第16話 『命の亀裂と、雪山の死闘(後編)』(2/3)
パァァァァァンッ……!!
ノエルの胸の奥で、決定的な破断音が鳴り響いた瞬間。
彼女の身体から溢れ出したのは、かつてないほどに純粋で、そして悲しいほどに美しい『白銀の光』だった。
猛烈な勢いで迫り来る巨大な氷の竜巻。すべてを微塵に切り刻む絶死の魔法が、ノエルの放った光の波と激突する。
しかし、そこに鼓膜を破るような破壊音は生まれなかった。
シュウゥゥゥ……。
氷の刃が、銀色の光に触れた端から、まるで春の陽射しを浴びた雪のように、優しく解けて水滴へと変わっていく。
ノエルの指先から紡ぎ出された、命そのものを編み込んだ幾万の『魔力糸』。それは破壊の魔法を力でねじ伏せるのではなく、その魔法を構成する複雑な術式そのものを、根本から優しく解きほぐしていたのだ。
「ノエル……!」
強風が止み、光に包まれた空間の中で、テオは信じられない思いでその光景を見つめていた。
ノエルの銀糸は、竜巻を完全に無害化しながら真っ直ぐに伸び、巨大な古代ゴーレムの身体へと到達した。
岩と氷で構成された強固な装甲の隙間を縫い、ゴーレムを動かしている中心核へと、極細の糸が優しく絡みつく。
『――ガ……システム、干渉……。防衛……プロトコル……』
ゴーレムの単眼が明滅し、混乱したようなテレパシーが響く。
ノエルは、ボロボロになった身体で、巨大な門番を見上げて静かに語りかけた。
「あなたは……何百年も、ここでずっと、この星の景色を守ってきたのですね」
彼女の声は、どこまでも平坦で、機械的で。
けれど、これまでのどんな人間の言葉よりも、深い慈愛に満ちていた。
「もう、誰も傷つけなくていいのです。……あなたの役目は、終わりました。長い間、ご苦労様でした」
ノエルが、両手をそっと胸の前で合わせる。
それが、アーティファクターとしての、最後の『修復』の合図だった。
「……おやすみなさい」
ピシッ、という小さな音が、ゴーレムの中心核から響いた。
直後、巨大な岩と氷の身体が、まるで最初から砂上の楼閣であったかのように、音もなく崩れ落ちていく。
それは破壊ではなく、自然の摂理へと還っていくような、どこまでも静かで美しい解体だった。
最後に残された黄金の単眼が、ノエルに向かって一度だけ瞬きをし……そして、光を失って雪の中へと消えた。
遺跡の門を塞いでいた巨大な障害は、完全に排除された。
その奥には、天へと続く遺跡の塔への道が、真っ直ぐに開かれている。
「……テオ。道が……開きました」
ノエルが、振り返ろうとして。
その身体が、糸の切れた操り人形のように、パタリと雪の上へと崩れ落ちた。
「ノエルッ!!」
テオが雪を蹴立てて駆け寄り、倒れたノエルを抱き起こす。
「おい、ノエル! しっかりしろ! 目を開けろ!!」
テオの腕の中で、ノエルはもはやピクリとも動かなかった。
先ほどまで眩いほどに輝いていた銀色の髪は光を失ってくすんだ灰色に変わり、純白の肌には、陶器が割れたような黒い亀裂が無数に走っている。
彼女の胸元から聞こえていた駆動音は、完全に停止していた。
『……エラー。主魔力炉心、完全崩壊。……予備電源に、移行します。……残存稼働時間……』
ノエルの口から、ノイズまみれの警告音が微かに漏れた。
「喋るな! 頼むから、もうシステムを使うな!」
テオは、ノエルの冷たすぎる手を両手で強く握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
『……テオ。泣かないで、ください』
ノエルの左の青い瞳だけが、わずかに開かれ、テオの顔を見つめていた。
彼女の身体機能はすでに完全に死滅している。指一本動かすこともできない。ただ、視覚センサーと音声モジュールだけが、最後の力を振り絞って稼働している状態だった。
『私の……タスクは、完了しました。……だから、あなたは……一人で、あの塔を……』
「ふざけるな!!」
テオの怒声が、静まり返ったカルデラに響き渡った。
彼はノエルの言葉を遮り、彼女の重い身体を強引に抱き起こし、自分の背中へと背負い上げた。
『……テオ? 私の機体重量は……』
「重くねえよ! こんなの、俺が今まで背負ってきた見栄や虚勢に比べたら、羽みたいに軽いぜ!」
テオは、凍傷で感覚のない両足で、雪を強く踏みしめ、立ち上がった。
ノエルの全重量が、体力のないテオの背中にのしかかる。骨が軋み、膝が悲鳴を上げる。それでも彼は、決して彼女を地面に下ろそうとはしなかった。
「一人で見ても、意味がないんだよ! 俺は、お前にあの景色を見せるためにここまで来たんだ! お前がいなきゃ、俺の書く『本』は未完成のままだろうが!」
テオは、ノエルを背負ったまま、遺跡の奥――巨大な塔へと続く石段へと歩き始めた。
一歩。また一歩。
古代の石段は、厚い氷に覆われて滑りやすく、テオは何度も足を滑らせて膝を打ち付けた。
その度に激痛が走り、意識が遠のく。しかし、背中のノエルの冷たさが、彼を現実に繋ぎ止めていた。
「おい、ノエル! 起きてるか!」
テオは、背中のノエルが完全に意識を手放さないよう、絶え間なく声をかけ続けた。
「……お前の、好きな花は何だ! おじいさんの描いたスケッチブックの中で、一番好きな景色はどれだ!」
『……青い……花。……星降る、湖畔の……』
ノエルの声が、テオの耳元で掠れた息のように響く。
「そうか! 青い花だな! ……王都の近くに、でっかい植物園があるんだ! この旅が終わったら、そこに連れてってやる! お前の見たこともない花が、山ほど咲いてるぞ!」
『……はい。……楽しみ、です……』
「からくり街の親方たちにも、また会いに行こうぜ! 今度は俺が、あいつらの作ったからくり時計を、言葉一つで百倍の値段で売り捌いてやるからな!」
テオは泣きながら、決して叶うことのないかもしれない『明日』の約束を、次々と紡ぎ出していった。
それは、言葉で世界を繕ってきた彼なりの、ノエルの命を少しでも長く繋ぎ止めるための『魔法』だった。
『……テオ。あなたの言葉は……いつも、とても……温かい、ですね』
ノエルの声は、もう限界に近づいていた。
『私……あなたと、旅ができて……本当は、もっと……』
「もっと何だ! 言ってみろ! お前の我儘なら、何百回だって聞いてやる!」
『……もっと……生きて、テオと……』
ノエルのその言葉は、悲しいほどに純粋で、人間らしい『生への執着』だった。
おじいさんがくれた心が、テオとの旅で成長し、ついに彼女の中で「死にたくない」「もっと一緒にいたい」という、最も尊い感情を芽生えさせていたのだ。
「……あぁ。俺もだ。俺も、お前ともっと旅がしてえよ!!」
テオは涙でぐしゃぐしゃになった顔を振り上げ、最後の力を振り絞って、塔のらせん階段を駆け上がった。
肺が破けそうだ。心臓が限界を告げている。
だが、視界の先には、塔の頂上へと続く最後の扉の光が見えていた。
「着くぞ、ノエル……! 目を開けろ!!」
テオが、重い石の扉を体当たりで押し開けた。
――その瞬間。
視界を遮るものは何もない、果てしなく広がる『空』の空間へと、二人は飛び出した。
「ハァッ……ハァッ……あぁ……っ!」
テオは塔の屋上の冷たい石畳に倒れ込みながらも、背中のノエルを庇うようにして、上体を起こした。
まだ夜明け前。
頭上には、言葉を失うほどに圧倒的な、満天の星空が広がっていた。
まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くで、無数の星々が、宝石箱をひっくり返したように眩く輝いている。
そして、眼下には。
雪山の猛吹雪を引き起こしていた分厚い雲海が、どこまでも果てしなく、海のように静かに広がっていた。
「……見ろ、ノエル。……ここが、星読みの頂だ」
テオは、荒い息を整えながら、腕の中のノエルをそっと起こし、その視線を空へと向けさせた。
「……」
ノエルの、光を失いかけていた青い瞳に、無数の星々の輝きが映り込む。
その時、東の空の地平線――雲海の彼方から。
世界を黄金色に染め上げる、圧倒的な『朝日』が、ゆっくりと昇り始めた。




