第14話 『命の亀裂と、雪山の死闘(前編)』(3/3)
猛烈な吹雪が吹き荒れる雪山の中腹。
完全に解体された魔導重砲機の残骸の傍らで、テオは機能停止のカウントダウンを告げられたノエルを抱きしめたまま、雪の上にへたり込んでいた。
「三時間……。そんなの、嘘だろ……。なあ、ノエル、嘘だって言ってくれよ……」
テオの涙が、ノエルの凍りつき始めた頬にポタポタと落ちる。
しかし、ノエルの口からは、先ほどまでの滑らかな合成音声ではなく、ひどくノイズの混じった掠れ声しか出力されなかった。
『……音声モジュール、破損率六十パーセント。……これ以上の、自律歩行は……困難です』
ノエルの足から、完全に力が抜け落ちているのが分かった。
物理的な破損ではない。彼女を動かしていた魔力炉心のエネルギーが枯渇し、生命維持――最低限の思考回路と記憶領域を保つことだけに、残されたすべての力を回しているのだ。
「……ッ」
その光景を、少し離れた場所から見ていた男がいた。
ヴァルガス大尉だ。
彼は、自分たちを殺さず、ただ武器だけを奪って見せた『銀髪の悪魔』が、人間の青年の腕の中で、ただの弱々しい少女として命を散らそうとしている姿を、呆然と見つめていた。
「なぜだ……」
ヴァルガスが、乾いた唇を震わせて呟いた。
「お前は、我々を殺してその魔力炉心を奪えば、自分の寿命を延ばすことだってできたはずだ! 大戦中のシグマ・モデルには、敵の魔力を吸収する機能があった! なぜ……自分を壊してまで、人間を殺さなかった!」
ヴァルガスの悲痛な叫びに。
ノエルは、テオの腕の中でわずかに首を動かし、残された青い瞳で彼を見た。
『……奪うことは、私の……タスクでは、ありません』
ノエルの掠れた声が、吹雪の中に静かに響く。
『おじいさんが……私にくれたのは、直すための、手です。……私は、アーティファクター、だから。……もう、誰も、壊したくない』
「……ッ!」
ヴァルガスは、その言葉を聞いて、両手で顔を覆い、雪の上に深く膝をついた。
軍の命令に従い、何万という命を奪ってきた自分たち。戦争が終わってもなお、その狂気にすがりついていた自分たち。
それを、兵器として造られたはずの彼女が、自らの命を削ってまで否定し、止めてくれたのだ。これ以上、自分たちが罪を重ねて、壊れてしまわないように。
「……行け」
ヴァルガスは、顔を覆ったまま、ひねり出すような声で言った。
「我々は……もう、お前たちを追わない。この雪山で、軍の第八魔導特務部隊は、完全に全滅した……」
ヴァルガスの言葉に、周囲の残党兵たちも深く頷き、ノエルに向かって静かに頭を下げた。
それは、恐怖による服従ではなく、自らの命と魂を救ってくれた『聖女』に対する、心からの敬意だった。
「……行くぞ、ノエル」
テオは、雪を蹴って立ち上がった。
そして、動けなくなったノエルの身体を、背中にしっかりと背負い上げた。
『……テオ。私の機体重量は、特殊合金の骨格により、一般的な人間の女性よりも……三十パーセント以上、重いです。……今の猛吹雪の中で、私を背負って登頂するのは……テオの生存確率を、著しく低下させます』
ノエルが、テオの背中で弱々しく告げる。
『私を……ここに、置いていって、ください。……テオだけなら、下山して、生き延びることが……』
「馬鹿野郎!!」
テオの怒号が、ノエルの言葉を遮った。
「置いていくわけないだろ! お前は今まで、俺の命を……いや、俺の空っぽだった心を、ずっと背負って一緒に歩いてきてくれたじゃないか!」
テオは、ノエルの膝裏を抱える手に、ギリッと力を込めた。
確かに、ノエルの身体は重かった。生身の人間で、しかも体力のないテオにとっては、この猛吹雪の雪山で背負って歩くなど、自殺行為に等しい負荷だ。
「俺は案内役だ。最高の特等席までお前を連れて行くって、さっき約束したばっかりだろ! ……三時間あるなら、上等だ。俺の足なら、余裕で間に合わせてやる!」
テオは、吹き付ける雪に目を細めながら、山頂へと続く険しい雪道へと一歩を踏み出した。
ズボッ、と。
雪に足が深く埋まる。
冷気が容赦なくテオの体温を奪い、肺に吸い込む空気は刃物のように冷たい。数歩歩くだけで、息がゼーゼーと切れ、心臓が破裂しそうなほどに早鐘を打つ。
『……テオ。心拍数、百八十を突破。……危険、です……』
「うるさい。お前のシステムのエラー表示は、今はミュートにしとけ」
テオは、ノエルの言葉を強引に笑い飛ばした。
「俺はな、お前のことを、最高の『本』にして世界中に売り出すって決めてるんだ。結末が『雪山で主人公を見捨てて逃げました』じゃ、三流のゴシップ誌にだって載らねえよ」
テオは、一歩、また一歩と、執念だけで雪山を登っていく。
風が強まり、視界は完全なホワイトアウトに近づいていた。
頼りになるのは、ノエルの背負っている革鞄の中にあるスケッチブックの地図と、彼女のわずかに残されたセンサーのナビゲーションだけだ。
『……右方向へ、十五度。……その先は、クレバスの危険が……』
ノエルが、テオの耳元で消え入りそうな声でルートを指示する。
「右に十五度だな。了解だ」
テオの指先は凍傷で感覚を失い、顔は真っ青に変色している。
それでも、彼は決して立ち止まらなかった。
『……テオ』
ノエルの冷たい頬が、テオの首筋に寄り添う。
機械である彼女には、本来「眠気」という概念はない。しかし、魔力炉心の出力低下に伴い、彼女の意識は深い泥水の中に沈み込んでいくような、強烈なシャットダウンの誘惑に襲われていた。
『……もし、私が、このまま……』
「寝るな!!」
テオが、血を吐くような声で叫んだ。
「おじいさんの最後の景色、まだ見てないだろ! ここまで来て、お前が諦めてどうするんだ! 俺にずっと話しかけてろ。なんでもいい、今まで旅してきた街のことでも、直したガラクタのことでもいいから!」
『……はい』
ノエルは、必死に意識を繋ぎ止めながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
『……水車の街の、パンは……美味しそうな、匂いがしました。……雨の宿場町で、テオが……泥まみれの馬車の商品を、売ってくれたこと……。……からくり街の、親方たちに……腕を、直してもらったこと……』
「あぁ、そうだな。あいつら、俺が適当な口八丁で誤魔化してやったのに、すっかりお前の魔法の糸に丸め込まれちまってたな」
テオは荒い息を吐きながら、相槌を打つ。
『……セントラルで、エレナさんが……私の手を、握ってくれた時のこと……。……全部、私の……大切な、記憶データ、です』
ノエルの声が、次第に小さくなっていく。
彼女の胸の奥で、命のカウントダウンを刻むような、弱々しい『トクン……』という音が、徐々に間隔を広げていくのが、背中越しにテオにも伝わってきた。
「あと少しだ。……あと少しで、山頂だぞ、ノエル」
テオのブーツが、厚い雪を蹴立てる。
彼の体力はすでに限界をとうに超えていた。膝は笑い、視界はチカチカと点滅し、いつ意識を手放してもおかしくない状態だった。
それでも、彼を突き動かしているのは、背中の少女がくれた『温かさ』への恩返しだった。
言葉だけの空っぽだった自分に、本当の絆と、守るべき真実を教えてくれた彼女の、最後の願い。
それだけは、何があっても叶えなければならない。
「……見えたぞ」
テオが、掠れた声で呟いた。
猛烈な吹雪の壁が、少しずつ薄れていく。
その向こうに、天を突くような巨大な氷の絶壁――『星読みの頂』の本当の山頂へと続く、最後の斜面が姿を現したのだ。
「着くぞ、ノエル。……おじいさんの、景色だ」
テオは、最後の力を振り絞り、氷の斜面へと足をかけた。
残り時間は、あとわずか。
命の灯火が消える前に、二人は世界の果ての絶景へと、最後の一歩を踏み出そうとしていた。




