最終話『追憶のアーティファクター』
ノエルが星読みの頂で永遠の眠りについてから、三年の月日が流れていた。
王都の中心部にある大書店のショーウィンドウは、今、一色の『群青色』に染まりきっている。
美しく装丁されたその本の表紙には、銀色の箔押しでタイトルが刻まれていた。
『追憶のアーティファクター ~世界を直した銀髪の少女~』
著者の名前は、テオ・レティス。
かつて三流ゴシップ誌で日銭を稼いでいた男が書き上げたそのノンフィクション小説は、発売されるや否や、大陸中を席巻する空前のベストセラーとなっていた。
大戦で「銀髪の悪魔」と恐れられた自動人形が、実は誰よりも優しく、不器用な心を持っていたこと。
壊れた馬車を直し、時計職人の誇りを守り、人間の家族の絆を修復し、最後には自らの命を削って、自分を追う軍の兵士たちの「罪」すらも溶かして見せたこと。
その真実の記録は、戦争の傷跡に苦しむ多くの人々の心を打ち、世界中の書店で涙と共に迎え入れられた。
軍の上層部は世論の猛反発を受けて解体・再編され、自動人形に対する不当な迫害も、今ではすっかり影を潜めている。
「……あいつ、こんなに立派な本になりやがって。俺より稼いでるんじゃないか?」
書店の前で、テオはコートのポケットに手を突っ込みながら、誇らしげに、そして少しだけ寂しそうに笑った。
三年経ち、彼の背は少し伸び、丸眼鏡の奥の目には、かつての斜に構えた臆病な光はない。一流の物書きとしての、確かな自信と落ち着きが宿っていた。
「テオさん!」
背後から声をかけられ、テオが振り返ると、そこにはセントラルで別れたエレナの姿があった。
彼女は再建された美しい洋館に住み、今では亡き父の遺志を継いで、戦争孤児や自動人形を支援する財団の代表を務めている。
「エレナさん。……どうしたんですか、そんなに急いで」
「届いたのよ! ギアポートの親方たちから、ついに……!」
エレナは息を弾ませながら、大切そうに抱えていた白木の箱をテオに差し出した。
テオは心臓を跳ねさせながら、震える手でその箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、透き通るような青い輝きを放つ、美しいクリスタルガラスと真鍮で組み上げられた『機械の心臓』だった。
「……親方たちが?」
「ええ。王都の最高峰の技師たちと、ギアポートの職人たちが、三年かけて共同開発したの。あなたの本を読んだ世界中の読者からの寄付金と、私の財団の技術提供の、すべてを結集して」
エレナは、涙ぐみながら微笑んだ。
「軍事用の『魔力炉心』じゃないわ。人を殺すための機能なんて、一つも入っていない。……これは、ただ一人の不器用な女の子が、もう一度目を覚まして、明日を歩くためだけに作られた……人間の手による、本物の『心』よ」
「……」
テオは、その青く輝く心臓を両手で包み込み、深く、深く頭を下げた。
おじいさんがノエルに与えた心は、世界を直した。
そして今度は、直された世界の人々が、総力を挙げてノエルの心を直そうとしているのだ。
「……行ってきます。相棒を、迎えに」
テオは力強く頷き、再び北の最果て――星読みの頂へと向かう旅に出た。
猛烈な吹雪に阻まれていた三年前とは打って変わり、テオの二度目の登頂は、驚くほど穏やかな天候に恵まれていた。
万全の装備と案内人のサポートを受けながら、テオはかつて命懸けで這い上がった氷の斜面を踏み越え、古代の天文台遺跡へと辿り着いた。案内人をカルデラに残し、テオは一人で遺跡の奥へと進む。
重い石の扉を押し開け、塔の屋上へと出た。
そこは、三年前と何も変わらない、静寂と澄み切った空気に包まれていた。
そして、祭壇の上。
ノエルは、あの日テオが安置した姿のまま、雪と氷に覆われ、美しい彫像のように眠っていた。
特殊合金の身体は腐敗することもなく、ただ静かに、再び時が動くのを待っているかのようだった。
「……待たせたな、ノエル」
テオは、ノエルの身体を覆っていた雪を優しく払い落とし、彼女の冷たい頬に触れた。
「お前のおかげで、俺はすげえ立派な本を書けたぞ。世界中の人間が、お前の名前を知ってる。……もう誰も、お前を悪魔なんて呼ばない」
テオは、鞄の中から白木の箱を取り出し、青く輝く『新しい心臓』を手に取った。
そして、ノエルの胸元の装甲を開き、完全に機能を停止して黒くひび割れていた古い魔力炉心を、そっと取り外した。大戦の呪縛そのものだったその炉心は、役目を終えたように砂となって風に消えた。
代わりに、世界中の人々の祈りと技術が詰まった新しい心臓を、彼女の胸の奥へと丁寧に接続する。
カチッ……。
部品が噛み合う、小さな音が鳴った。
しかし、ノエルの目は開かない。駆動音も聞こえてこない。
(……おかしい。完璧に接続したはずなのに)
テオの顔に、焦りの色が浮かぶ。
エレナは言っていた。「物理的な接続は完璧でも、完全に停止した自動人形の自我を再起動させるには、彼女の魂を呼び覚ますような『強い鍵』が必要かもしれない」と。
「鍵……」
テオは、祭壇の上に置かれたままになっていた『スケッチブック』と、あの『木彫りのオルゴール』に目をやった。
テオは震える手でオルゴールを手に取り、ゆっくりとゼンマイを巻いた。
チロロ……チロロ……。
静まり返った世界の果てに、あの日、エレナの心を溶かした優しい子守唄のメロディが響き渡る。
「……起きろよ、ノエル」
テオは、ノエルの手を握りしめ、言葉を紡いだ。
かつて、数々の絶望をひっくり返してきた、ペテン師の、そして相棒としての『言葉』を。
「お前が描いたスケッチブックの最後のページ……。おじいさんのタスクは終わったかもしれないけど、俺との約束はまだ終わってないだろ」
テオの目から、三年前と同じように涙がこぼれ落ち、ノエルの手の甲を濡らした。
「王都の植物園に行って、青い花を見るんだろ! からくり街の親方たちに、お前の新しい腕を見せびらかしに行くんだろ! ……起きろ! 世界にはまだ、お前が直さなきゃいけないガラクタが、山ほど転がってるんだぞ!!」
テオの叫びと、オルゴールのメロディが、新しい心臓の青い光と共鳴する。
人間の『想い』という名の魔力が、クリスタルガラスの心臓の中で弾けた。
トクン……。
静かな屋上に、たった一度、小さな鼓動が鳴った。
テオは息を呑み、涙で滲む目を必死に見開いた。
トクン……トクン……シューゥゥゥ。
ノエルの身体から、三年間止まっていた排熱の白い蒸気が、静かに吐き出された。
純白の肌に赤みが差し、光を失っていた銀色の髪が、朝日を浴びて再び月光のような輝きを取り戻していく。
そして。
長い、長い夢の底から浮かび上がるように。
ノエルの、透き通るような青い瞳が、ゆっくりと開かれた。
「……」
ノエルの視界に、真っ青な空と、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、大好きな青年の顔が映り込む。
『……音声モジュール、再起動。……システム、オールグリーン』
ノエルは、不思議そうに自分の両手を見つめ、それから、胸の奥で温かく、力強く脈打つ新しい心臓の音に耳を澄ませた。
「ノエ……ル……?」
テオが、信じられないものを見るような声で名前を呼んだ。
ノエルは、少しだけ首を傾げ、三年前と全く変わらない、平坦で、けれどひどく優しい声で答えた。
「おはようございます、テオ。……少し、眠りすぎてしまったようです」
「……っ!! 馬鹿野郎!!」
テオは、ノエルの身体を力任せに抱きしめた。
三年前のあの冷たさはない。彼女の身体からは、新しい命の熱が、ぽかぽかと温かく伝わってくる。
「……遅いんだよ。三年も待たせやがって……!」
「……三年」
ノエルは、テオの背中に腕を回し、優しくポンポンと叩いた。
「私のデータ照合によれば、テオの身長が二センチ伸び、衣服の材質が高級な絹にアップグレードされています。……私のいない間に、随分と出世したのですね、相棒」
「うるさい! 全部お前のおかげだろうが!」
テオが泣き笑いしながら顔を上げると、ノエルも、青い瞳を細めて、人間のように柔らかく微笑んだ。
彼女の目から、今度こそエラーではない、本物の喜びの涙が、一筋こぼれ落ちた。
「……ありがとうございます、テオ。私の心を、直してくれて」
二人は立ち上がり、塔の屋上から、眼下に広がる世界を見下ろした。
朝日に輝く雲海。そのずっと下には、彼女が傷つきながらも守り抜き、彼が言葉で繕い続けた、美しくも不器用な世界が広がっている。
「さあ、行くぞノエル」
テオが、新しい鞄を背負い直して、ニカッと笑った。
「お前の新しいスケッチブックを、買いに行かなきゃな。これからの旅は、お前自身が見たい景色を、全部そのページに描き込んでいくんだ」
「はい。……対人交渉と資金の調達は、これまで通り、テオのタスクでお願いしますね」
「任せとけ! 俺の言葉の魔法は、さらに磨きがかかってるからな!」
軽口を叩き合いながら、二人は遺跡の階段を降りていく。
兵器として生み出され、世界を直そうとした銀髪の少女。
言葉で真実を紡ぎ、彼女の命を繋ぎ止めた青年。
彼らの足跡は、やがて雪解けの水と共に消えていくかもしれない。
しかし、彼らが直した人々の心と、これから出会うであろう新たな世界の色は、一冊の『本』と共に、いつまでも色褪せることなく語り継がれていくことだろう。
真っ白な明日のページに向かって、追憶のアーティファクターの新たな旅が、今、始まる。




