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追憶のアーティファクター ~遺されたスケッチブックと、想いを繕う自動人形~  作者: ぽてと


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第2話 『水車の街と、心無き石』

終着の街を旅立ち、ノエルは東へと続く街道を歩いていた。


吹き抜ける風が、街道沿いの背の高い草原を波のように揺らしている。

ザクッ、ザクッという、硬い革靴が乾いた土を踏む音だけが、等間隔に響く。ノエルの歩みは、人間のように疲労で速度が落ちることも、息が上がることもない。一定の歩幅と一定のリズムで、ただ淡々と距離を消化していく。


彼女は歩きながら、ふと足を止め、道端に咲く一輪の青い花を見つめた。

背負った革鞄からおじいさんのスケッチブックを取り出し、ページをめくる。いくつか描かれた風景の隅に、それと同じ形をした花の素描があった。


「……『リンドウ』」


横に添えられたおじいさんの丸い字を、ノエルは静かに読み上げる。

視覚センサーの記録領域にはすでにインプットされている情報だが、こうして実際に土に根を張り、風に揺れている実物を「見る」のは初めてだった。

冷たい鉄の指先でそっと花弁に触れる。柔らかく、わずかに湿り気を帯びた生命の感触。


(おじいさん。本物の花は、紙の上の線よりも、ずっと鮮やかな色をしているのですね)


心の中でそう語りかけ、ノエルはスケッチブックを鞄に戻した。

空は高く、澄み切っている。かつてこの空を埋め尽くしていた、硝煙の黒い雲も、爆撃機が落とす耳を劈くような轟音も、今はもうない。

世界はこんなにも静かで、美しい。

その事実を一つずつ胸の奥の魔力炉心に刻み込みながら、ノエルは再び歩き出した。


やがて、なだらかな丘を越えた先、眼下に大きな街が見えてきた。

大きな川の分岐点に作られたその街は、水路が網の目のように巡らされ、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。街のあちこちには大小様々な水車が設置されており、中でも街の中心には、天を突くような巨大な時計塔と、それと連動して回るひと際巨大な大水車が鎮座していた。

『水と時計の街、リヴィエール』。

地図に記された、彼女の最初の目的地であり、スケッチブックの最初のページに描かれた「星降る湖畔」へと向かうための中継地点だった。


街の入り口である石造りの門をくぐると、そこは活気あふれる喧騒に包まれていた。

荷馬車が行き交い、露店からは焼きたてのパンや香草の匂いが漂ってくる。水路を進む小舟からは、船頭たちの陽気な歌声が聞こえた。


ノエルは、珍しいものでも見るように周囲の景色を見渡しながら、大通りを歩き始めた。

しかし、彼女が街の中心部へと進むにつれ、周囲の空気が徐々に、しかし確実に変容していくのを感じ取った。


「……おい、あれを見ろよ」

「嘘だろ……。なんで、こんな街の真ん中を歩いているんだ……?」


陽気だった喧騒が、潮が引くようにスゥッと消えていく。

代わりに波紋のように広がっていったのは、ひそひそとした囁き声と、明確な「恐怖」、そして「憎悪」の感情だった。


道行く人々が、次々と足を止め、ノエルに視線を送る。

彼らの視線の先は、ノエルの美貌ではない。透き通るような銀糸の髪の隙間から覗く、首筋に刻まれた黒いバーコード状の認識番号。そして、手袋と袖の隙間からわずかに見える、人間のそれとは異なる、金属質の球体関節。


自動人形オートマタだ……。大戦の、殺戮人形が……」

「どうして動いているの? 軍の廃棄命令が出たはずでしょう……!?」


母親が、悲鳴のような声を上げて子供を背中に隠す。

露店の主人が、忌々しそうに商品を覆い隠し、舌打ちをする。

すれ違う人々は、まるで恐ろしい疫病にでも触れるかのように、ノエルから大きく距離を取り、道を開けた。


ノエルは足を止めることなく、ただ淡々とその奇異と拒絶の視線の中を歩き続けた。

彼女の表情に、悲しみや戸惑いはない。

ただ、その澄んだ青い瞳で、人々が自分に向ける感情の正体を、極めて論理的に解析していた。


(当然の反応です)


ノエルは心の中で静かに肯定する。

人間の寿命は短い。二十年という歳月は、彼らにとって戦争の記憶を風化させるには十分な時間かもしれない。しかし、愛する家族や友人を奪われた「傷」が癒えるには、あまりにも短すぎる。

ノエル自身がこの街の人々を直接殺めたわけではない。しかし、彼女という存在そのものが、人間にとっては歩く戦争の記憶であり、悪夢の象徴なのだ。


おじいさんが自分を拾い、匿うように村外れで暮らしていた理由が、今ならはっきりと理解できた。

おじいさんは、彼女をこの憎悪の目から守ってくれていたのだ。


日が傾き始めた頃、ノエルは路地裏にある小さな宿屋の扉を叩いた。

魔力で稼働する彼女に睡眠は必要ないが、長距離の歩行による駆動系のオーバーヒートを防ぐため、定期的な「停止休息」が必要だった。それに、おじいさんは生前、「旅に出たら、夜は安全な屋根の下で休むんだよ」と教えてくれていた。


カラン、と扉を開け、薄暗い宿の帳場に立つ。


「いらっしゃ……」


帳場に座っていた恰幅の良い主人は、愛想笑いを浮かべて立ち上がりかけたが、ノエルの姿を認めた瞬間、顔を強張らせ、その笑顔を凍りつかせた。


「……宿を、一晩お願いしたいのですが」


ノエルが丁寧に一礼し、銀貨を数枚差し出す。しかし、主人はその銀貨を受け取ることなく、まるで汚物を見るような目でノエルを睨みつけた。


「……帰れ」

「?」

「帰れと言っているんだ、この化け物め!!」


主人の怒鳴り声が、宿屋のロビーに響き渡る。


「うちの息子はな……西の戦線で、お前らみたいな銀髪の悪魔に引き裂かれて死んだんだ! 遺骨すら戻ってこなかった! どの面下げて人間の街を歩いている! 今すぐ出て行け!!」


主人はカウンターの奥から塩の入った瓶を掴み出し、ノエルに向かって乱暴に投げつけた。

パリーン! という音と共に瓶が壁で砕け、白い塩がノエルの銀髪と外套に降りかかる。

それは、明確な拒絶と、深い悲しみから来る暴力だった。


「……承知いたしました。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」


ノエルは顔についた塩を払うこともせず、静かに深く一礼すると、踵を返して宿屋を出た。


外はすでに夕闇に包まれ始めていた。

ノエルは街の中心部を避け、人気のない水路沿いの暗い道を歩いた。

宿は取れないだろう。なら、橋の下か、街の外れで夜を明かすしかない。


その時だった。


「人殺しっ!!」


鋭い声と共に、暗がりから何かが飛んできた。

ノエルの優れた視覚センサーは、それが子供の手によって投げられた、拳ほどの大きさの石であることを瞬時に捉えていた。

彼女の反射神経と運動能力を以てすれば、それを避けることは造作もないことだった。飛来軌道を予測し、首を数ミリずらすだけでいい。


しかし、ノエルは避けなかった。


ガンッ!!


鈍い音を立てて、石がノエルの額に命中する。

人間の皮膚であれば確実に裂け、血が吹き出しているであろう衝撃。ノエルの額は強靭な装甲で守られているため、傷一つ付かなかったが、衝撃で彼女の足がわずかに止まった。


石を投げたのは、路地裏の影に隠れていた十歳くらいの少年だった。

ボロボロの服を着た、孤児だろうか。少年の目は、恐怖と、それ以上の激しい憎悪に見開かれていた。


「僕の父さんを返せ! 母さんを返せ! この、人殺しの鉄屑が!!」


少年は泣き叫びながら、二つ目、三つ目の石を拾い、手当たり次第にノエルに投げつける。

石は彼女の肩に、胸に、幾度も当たって弾け飛んだ。


「……」


ノエルは一切の抵抗をせず、ただ立ち尽くして、その石を浴び続けた。

彼女の脳裏に、かつてオルゴールを壊して泣き崩れた、おじいさんの姿が重なる。

目の前で泣き叫ぶ少年の胸の奥にも、あの時のおじいさんと同じ、真っ暗で巨大な空洞があるのだと、ノエルには分かった。


(痛いですね)


ノエルの額は割れていない。身体にも傷はない。

しかし、彼女の胸の奥深く、魔力炉心の周辺が、締め付けられるように痛んだ。

自動人形として造られた自分に向けられる、この明確な殺意と憎悪。それは、人間が人間を愛しているからこそ生まれる、悲しい感情の裏返し。


やがて、投げる石が尽きたのか、少年は息を切らし、ノエルを強く睨みつけてから、路地裏の奥へと走り去っていった。


ノエルは少年の足音が完全に消えるのを待ってから、足元に転がった石を一つ拾い上げた。

尖った、ただの石。

ノエルはその石をそっと路地の隅に置くと、再び歩き出した。


その夜、ノエルは街を東西に分断する巨大な大水車のすぐそば、古い石橋の下の暗がりに身を潜めた。

冷たい夜風が水面を撫で、容赦なく彼女の体温を奪っていく。

ノエルは膝を抱え、自身の魔力駆動を「最小待機モード」へと切り替えた。視覚センサーの出力を落とし、青い瞳がゆっくりと閉じられる。

暗闇の中、上空から絶え間なく聞こえてくる大水車の巨大な歯車が回る音だけが、彼女の子守唄だった。


『お前はもう、兵器なんかじゃない。……ノエルだ』


目を閉じれば、いつだってあの温かい声が蘇る。

おじいさん。私は、人間の悲しみを直すことができますか。

この身に向けられる憎しみを、いつか解きほぐすことができるのでしょうか。

答えのない問いを反芻しながら、ノエルの意識は静かな休眠状態へと沈んでいった。


――異変が起きたのは、深い夜の帳が降りた、深夜のことだった。


ギガァァン……!!


地鳴りのような、金属が激しく軋む不快な轟音が、静まり返ったリヴィエールの街に響き渡った。


休眠状態から瞬時に覚醒したノエルは、青い瞳を見開き、頭上を見上げた。

橋の上に上がり、音の出処を確認する。


街の中心部。星空を背景に黒々とそびえ立つ、巨大な時計塔と大水車。

常に轟々としぶきを上げて回っていたはずのその巨大な車輪が、不自然な角度で傾き、完全に動きを止めていた。


「……主軸の、破断」


ノエルの視覚センサーが、遠く離れた水車の中心部を捉え、瞬時に異常を解析する。

大水車を支え、街全体の動力源へと動力を伝達している直径一メートル近い巨大な鋼鉄の主軸。それが経年劣化と金属疲労によって、真っ二つにへし折れていた。


街のあちこちで、人々が目を覚まし、窓に明かりが灯り始める。

「おい、水車が止まったぞ!?」

「時計塔の動力もだ! 水門の制御が効かなくなるぞ!」

「大変だ、川の水が街に溢れる!!」


パニックに陥った人々の怒号と悲鳴が、夜風に乗ってノエルの耳に届く。

リヴィエールの街は、この大水車によって水路の推移を調整している。水車が止まれば、上流から流れ込む川の水が行き場を失い、数時間後にはこの美しい街の半分が水底に沈むことになる。


街の技師たちが松明を手にして水車の足元に集まっていくのが見えた。

しかし、あの巨大な主軸の破断は、人間の手作業で、しかも数時間で直せるような代物ではない。新しい代わりの軸を鋳造し、クレーンで運搬するだけでも数日はかかる。


街が、沈む。

悲鳴を上げる人々の顔が、昼間、ノエルに石を投げた少年や、宿屋の主人の顔と重なる。


ノエルは、無表情のまま、背負っていた革鞄を石橋の上に静かに置いた。

そして、外套を脱ぎ捨てる。


『お前が誰かを傷つけるための機能は、これからの世界には必要ない』


おじいさんの言葉が胸をよぎる。

――はい、おじいさん。私はもう、誰も傷つけません。


ノエルは大きく踏み切ると、橋の欄干を蹴り、驚異的な跳躍力で夜の闇へと飛び立った。

銀色の髪が、星明かりを反射して美しく尾を引く。


「……駆動系リミッター解除。出力、最大」


彼女の白魚のような指先から、眩いほどの銀色の光が放たれた。

それは、かつて命を奪うためだけに振るわれた『魔力糸』。

しかし今、彼女の指先から紡ぎ出される無数の糸は、大水車の巨大な主軸を繋ぎ止めるためだけの、強靭で、優しい救済の糸として、夜空に幾重にも展開されていった。

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