秋の大草原を、駆ける
草原の秋。
「うあああ。」
灌木の陰で、隠れるとも無く裸体をチラつかせて、大あくびをしている。
贅肉の一切を削いで鍛え抜かれた若い男の肉体。部族の女どもが見たら、また黄色い声で騒ぎ立てるだろうが、幸い大草原の真ん中には誰もいない。
「ああー、と。」
あくびを終えたこの男。
姓は草、名を称条という。
あまりの大あくびで、両目に涙を浮かべている。あどけない表情は、いまだ少年であった。一重の割に大きな目がキラキラと輝き、鼻梁は高くすっきりとして、体全体に爽やかな印象のある若者である。
右手の布巾で身体を拭う。十一月、葬州の風は身を切るような寒さだが、草称条の裸体は汗で濡れていた。
草称条は身体をゴシゴシ拭きながら、天を仰いだ。
「ふうう。気持ちいいなあ。」
「ぶるるる」
と、馬の鼻音が聞こえた。
「お。眩幻も気持ちいいか。」
灌木に一頭の馬が繋いであった。眩幻と呼ばれたその馬は黒色で、飼い主と同様に汗で光っていた。足元の小さな泉から、湧き水を舐めている。
「ぶるる」
そして、眩幻は再び鼻を鳴らし、天を向いた。
秋の蒼天。
筋雲を数条走らせた壮大な天蓋が、茫漠とした朽葉色の大草原をゆったりと見下ろしている。
草称条は革袋から新しい服を取り出して着用すると、自分を拭いた布巾で、眩幻の馬体を拭き始めた。
「眩幻、空ばかり見てるな。ほら、北山も青くてきれいだぞ。」
「ぶるる。」
草称条は筋張った右手で北を指差す。
その先には、葬北山脈がひっそりと遠く横たわっていた。
ここは葬州北部の大平原、葬北山脈の南麓。草称条と愛馬の眩幻が休憩している灌木の小林は、地元では葉回叢と呼ばれ、視界を遮るもののない草原にあって、ポツンとここだけ赤子の産毛の如く、数本の木立が寄せ集まっていた。
黒々と光沢が増した眩幻の馬体を、布巾で更に磨き続ける。眩幻は素直に、馬首を北の大山脈に向けた。
「そうかあ。お前ももう一ッ走りしたくなったか。なあ、思いっきりまた駆けるか。」
葉回叢まで駆けてきたのに、また荊舒林に戻るのか。
無駄にしか思えぬが、この馬好きの若者に限らず、葬州民の多くが馬と一心同体であり、風を切るように愛馬と草原を疾駆するのが無上の快感であり、目的地など無いことが殆どであった。ただただ馬を走らせるのである。
草称条が目を細めながら、なおも眩幻に話しかけていると、かなたに連なる葬北山脈と草原のおぼろげな境界辺りに、芥子粒の如き小さな点が現れた。
「ん。荊舒林からかな。」
と言っている内に、グングンと点は大きくなり、小指の先から、親指大になり、
「なんだ、象海王と馬辺策さんだぜ」
「ぶるっ」
と言う間に拳大に拡大して、馬蹄の音ともうもうと舞う土煙に目を奪われていると、
「眩幻!草称条っ!」
と馬上からの大喝が耳をつんざいた。茶褐色の大きな馬が一直線に突っ込んでくる。
ずざざー
手綱を強く引かれた象海王が、草叢に蹄で突っ立ち、急停止した。
草称条の鼻先まで、筋肉隆々たる茶褐色の馬体が迫ったが、彼は瞬き一つせぬ。
「馬辺策さんっ」
草称条は、象海王にまたがる惹朱馬辺策を見上げた。満面の笑顔である。
「やっぱり象海王は、速いですね!」
そうして大きな象海王の馬面を、撫でくりまわした。
「ふんっ。騎手の腕が良いからよ。」
惹朱馬辺策は、親指が入りそうな鼻の穴を拳が入るのでは、というくらいに更に大きく広げ、ふんぬ、と鼻息を吹いた。
しかし、目上である惹朱馬辺策のそんな様子に委細かまわず、我が愛馬をなだめまくっているあどけない草称条を見下ろしている内に、顔の朱はすっと引いていった。
そしてにわかに厳格な顔相に変わり、馬上から重厚に言い渡す。
「草称条よ。旅礼甦様がお呼びだ。俄斉晴様もご一緒である。」
すぐに象海王から手を離すと、草称条は「うぃっす」といななくように返事して、馬辺策を見上げながら敬礼した。
「即、行きまさア。」
「戦だ。」
惹朱馬辺策は冷酷に言ったが、若者はいよいよ爽やかに笑うだけだ。
「伝えたぞ。」
惹朱馬辺策は馬腹を蹴る。愛馬、象海王は勢い良く前脚を宙空に掲げる。
その際。灌木につなげられた眩幻を、惹朱馬辺策が一瞬慈愛の目で見たのに、草称条は気づいた。
象海王は巨大な太腿を筋肉で波うたせると、一気に地を蹴る。馬蹄が草を、土を抉り、散らかし、その反動で急発進した。そして南へ、葬北山脈や荊舒林とは反対の方角へ、一直線に駆けていく。見る間に豆粒大に、小さくなっていく。
草称条は、にやけながらそれを見ている。白い歯が見え、うししし、と笑い声を漏らしている。
「大したもんだなあ、眩幻。」
パンパン、と馬体を叩く。
「ぶるるるん」
眩幻がいななく。
そして、秋空を仰ぐ。
「馬辺策さん、お前を気に入ったようだぜ。あの人に見出されるなんざ、そんじょそこいらの良馬じゃあ無理。よほどの駿馬ってことだ。」
たてがみを撫でる飼い主の興奮が、眩幻にも伝わって、
「ヒヒーン!」
と寒風を断ち切るように、鋭くいなないた。
目の良い草称条にも、象海王に乗った惹朱馬辺策は、南の地平線かなたに消え、すでに見えぬ。
凄まじい速さと言えるが、草称条は大きな一重目をいたずらっぽく光らせた。
「あのでっかい象海王よりも、お前の方がきっと速いぞ。」
言うが早いか、草称条は眩幻の背に飛び乗った。
「行くぞ。族長達のお呼びだ。」
馬上の草称条が少し腰を浮かし気を入れると、棹立ちして前脚を宙空高く掲げる。象海王ほどの豪快さは無いが、ぴたっと姿勢が止まり、黒い細身の馬体は、大草原の何よりもその輪郭を際立たせていた。
がっ
馬蹄は大地を蹴り、駆け始める。
時を置かず、眩幻は自らの最高速に近づいていく。茫漠とした大草原の風景が、大風に吹かれるが如く、視界の後ろへすっ飛んでいく。
ぐんぐん、葬北山脈が迫る。
東西に横たわる青い連山を背景に、莞包旅礼甦の威厳ある風貌と、嫡男・俄斉晴の穏やかな笑顔が目に浮かぶ。緊張と期待感で、内股に汗がふき出した。
眩幻の脚が更に速まった。
騎手の昂りを感じ取ったか。
(ふふ。やはり、象海王より速い。)
草称条は振り返る。
まばらな葉回叢の林はもう、はるか草原の地平線にかすんでいた。
眞暦1829年11月。
草家の人間が、まだ莞包家の馬廻という身分だった頃の話である。
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葬州中部




