第17話 『命の亀裂と、雪山の死闘(後編)』(3/3)
雲海の彼方から昇る黄金色の朝日が、塔の屋上を、そして二人の身体を優しく包み込んでいく。
夜空に残る無数の星々の瞬きと、世界を暖める太陽の光が同時に存在する、奇跡のような時間。
氷の絶壁も、吹き荒れていた吹雪も、すべてがはるか眼下の雲の下へと沈み、ここにはただ、どこまでも澄み切った静寂と光だけがあった。
「……あぁ」
テオの腕の中で、ノエルの青い瞳に、その圧倒的な光の帯が映り込む。
彼女の視覚センサーのレンズにヒビが入り、視界の半分はすでに機能していなかった。それでも、残された光彩は、おじいさんが愛し、彼女にどうしても見せたかった『世界で一番美しい景色』を、しかと捉えていた。
『……データと、一致、します』
ノエルが、掠れた声でぽつりと呟いた。
『おじいさんが……夢に見ていた、景色。……でも、私の視覚センサーが捉えている現実の光景は……おじいさんの絵よりも、ずっと……綺麗、です』
「ああ、そうだな。……こんなすげえ景色、今まで生きてきて一度も見たことねえよ」
テオは、ノエルの冷え切った身体を抱きしめたまま、涙声で笑った。
「これでお前は、おじいさんのタスクを全部クリアしたんだ。……すごいぞ、ノエル。お前は、最高のアーティファクターだ」
『……テオ。……鞄を』
ノエルの視線が、テオの背負っている革鞄へと向けられた。
テオはハッとして、凍りついた手で鞄を開け、中から大切に布で包まれたオルゴールと、一冊のスケッチブックを取り出した。
「これだな。……描くのか? この景色を」
『……はい』
テオはスケッチブックを開き、おじいさんの絵が終わっている次のページ――真っ白な『最後の白紙のページ』を広げ、ノエルの膝の上に置いた。
そして、鞄に入っていた鉛筆をノエルの左手に握らせようとする。
しかし、ノエルの指はすでに完全に硬直しており、鉛筆を握ることすらできなかった。
「……くそっ」
テオは自分の手をノエルの左手に重ね、彼女の指ごと、鉛筆をしっかりと握り込んだ。
「俺が支える。……お前の描きたいように、手を動かせ」
『……ありがとう、ございます』
テオの温かい手に導かれ、ノエルの冷たい手が、ゆっくりと白紙のページの上を滑り始めた。
カツッ、ササッ……。
静かな屋上に、鉛筆が紙を擦る音だけが響く。
ノエルが描こうとしているのは、目の前に広がる荘厳な星空や雲海ではなかった。
彼女の視覚センサーの記録ではなく、彼女の胸の奥で温かく脈打っていた『心』の記録。
(私は、何も直せなかったかもしれない)
ノエルは、薄れゆく意識の中で、これまで出会ってきた人々の顔を思い浮かべていた。
行商人の絶望を直したのは、テオの言葉だった。
からくり街の職人たちに、誇りという心を教えられた。
エレナさんの憎しみを溶かしたのは、おじいさんの愛の記憶だった。
(私はただ、不器用に糸を紡いでいただけ。……でも、皆が私に、温かいものをくれた)
鉛筆が、少しずつ形を成していく。
それは、いびつで、お世辞にも上手とは言えない、子供の落書きのような線だった。
描かれていたのは、丸と線で構成された『人間』たち。
おじいさんがいて、エレナさんがいて、怒った顔の親方がいて、行商人がいる。
そして、その中心には。
丸眼鏡をかけた不格好な青年と、その隣で、彼と手を繋いで笑っている『銀髪の少女』の姿が描かれていた。
「ノエル……これ……」
テオが、その絵を見て息を呑む。
それは模写ではない。兵器として造られた自動人形が、自らの想像力で生み出した、初めての『願いの景色』だった。
『……おじいさんは、すべてのページを……描き切れませんでした』
ノエルが、鉛筆を止め、静かに言った。
『だから、ここは……私が、描きます。……私が見つけた、この世界で一番……温かくて、美しい景色の、記録です』
「あぁ……っ。そうか……すげえ、綺麗な絵だ。おじいさんのどんな絵よりも、最高の傑作だ……」
テオの涙が、ポタポタとスケッチブックのページに落ちて、鉛筆の線を滲ませる。
ノエルの指から、コロンと鉛筆が転がり落ちた。
それが、彼女の魔力炉心が完全に尽き果てた合図だった。
『……テオ』
ノエルの青い瞳が、ゆっくりと、テオの顔を見上げた。
その瞳の光は、風の前の灯火のように、今にも消え去ろうとしている。
『……私は、兵器として……造られました。……たくさんのものを、壊すための……悪魔、でした』
「違う! お前は悪魔なんかじゃない! 俺を、みんなを救ってくれた……っ!」
『……でも』
ノエルは、最後の力を振り絞って、人間のように、本当に美しく、柔らかく微笑んだ。
それは、プログラムされた作り笑いではなく、彼女の魂が心の底から浮かべた、本物の笑顔だった。
『……テオと、旅ができて……良かった。……人間の心は、とても……温かかった、です』
ノエルの右腕――からくり街の職人たちが作ってくれた真鍮の装甲が、カチャリと小さな音を立てて雪の上に落ちた。
『……私、壊さずに……ちゃんと、直せました、か?』
「直したよ! お前は世界中を直した! 俺の心だって、お前が全部直してくれたんだ!!」
テオは、ノエルの身体を強く、壊れるほどに強く抱きしめた。
「だから……頼む、置いていかないでくれ。お前がいなきゃ、俺はまた、空っぽの臆病者に戻っちまう……っ!!」
『……大丈夫、です。……テオの言葉は……私の、心の中に……ずっと、います、から』
ノエルの声が、もうノイズすらも消え、ただの風の音のように微かになる。
『……あぁ。……太陽が、とても……温かい……』
それが、彼女の最後の言葉だった。
ピィィィィン……。
ノエルの胸の奥で、かすかに残っていた駆動音が、完全に停止した。
星空の光を映していた彼女の青い瞳が、静かに、ゆっくりと閉じられる。
純白に輝いていた銀色の髪から魔力の光が抜け落ち、ただの冷たい無機物へと変わっていった。
『――全システム、完全停止』
星読みの頂の、荘厳な朝日の中。
彼女はついに、長く過酷だった旅の終わりを迎え、ただの冷たい、美しい彫像(人形)へと戻った。
「……ノエ、ル……?」
テオが、震える声で呼びかける。
しかし、腕の中の少女から返事はない。呼吸もなく、心音もない。
ただ、彼女の頬には、先ほどまで確かに命があった証である、一筋の透明な冷却水の跡が残っていた。
「ああああぁぁぁぁぁぁッ!!!」
テオの慟哭が、澄み切った雲海の空へと響き渡った。
彼は、冷たくなったノエルの身体にすがりつき、子供のように声を上げて泣いた。
世界の果ての絶景の中で、彼を慰めるものは何もない。ただ、太陽の光だけが、機能を停止した少女と、残された青年の姿を無慈悲なほどに美しく照らし出していた。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
テオは、泣き腫らした目で、ゆっくりと顔を上げた。
ノエルの顔は、信じられないほど穏やかで、まるで気持ちのいい夢を見ているかのように安らかだった。
テオは、ノエルの膝の上にあったスケッチブックをそっと手に取った。
彼女が最後に描いた、自分たちの笑顔の絵。
そして、その隣に転がっていた、おじいさんの木彫りのオルゴール。
「……俺は、ペテン師だからな」
テオは、掠れた声でぽつりと呟いた。
彼は丸眼鏡を外し、袖で乱暴に涙を拭うと、凍りついた手で、自分の上着のポケットから使い古した『手帳』を取り出した。
そこには、これまでの旅でテオが書き留めてきた、ノエルのすべての記録がびっしりと詰まっている。
「お前がこの世界を直してくれたように……今度は俺が、お前の生きた時間を、言葉でこの世界に繋ぎ止めてやる。……誰にも、お前を『悪魔』なんて呼ばせない。お前がどんなに不器用で、どんなに優しかったか……世界中の人間に、読ませてやる」
テオは、ノエルの冷たい額に、そっと自分の額を押し当てた。
それは、言葉で世界を紡ぐ人間から、世界を繕った機械の少女への、絶対の誓いだった。
「……少しだけ、待ってろよ。相棒」
テオは、ノエルの身体を遺跡の最も神聖な祭壇の上――星空と朝日が一番美しく見える場所へとそっと安置した。
彼女の胸の上に、おじいさんのオルゴールと、彼女が描き足したスケッチブックを抱かせるように置く。
そして、テオは立ち上がり、背を向けた。
足取りは重く、心は引き裂かれそうだった。だが、彼の瞳に宿る『記者』としての、そして彼女の『ナビゲーター』としての意志の光は、決して消えてはいなかった。
朝日を背に受けて、一人の青年が雪山を下りていく。
その手には、世界を直した少女の真実を告げる、一冊の手帳が強く握りしめられていた。




