北避松風
分厚い曇天の下、村に吹く風はすでに冬のように冷たい。松の大木が、ざざっ、と葉を揺らしている。
「村長、十月にこんな寂しい田を見るなんて。」
「隼旬、何度も言うな。斐界の全てが、穣界、附類明證、各方三籠、そしてこの楽界と、全てがこの状態なのだ。」
例年であれば黄金色の穂が垂れているはずの村の美田は、二人の目の前に無い。有るのは発育不良で枯れ、または黒く腐り、たまに籾が付いているように見えても中が空洞である等、稔り無い稲で満たされた、無為な草むらだけであった。
村長である隼曳汾は、真っ白な眉を寄せて、これ以上無い渋面だ。
甥っ子の旬が賢しらに言うのが、腹立たしい。
「しかし。駄例晋周辺で随一の沃土を誇ったこの隼可村の良田が。村民は飽食に慣れています。このような困窮ではすぐに我慢の限界を超えます。冬を待たずに暴動が起きましょう。あの松の皮も剥がれて食われてしまうでしょう。どうするのですか、村長。」
うるさい奴だ。この世の全てが今夏の冷害で飢えているのだ。どうしようもあるまい。
隼曳汾は白い口髭を震わせながら、つとめて平静を装う。
「七月からずっと涼しい、涼しいと言ってきたではないか。それ程、今年の冷害は大変なもので、歴史的なものなのだ。だから仕方ないだろう。」
早く話を終わらせて、屋内に戻り、布団をひっ被って昼寝したい。そう言えば、目眩がするような気がする。
「1793年の黄翼山噴火の時も酷かったがな、あの時は楽界の豊かさで何とか斐界は乗り切れた。しかし今回はもっと寒いし、楽界までがこんなことになっているのだ。」
隼曳汾は、黙れ、という念を目に込めて、甥の旬を睨み据えた。
隼可村。
騅州東部、中核市の駄例晋から北へ十kmほど離れた農村である。大河楽河の北側、竜證山地の南麓に広がる騅州は、他の楽界諸州と同じく、温暖な気候と豊富な内水に恵まれ、灌漑に困ることも無く、地は肥え、稲作を中心に高い農業生産力を誇る穀倉地帯だった。その騅州の中でもここ隼可村は頭一つ抜けた存在で、収穫される米は味が良く、村を象徴する巨松から「隼松米」の名で高値で取引された。また、疫病が少なく、灌漑施設も整備されており、労働力の供給及び水田の耐久性が優位で、かなりの安定生産を実現していた。こうしたしっかりした経済基盤が、村民の富裕な生活を可能にしていた。
今は、眞暦1832年10月。
隼曳汾は、膨れた腹をさすり、
(わしもだいぶ痩せてしまった。)
と思いながら、村長邸の低い望楼の上に、同じように太った生意気な甥と一緒に立っている。低いと言っても村全体が平坦な低地であり、一本松の向こうの、隣の煮屏村との境界まで見渡せるのだが、彼の淡く白濁した瞳は何を見ているのか、ふらふらさまよっている。一望二km四方、どこを見ても潰滅的な稲田ばかり、何度見てもそれは変わらないし、ただ絶望感が増すばかりだ。網の目のように張り巡らされた水路も、今日は空を映して陰鬱な灰色である。ぽつぽつと村民が歩いているのが見えるが、この少しの間に皆体が細くなっているように感じられ、隼曳汾の心は辛気臭く、塞いだ。
「村長」
隼旬の呼びかけにも、隼曳汾は応えない。瞳に何も映さないまま、彼はぶつぶつとつぶやいている。まったく、なんでわしが村長の時に限ってこんな冷害が起こるのだ。先代も、先々代も、ちっとも仕事をしないくせに、村が豊かだから何もかもうまくいって、首長として崇められていた。もしこんな大冷害が任期中にあったら、彼らは絶対に対処できなかったはずだ。
ぴゅっ、と北風が二人に吹きつける。
「うっ」
隼曳汾は思わず呻く。ただひょろひょろと伸びているだけの稲も、風になぎ倒された。村民たちも布着の前をかき合わせ、そこここで身を縮ませている。巨松だけは、根がしっかり地に張り、枝はしならせながらも、危なげのない体である。
騅州平野の地平線の上、鬱屈した雲が大空を覆い、隼可村は押し潰されそうだ。
「‥‥ん長。」
まだ隼旬が耳元で呼んでいる。うるさい奴だ。
「‥‥ニカライが‥‥義倉を‥」
「うるさいわ。どうにも、策は無いっ。」
「ですから。食えるんですよ。食糧があるから。」
「ん?食える?あ、ああ、ああ。義倉か。どこかに義倉があるのか。」
ここで甥は大袈裟にため息をついて見せた。
「やはり聞いてませんでしたか、村長。もう一度言いますよ。」
隼旬は樽のような腹をさらに反らせ、偉そうに語る。この腹は隼一族の遺伝だな、と隼曳汾はどうでもいいことを思ったが、甥の情報が重要なことは、その老いた脳味噌でも理解できて、肥満遺伝の検討はすぐに頭から消し去られた。
「庇州王尼乎磊が義倉を開くというのです。自国の庇州では座に、支配下に置いた坡州ではかの塾夢塾に、それぞれかなりの備蓄をしていたようです。」
「塾夢塾!あの昱右が、尼乎磊の言うことを聞いたのか。」
「いや、褐剣髯がいた頃から自発的に義倉は開けてたらしいですよ。それで避難民を取り込んで、農園を拡大していったのです。教育がしっかりしているらしい。是非私も『穣南龍鱗』に教えを請いたいと思っています。」
「しかし、よく分かったな、お前。その義倉の話」
と、感心しながらふと、引っかかった。
取り込む?
塾夢塾に行ったら、我々は取り込まれて、洗脳されて、この隼可村に帰ってこれなくなってしまうのか?
得意げに鼻の穴を膨らませ、隼旬はその穴から大量の息を吹く。
「はは。駄例晋の酒家ではこの話で持ちきりですよ。ただ、まだ動いてる村は無いみたいです。」
こいつは帰って来ないような気がする。いや、少なくとも塾夢塾にカブれてしまうだろう。向こうは稲作ではなく、麦や黄粱が主だから、何を教わろうと無駄だろうに。
そう言いつつも、隼曳汾にだって興味はあった。
「塾夢塾ねえ。」
その証拠に行き先の候補は、座ではなく、塾夢塾に絞り込んでいる。
再び、低い望楼の上から村を見る。
見れば見るほど、寂しい田園だ。だが、その中で巨松だけが高々と勇ましい。
「ふう、楽界の飢えを穣界が助ける時が来るとはな。煮屏村へ行こう。」
「お。決断されましたか、村長。しかし、なぜ隣村へ。」
顔中の肉を揺らしながら、隼曳汾は話す。目の白い濁りはそのままだが、もうさまよってはいない。
「隣村同士で協力し、合して動く。長い避難行だ。道中、賊徒に襲われることもあろう。人数は多い方がいい。二村の蓄えを合わせて、穣界まで‥行けるか。」
「行けましょうとも。いや、行かねばなりません。」
「煮屏村の煮飩はわしが口説く。まあ、乗るだろう。」
また冷たい風が吹く。
体を縮ませながら、風が吹く方角を思う。
北へ。
隼曳汾は心の中で、巨松に言い訳をしていた。
(策は無いと思ったら、あった。すまんが、あんたを置き去りにする。)
村の低い望楼に立つ、太った二人。
そして、雄々しい巨松。
去る者と残るものが、寂しげな村で対峙している。
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騅州




