第12話 『命の亀裂と、雪山の死闘(前編)』(1/3)
幻影の森を抜けた先に広がっていた黄金の麦畑を通り過ぎ、二人の旅路はいよいよ、大陸の北端にそびえ立つ最高峰『星読みの頂』の麓へと差し掛かっていた。
見上げる山脈は、夏だというのに中腹から上が不気味なほどの純白の雪と氷に閉ざされており、山頂付近は常に激しい吹雪の雲に覆い隠されている。そこはかつて、星々を観測するために古代の天文学者たちが命を懸けて登ったという、世界の果てに近い場所だった。
「おじいさんのスケッチブックの最後のページ……『星読みの頂から望む雲海と、世界で一番近い星空』。……目的地は、あの嵐の向こう側ですね、テオ」
ノエルは、麓の寒村の宿で、防寒用の厚手の毛布をテオの肩に掛けながら静かに言った。
彼女自身は、エレナから贈られた群青色の外套を纏い、背中にはおじいさんのスケッチブックとオルゴールが入った革鞄をしっかりと背負っている。王都の技師たちによって美しく修復されたその身体は、一見すると完璧な状態に見えた。
しかし、テオが温かいハーブティーをすすりながら、ふとノエルの胸元に目を向けた時、彼は妙な違和感に気づいた。
「……なあ、ノエル。お前、さっきから胸の奥が、変な音を立ててないか?」
「音、ですか」
ノエルは自分の胸元にそっと手を当てた。
チチチ……、ピキピキ……。
注意深く耳を澄ませば、彼女の衣服の奥から、冷たいガラスにひびが入っていくような、不規則で微弱な金属音が絶え間なく漏れ聞こえていた。
「自己診断を実行します。……出力、正常。駆動系、同調率九十五パーセント。……魔力炉心コアの状況を表示」
ノエルの左の青い瞳が、一瞬だけ白銀の光を放ち、彼女の視界に現在の内部データが展開された。
そこに表示されていたのは、これまでの旅で彼女が一度も見せたことのない、致命的な『赤色のアラート』だった。
『警告。主魔力炉心の内部障壁に、修復不可能な構造的亀裂を検知。現在の魔力融解率、三十八パーセント』
『予測稼働限界時間――約四十八時間。速やかに稼働を停止し、魔力炉心の完全交換を行ってください』
「……っ」
ノエルの表情は変わらなかった。しかし、音声モジュールの出力が、ほんのコンマ数秒だけ遅延したのを、隣にいるテオは見逃さなかった。
「おい、どうしたんだよ。画面に何が映ってるんだ? 見せろよ」
テオが身を乗り出し、ノエルの顔を覗き込む。ノエルは静かに目を伏せ、データを非表示にした。
「……何でもありません、テオ。ただの、経年劣化によるノイズです。歩行および修復タスクの実行には問題ありません」
「嘘をつくな!!」
テオが、バンと木製のテーブルを激しく叩いて立ち上がった。
彼の丸眼鏡の奥の茶色の瞳には、明らかな焦燥と、恐怖の色が浮かんでいた。
「お前が嘘をつく時は、いつも音声のテンポが遅れるんだよ! 俺を誰だと思ってるんだ、ずっと隣で手帳を書いてきた相棒だぞ! 隠さずに全部言え!」
テオの必死の剣幕に、ノエルはしばらく沈黙していたが、やがて、諦めたように静かに口を開いた。
「……私の魔力炉心は、限界を迎えています。先日の大水車の修復、そしてヴァルガス大尉の部隊との戦闘において、私の安全許容値を遥かに超えるオーバードライブを実行した代償です」
ノエルは、自分の胸元を静かに見つめた。
「おじいさんが私を廃棄場から拾い、直してくれた時、私の炉心はすでに寿命を迎えていました。おじいさんは自らの魔力技術を使って、その寿命をギリギリまで引き延ばしてくれたに過ぎません。……今の私には、失われた部品を再構築するための『ベースの魔力』が、もう残っていないのです」
「稼働限界は……あと、どれくらいだ?」
テオの声が、ガタガタと震え始めた。
「通常の歩行を維持した場合、約二日間。……四十八時間後には、私の魔力炉心は完全に停止し、私はただの、動かない人形へと戻ります。修復の確率は、コンマゼロパーセントです」
「二日……? そんな、馬鹿な……」
テオは力が抜けたように、椅子へとへたり込んだ。
セントラルの街でエレナに「大切な家族」と認められ、技師たちに完璧に直してもらったばかりだというのに。外見がどんなに美しく磨かれても、彼女の命の灯火である心臓は、すでにボロボロに擦り切れ、崩壊寸前だったのだ。
「王都の技師を呼ぼう! エレナさんに手紙を書けば、すぐにまた最高の技術者を――」
「無理です、テオ」
ノエルは、優しくテオの言葉を遮った。
「私の主魔力炉心は、大戦中に一握りの天才科学者たちだけが製造した、特殊なロストテクノロジーです。現在の技術では、代替品を鋳造することも、分解して修理することも不可能です。おじいさんがこの世にいない以上、私を直せる者は……この世界のどこにもいません」
それが、過酷な現実だった。
彼女は兵器として造られ、おじいさんの手によって「直すための心」をもらい、自らの意思で誰かを救い続けてきた。その全ての行動が、彼女の命を縮める歩みだったのだ。
「……テオ。私は、おじいさんの最後の景色を見たいです」
ノエルは、テオの手のひらに、自分の冷たい金属の指先をそっと重ねた。
「私の時間が止まる前に、あの山頂へ連れて行ってください。おじいさんが愛した世界を、この目に焼き付けたい。……それが、私の最後の『願い』です」
自動人形が口にした、初めての、そして最後になるであろう我儘。
テオは、溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、奥歯が砕けんばかりに強く噛み締めた。
物書きとして、彼女の旅の全てを記録すると誓った。彼女が辿り着く結末を、世界中に届けると約束した。だったら、ここで泣いて立ち止まっている暇などない。
テオは乱暴に目元を拭うと、眼鏡をぐいと押し上げ、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「……当たり前だろ、馬鹿野郎」
テオはノエルの手を、人間の温かい手で、壊れ物を労わるようにしっかりと握り返した。
「俺は案内役だぞ。どんな険しい雪山だろうが、世界の果てだろうが、お前を最高の特等席まで連れて行ってやる。……だから、四十八時間なんてケチ臭いこと言わずに、しっかり目を開けてついて来い!」
「はい。感謝します、テオ」
二人は宿をチェックアウトし、猛烈な吹雪が吹き荒れる『星読みの頂』への登頂を開始した。
一歩進むたびに、牙を剥いたような極寒の突風が、二人の身体を容赦なく打ち据える。
生身の人間であるテオにとって、この雪山は地獄そのものだった。雪に足をとられ、寒さで指先の感覚が失われていく。ノエルは、テオが倒れないよう、彼の腰を左腕でしっかりと支えながら、一定のペースで雪を踏みしめて進んだ。
しかし、登頂開始からわずか数時間が経過した、山腹の切り立った断崖絶壁の道。
ノエルの視覚センサーが、白い地獄の向こうから接近する『異常な魔力反応』を捉えた。
キィィィィン……!!
吹雪の音に混じって、鼓膜を不快に刺激する、魔導兵器の駆動音が響いてくる。
「……テオ、下がって。来ました」
ノエルがテオを背後に押しやった直後、前方の吹雪が激しく渦巻き、そこから巨大な影が姿を現した。
「ハハハハハッ!! 見つけたぞ、シグマ・モデル!!」
狂気を含んだ怒号と共に現れたのは、幻影の森で取り逃がした、あのヴァルガス大尉だった。
彼の背後には、凍てつく軍服を纏った数十人の残党兵たち。そして彼らの中央には、大戦中に要塞戦で使われていた、二足歩行型の『中型魔導重砲機』が、その巨大な砲口をこちらに向けて鎮座していた。
「執念深いですね、ヴァルガス大尉」
ノエルの声が、雪山の冷気よりも冷たく響く。
「当たり前だ! お前の炉心さえ手に入れば、我が軍は王都へ逆襲の狼煙を上げられるのだ! ……見たところ、随分と駆動音が不整脈を起こしているようだな? 炉心の寿命か!」
ヴァルガスはノエルの胸元から漏れる異音に気づき、下卑た笑みを浮かべて剣を抜いた。
「手負いの人形など、恐るるに足らん! その男ごと、木っ端微塵に粉砕してやれ! 魔導砲、放てぇッ!!」
巨大な砲口が赤黒い光を放ち、臨界点に達したエネルギーが、ノエルとテオに向かって一斉に解き放たれようとしていた。
ノエルの魔力残量は、すでに限界に近い。ここで力を使えば、彼女の寿命はさらに縮まる。
それでも、彼女は迷うことなく、自らの十指から銀色の『魔力糸』を激しく解き放った。




