孤峰の夕、弟の首に問う
夕刻。
五月の西日が、大盆地の只中に凝然と屹立する岱耳峰の岩壁を、茜色に染めている。
バシュー
首を斬られた兄の体から血飛沫が噴出するのを、山軋当は人形の如き小造りな顔で見つめていた。
兄 ― 次兄・山耗 ― の首が市政殿の中庭に転がる。しばらく転がり、庭木立の影が切れ、西日の当たる日向で止まった。切断面を下に、少し傾いて首は、丁度立った。
これが、四年もの間、鋤州に立て篭って山猟二州の大軍を撃退し続けた梟雄の最期なのか。
精悍で、薫る美髯をたくわえたその顔は整っていて、十五年前に凱源の女たちを夢中にさせた美少年の面影を、あちこちに残している。西日をキラリと跳ね返す青みがかった瞳は、妹の山軋当から見ても妖艶だった。
今はもう、一個の生首だが。
「 山仙兄。これでようやく三籠侯、ですわね。」
山軋当は、左隣の床机に座る男に笑いかける。長い睫毛を薄青の瞳に少しかぶせながら、男を、もう一人の兄の表情を探る。
もう一人の兄 ― 長兄・山仙 ― の横顔は、いかつい。高い頬骨、深い眼窩に大きな濃茶の瞳、大鷲の嘴のように大きな鼻、張り出した腮。夕日に照らされ、起伏に富んだその顔面には、凹凸毎にくっきりした陰影が刻まれていた。
(本当に兄弟なのかしら。)
彼女が山家に生まれて三十年。二人の兄の対照性をずっと不思議に思い続けてきた。いや、次兄の山耗には、父母それぞれの相似が認められ、山軋当にも似ている訳だが、長兄の山仙は一人、違う。
捨て子。
取り違え。
母の不倫。
風に乗って聞こえてくる市井の詮索、家の使用人が竈に隠れて立てる噂、酒席でつい口を滑らせる官僚、圧力をかける為に敢えて話題に出してくる拾閣臣。
― 軋当。本当は兄じゃない男にこうまで肩入れするとは。お前、彼奴を好いておるだろう ―
夫、山州王峻喬侖は、山軋当を愛しながら、そう詰り続けたものだった。
その夫はもういない。なぜか山軋当は、山仙の大きな鼻をながめつつ、心中で確認する。
「下界の奴らは、わしを『三籠公』などと思っておるまい。」
山仙が唸るように、低い声を発した。地獄の底から聞こえたか、と錯覚する。
彼女がもう、何年も感じていることだが。
「そんなことはありませんわ。確かに山耗兄が起こした叛乱のせいで、かつて双瘤と恐れられた三籠の地位は揺らぎました。穣界、楽界の諸侯は、峻三籠よりも私たちをくみしやすいと思っておりましょう。」
山仙の横顔は変わらず、いかついままである。目は、彼の弟の遺骸に向いてはいるが、見てはいないと思われた。
大山央盆地にいるよりも、この岱耳峰の上にいる方が空に近い。比高はたかだか三百m程度であるし、気のせいだとは思う。だが現実的に空気が薄く、鳥が多く飛び交っている。そう、感じる。
山仙兄は、庭に飛来している椋鳥を眺めているのよ ―
そう思うことにして、山軋当は茜色に染まる長兄の横顔に、言葉を続ける。
「でも、これで三籠は立て直せます。始祖の峻僧炎公、啄飯道討伐に大功あった峻江彩公。下界に三籠の威を示された皆様と、山仙兄は肩を並べて」
ここまで言って山軋当は、兄の横顔に注視する。しかしまったく変化が無く、少し当てが外れた気分で言葉を続ける。
「並べて― おられますから。下界の諸侯と比べても、器量は随一。妖天、閥檜、尼乎磊、零揮甕、媼蠱、泳村郭。皆、山仙兄には敵いますまい。」
夕日は少しづつ傾いて、紅い輝きを増すとともに夜の気配を忍ばせてくる。東方の峨々たる峨晃山脈から吹き下ろされる風が市政殿の壁を打つ。
岱耳峰は風を遮れぬ。
峨晃山脈から西へ伸びる岱雲山地。大山央盆地の只中に食い込む形になっている。この山並みの西端に、外耳を横にしたような、巨大な岩塊がそそりたっていた。もとはこの岩塊を岱耳峰と呼んでいた。今、山軋当たちが居る市政殿は、この岩塊のそれこそ峰にあり、四方風の吹きさらす空中に立っているといえる。北〜西〜南の三方に大山央盆地が広がり、東方には三籠と下界を屏風の如く仕切る峨晃の大山脈。この岱耳峰は、三籠山州における中原を眼下におさめる、抜群の展望の地であった。なお今は、岩塊の下に広がる尾根や麓の平野まで人家が建ち、「岱耳峰」は、山州中部の重要都市を指す呼称に変わっている。
山仙の沈黙が続いている。
兄弟で泥沼の戦乱を繰り広げ、今兄が弟の首を刎ねたばかりなのである。言葉が少なくなるのもむべなるかな、と思い、山軋当はただ、ゆっくりとその長い睫毛を上下させ、呼吸を静かにし、長兄・山仙が口を開くのを待った。
山州の広い空が、茜色から濃い紫へ、刻々と色を変えいく。
衛士の一人が沈黙に耐え切れなかった。「仕舞いましょう」と一言断ると、紅い絹布を片手に中庭に飛び出してきて、山耗の首を包もうとした。
その瞬間。
「待てっ」
地獄の門から吐き出された業火か。山仙の一喝はそれほどに恐ろしく聞こえた。衛士は「ひっ」と縮み上がり、絹布を取り落として、中庭にぺたりと尻餅をついた。
山軋当もどきっ、として薄青の瞳を大きく見開いた。
当の山仙は、いかつい横顔に何の感情も浮かべていない。山軋当も尻餅をついた衛士も、山仙が次に何を言うのか、ごくりと喉を鳴らしながら、ただ待つ。
夕暮れの日向、中庭に生えたかのように置いてある山耗の生首は少し口を開いて、山仙に正対している。山仙もまた、山耗の首をじっと見つめている。
そして、輝きを失った青みがかった瞳を覗き込みながら、おもむろに語り始めた。弟に話しかけるように。
「この閉ざされた三籠の天地で小競り合いをしとる時勢ではない。穣界を見よ。機によりては我らが勝てる。」
日は落ちゆく。
夕闇の中、山耗の首ももはや顔が判別できないほど暗くなっていた。
その暗がりの生首に山仙は、問う。
「いいか、峻僧炎公のように山を降りずして、何の三籠侯ぞ。下山してこそ、真の三籠公というのじゃ。」
また風が吹く。
未だ冠雪する峨晃山脈から降りる風は、しかしさすがはもう五月、少し緩んできた。
尻餅をついた衛士はいつしか立ち上がり、中庭に篝火を焚き始めていた。
篝火がはぜる音ともに、また二人の兄の顔が夕闇に浮かび上がる。長兄山仙のいかつい顔はいよいよ勝ち誇り、次兄の生首は時間とともにその美麗が崩れてきている。
そして。
山軋当の人形のような小造りな顔は、同じく篝火に照らされ、また少し先ほどと趣を変えていた。
「夫も身体が満足でしたら、下界に降りたでしょうなあ。」
山仙が思わず、山軋当を振り向いた。
山軋当は、山仙の顔に走る緊張を確認した。
対して兄には、山仙には、
(私の顔がどう見えたかしら。)
― きっと、火に照らされた妖しく満足気な女の顔を、見たでしょう。どんどん皆が夫のことを忘れていく、でもこうやって言うことで、岩石みたいな新三籠公も思い出してくれる ―
中庭に、篝火のはぜる音。
「嬉しいですわ。」
山軋当の呟きを最後に、山家の三兄妹は沈黙した。黙して語らず、夜の時間だけが過ぎていく。
眞暦1836年5月。
山州中部、岱耳峰の市政殿にて、山仙は弟の山耗を斬首し、四年に及ぶ兄弟相克の内乱を鎮めた。
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山州中部




