り去ってしまった。
ノエルは、胸に押し付けられた木彫りの水車を見下ろした。
当然、そんなものは彼女の鞄には入っていなかった。
それは、少年の不器用な、あまりにも不器用な、感謝の形だった。
冷たい金属の胸の奥で、魔力炉心が温かく脈打つ。
ノエルはその小さな木彫りの水車を両手で包み込むと、人間の少女のように、柔らかく、そして美しく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
誰もいなくなった街道に向かって一礼し、ノエルは再び歩き出す。
満身創痍の身体を引きずりながらも、その足取りは昨日よりもずっと、軽やかだった。
遺された景色を巡る旅は、まだ始まったばかりだ。




