幕間『爪痕』
ルコッチャは一人自分の部屋に戻った。
そうして部屋の明かりを消してから一人毛布を巻きつけて横になる。
優しい男の子、自分のような――人なのか怪物なのか定かではない人間にさえ優しく接してくれるシオン。
「きらいにならないでね……」
だからこそ、失う事が怖かった。
だからこそ、改めてあの姿になる事は禁じねばならない。
そう自分に言い聞かせる。目を閉じ、横になるうちにウトウトと眠気に苛まれ――ゆっくりと夢の形を取って思いだしていく。
おとうさんがしんだ。
おかあさんがしんだ。
幼い頃のルコッチャにとってはそれは、今までの世界全てが壊れることに等しかった。
それでも歯を食いしばって生きてこれたのは、二人の妹がいたから。
両親が死んだのなら、一番の年上である自分が二人を両親の分まで幸せにしてあげないといけない。
ボアレス族長も他の狩人も少女の頑なな思いを否定できなかったし、何より彼ら自身、ルコッチャには天凛があると認めた。
獲物を仕留める剣鉈も手斧も弓も、大人顔負けに扱うことができた。
だからこそ、狩りの簡単な獲物を取る事を認めたし、下の妹二人を守ろうとする気持ちにうたれて黙認する事にしていたのだった。
ある日、祭りの時期が近づいてきた。
この地へと自分達を導いてくれた蜥蜴爺と呼ばれる人への感謝の祭りだった。
その時期に備えて、妹二人に何かご馳走を取ろうと思い――心が急いた少女は、ごく当たり前のように失敗をした。
地盤が緩く、坂道から転げ落ち。
何度も体を地面に叩きつけ。ようやく止まった時には彼女は死に瀕していた。
痛いし、苦しいし、寒いし、寂しい。
けれども死に瀕した幼いルコッチャは、何よりも……妹二人のことばかりを考えていた。
自分が死んでしまうのは仕方ないけど、二人はこれからどうなるのだろう。どうにも口惜しい、どうにも悲しい。けれどもそう思っても、指先一つさえ動くこともない。
ああ、このまま死んじゃうのか。
おとうさんとおかあさんも、わたしたちを残して死んでしまうことを、とても残念がったのだろうなぁ。
いざ死に瀕したがゆえに、両親の心を少しでも感じ取れて、ルコッチャはほんの少し、嬉しいと思った。
そして、嫌だなぁ、とルコッチャは思った。
痛い、苦しい。死とはもっと鋭く迅速なものだと思っていたのに、実際に体験する死とはひどくのろのろしていて、緩慢でさびしいものだ。
魔物に食べられるのは怖いし、嫌だ。
とにかく誰かなんとかしてくれないかと思いながら、口内に溢れる鮮血の臭いにむせかえり。
のそり、と蠢く影に気づいた。
それは蜥蜴のような人影だった。
口蓋から覗くのは鋭い牙。腕には切れ味鋭い短剣を連ねたような鋭い爪。巨大な二足歩行の蜥蜴はルコッチャを見つけると、長い尾を揺らしながらゆっくりと近づいてきた。
それは――魔兵と呼ばれる、殺戮しか知らないおぞましいバケモノだった。
少なくとも、ルコッチャはそういうものだと大人達から教えられて生きてきた。
どうして里の近くに凶悪な化け物がいるのかと不思議に思ったけど、同時に納得もする。こいつはわたしを殺して食べるためにやってきたのだ。そう感じた。
『ああ、可哀想に……』
だからバケモノが、我が身を恥じるように全身をローブで覆い隠しながら声を発したとき、ルコッチャはとてもびっくりした。
なぜなら、魔兵の発するその声は……おとうさんやおかあさんと同じぐらいに優しかったからだ。
ルコッチャは驚きで、肺に突き刺さった肋骨の痛みさえ忘れて目を見開いた。
この人だ。
この人が火蜥蜴の氏族をこの地に導いたという、里の開祖である『蜥蜴爺』だと思った。
蜥蜴爺は何百年も昔の人物で、普通はそんな事あるはずがないと思うけど……幼いがゆえの直感は揺るがなかった。
『……わたしは、君達の祭りがいつも嬉しかった。わたしへの感謝を捧げてくれる祭りを、遠くからじっと見守るたび、喜びが我が身を満たした。
永劫にも思える長い間、王国最悪の裏切り者との戦いを続ける活力をわたしに与えてくれた』
そう言うとルコッチャの目の前で、その魔兵は膝を突いた。
掌から痛みを和らげる治療の光を発し、それをルコッチャに押し当てる。完治は無理だけど、ほんの僅か痛みが和らいだ。
魔兵は涙の代わりに血涙を流し、わたしと目を合わせる。その鋭い爪で頭を掻き毟り、鱗を抉り鮮血が溢れても気づかぬまま声を上げる。
『すまない。本当にすまない。わたしがかつて救った子供達の子孫よ。わたしは残酷な処置を君に施す。
君の肉体の奥底に眠る『試作型魔兵』としての因子を呼び覚ます。そうする事で、君の肉体は再生する。
……ああ、ああっ! 君を人のまま死を見取ろうとせず、人でなき怪物にしてまで生かそうとするわたしの浅ましさを許してくれ!
わたしは弱くなってしまった! 人が目の前で死ぬ事が到底耐えられないのだ! もうたくさんなのだ、仲間達はみな死んだ、ムーンボウからこの地上へと降り立ち、地上の復興と平和のために尽力した友も『結社』によってほぼ殺されてしまった! そして大勢の人々は――ああ、口に出すことさえ躊躇われる、あまりにおぞましいやり方で死んでしまった!』
そこまで声を上げた魔兵は――不意に静かな声で語りかける。
『……今代の族長にのみ、里の真相とわたしの事は伝わっているはずだ。彼に話しなさい。
……大丈夫。目を覚ます頃にはもう痛みはなくなっている。
恨むでも憎むでもいい、だが、できるなら生きてくれ。……君が、君の事を受け入れてくれる人と出会うことを願っている』
夢の中で夢を見る、それは妙な感覚だった。
あの蜥蜴おじさんと出会ったことは夢だったのだろうか? にしては、あの鮮烈な激痛は一生忘れないほどだった。
再び意識を取り戻した時に、体から綺麗さっぱりと痛みが消えているのを感じるとむしろ不安さえ感じる。痛みがなくなるのはもう死に掛けているからだと思った。
「……これは、なんだ?」
「ルコッチャ……いや、それにしては……この爪は一体」
だから自分を見る大人達の視線に、ルコッチャは自分がまだ生きている事を思い出す。
目を開け、状態を起こす。
「ううっ?」
おかしい。
多分死ぬだろうと思うほどの激痛に苛まれていたのに、今ではけろりとした自分の体。体の中で骨が折れる音が何度もしたのに、今ではびっくりするほどに普通で。
目をこすろうと思って持ちあげた自分の腕に、絶句した。
「な、なにこれ」
爪だ。
それも普通の奴ではない。ワイバーンの爪もかくやと言わんばかりの巨大な鉤爪と、その鉤爪を支えるに足る巨大な腕。それが……自分の意思で動くことが、なんだかとても恐ろしい。
どういう事なのだろうと思って起き上がり、顔見知りの狩人に視線を向ける。
「あ。あの」
「う、動くな!」
ルコッチャは声を掛けただけなのに、狩人の反応は――目の前で魔獣が牙を剥いたと言わんばかりの警戒心に満ちていた。弓を構え、こちらへの間合いを取ろうとじりじりと動く。
その反応が恐ろしかった。
まるで自分が、狩り殺される魔獣だという事にされてしまったみたい。
泣きたくなった。妹たちに永遠に会えなくなるのではないかという強烈な不安に駆られる。目の奥が熱い、喉がしゃっくりを上げて、ひっく、ひっくと声を溢す。我慢しないと、お姉ちゃんだから我慢しないと、そう言い聞かせて頑張ってきた少女の体はもう限界に来ていた。
「ふぐぅうわああぁぁぁ~ん!!」
ぼろぼろと涙を溢し、泣き声は次第に号泣になる。
なのに、狩人たちはわたしが魔獣であると言わんばかりに弓を番え、子供の声と泣き声などには惑わされぬぞと言うように油断ない。
今まで泣いていたら慰めてくれたのに。
どうしたのだ、と心配してくれたのに。
頭を撫でてくれたのに。
まるで怪物に向ける視線でわたしを見る。
泣く子には勝てぬという言葉は嘘だ。
わたしは子供ではなく魔獣なのだ。
あの――蜥蜴おじさんは、きっとこの事を謝っていたのだ。
狩人になった。
あの日の事をきっかけに、わたしの体はより一層強力に、化け物じみた能力を持つようになっていく。
けれどもわたしの爪を見た大人達は、族長の言いつけどおりに黙ってくれたけど、遠巻きにするようになり、若い狩人もその空気を察してわたしに近づかなくなった。
両親が生きていた頃の夢は、お嫁さんだった。
でももう無理だ。わたしを誰も彼も遠巻きにする。お嫁さんになんて絶対になれない。
可愛い赤ちゃんを抱いてみたかった。
でももう無理だ。
刃物よりも鋭い爪と牙は触れるだけで、柔らかな赤ちゃんの肌を傷つける。
心の中に、あの蜥蜴おじさんの言葉が蘇る。
『君が、君の事を受け入れてくれる人と出会うことを願っている』
無理だよ、無理だよ。おじさん。
隠さないといけない。
シオンには、この『爪』を、絶対に知られてはいけない。
もし知られてしまったなら、もう愛してはもらえないのだ。




